みどりのいろ
MチャットのVさんのお部屋に捧げる
「......悪く思わないでおくれ。村の皆の為なんだ。」
お母さんの声は、何かに耐えるように震えていた。農作業と縄結いで荒れて、固くなった手が、私の肩に置かれている。
私は小さく笑って、口を開いた。何か、お母さんを慰められる言葉を言ってあげようと思ったのだ。
けれど、喉の奥からはどんな言葉も出てこなくて。
雨と濁流の音が、辺りに響いていた。
――
「千代、藻神様への”捧げもの”は?」
「ちゃんと準備できたよ。」
こちらを振り向いて尋ねるお母さんに、”捧げもの”の入った籠を掲げて見せる。中に入っているのは畑で採れたお米と、山で狩った動物の肉だ。藻神様は湖や川の神様だから、お魚は食べないらしい。だから捧げるものは、いつもお肉とお米。
「今年の”捧役”は千代ちゃんかぁ、失敗しないように頑張れよ。」
そう言って腕を組むのは、色葉君のお父さんだ。おじさんの肌は日に焼けていて浅黒く、体はがっしりとしている。この村の男の人は、皆そうだ。特別なのは、色葉君だけ。
「大丈夫だって。今までに失敗した人なんて、いないでしょ?」
「千代っ!」
おじさんの言葉に軽く言い返すと、お母さんの怒声が飛ぶ。びくっと体を縮こませて、おそるおそる後ろを振り返る。すると思った通り、お母さんは両目を釣り上げて怒っていた。
「......そういう風にふんぞり返ってる人が、藻神様を怒らせるんだよ。」
お母さんの言葉に、背筋が寒くなる。この村を守ってくれる藻神様は、一度怒らせてしまったら、もう村を守ってくれなくなる。だからこの村では小さい時から、「何があっても藻神様にだけは失礼のないように」と教えられるのだ。
「まあ、千代ちゃんのおっ母さんが心配するのも無理はねぇや。捧げものをする時に何か失礼があったら、この村は見放されちまうからなぁ。」
おじさんが更に不安を煽るようなことを言って、からからと笑った。そしてその後に、「まあ、千代ちゃんはしっかり者だから大丈夫さ」と続ける。けれども、そんな言葉で安心はできない。誰も、怒った藻神様がどうすれば許してくれるのか、知らないのだ。
「いっそうちの色葉も、藻神さまへの捧げものにしちまうかなぁ。」
そう呟くおじさんは、物凄く汚らしく感じられた。
――
「......ごめんね、千代。ずっと迷惑かけっぱなしで。」
布団の中から、掠れた声が聞こえる。いつもと同じ、物凄く申し訳なさそうな声に、私は小さく笑ってしまった。桶の中の冷たい水に布巾を浸して、きゅっと絞る。
「そう思うんだったら、ゆっくり休んで元気になって。」
濡れ布巾を額に乗せた色葉君の肌は、雪のように白かった。
おじさんの家に生まれた色葉君は、生まれつき体が弱い。外で男の子と一緒に走りまわるような元気はなくて、どちらかというと女の子と一緒に遊ぶことのほうが多かった。大きくなってからもそれは同じで、農作業できるほどの力もないし、一か月に一回は必ず熱を出す。労働力にはならない色葉君のことを、おじさんが穀潰し呼ばわりしているのは知っていた。それに、この村では、子供は仕事やお手伝いができるのが当然であることを。けれども私は、そんな色葉君のおじさんのことが許せなかった。
小さい頃によく一緒に遊んだよしみで、私は今でも色葉君の看病をしに来る。
「......ありがとう。今年の捧役は、千代なんだよね?」
「うん、そうだよ。ついさっきまで、”捧げもの”の準備をしてたの。」
色葉君はちょっとこちらに顔を傾けて、私のほうを見た。三年に一度、藻神様に捧げものをするのは、女の子の役目。その捧役は、いつも私くらいの年齢の女の子から選ばれるのだ。だから、今年は私だと聞かされた時にも、特に驚かなかった。
けれど、時間が経って捧げものをする日が近くなってくると、私はだんだん怖くなってきた。白い着物を着て、湖に”捧げもの”の入った入れ物を沈める。それだけの簡単な仕事でも、失敗すれば藻神様を怒らせてしまう。そのことを思うと緊張で、夜も眠れないのだ。
「......失敗しないように、気を付けてね。」
そう言う色葉君に、私はあからさまにむっとしてみせる。一番それを気にしているのは私なのに、皆同じことを言う。その言葉を聞くたびに、息苦しさが増す気がする。失敗を許されないことへの緊張と、焦りがどんどん募る。
「......みんなそうやって心配するの、もううんざり。別に助けてくれる訳でもない癖に。」
「それほど皆、藻神様を怖がってるんだよ。千代が頼りないってわけじゃ......」
小さく笑みを浮かべる色葉君は、なんだか大人びて見える。自分が我が儘を言っている子供のように思えて、なんだか面白くない。
「そんなに怖いんだったら引っ越しちゃえばいいのに。」
不貞腐れたようにそう言って、水の入った桶をもって立ち上がる。いつもならもっと色葉君とお喋りをするのだけれど、今日は別だ。なんだかむしゃくしゃして、色葉君に八つ当たりをしてしまいそうだから。
「え、もう帰るの。」
「そうだよー。色葉君に心配かけたくないしね。」
皮肉たっぷりに言って、そっぽを向く。色葉君が何か言いかけた気もしたけど、それも無視しておじさんちを飛び出した。
その日の夜から、雨が降り始めた。
――
夜が明けても、雨は止まなかった。どこまでも続く曇り空に、皆不安そうに過ごしている。お米の根腐れも怖いけれど、もっと怖いのは洪水だ。この村は大きな湖と川の近くにある。だから洪水になるまでは長いけど、一度水があふれたら家も田んぼも全部流されてしまうのだ。
けれど私たちには、藻神様がいる。今まで何度も危ないことがあったけれど、全部藻神様が守ってくれた。雨が上がった後に、湖一面が緑色になるのは、藻神様が雨を鎮めてくれた証。だから私たちは、藻神様に守ってもらえるように、三年に一度捧げものをするのだ。
三日目の夜になっても、雨は止まなかった。
――
「千代はここにいな。お母さんはすぐに帰ってくるから。」
切羽詰まった声でそう言って家を出たお母さんは、真夜中になっても帰ってこなかった。
時間が経つごとに勢いが増す雨と、増えた川の水が流れるゴウゴウという音が、どんなお化けよりも怖かった。
布団の中で縮こまって、ぎゅっと目をつむる。
よく小さいころ色葉君と二人で、こんな風にかくれんぼをした。何から隠れているのかは決めてなかったけれど、狭く暗い場所で息を潜めているのはすごく楽しかったのを覚えている。
けれど、本当に嫌なものからは、隠れることができなかった。
――
目の前には普段と全く違って、猛々しく荒れ狂う川が流れていた。
透き通っていた水は泥色に染まり、木の幹や小枝が流されていく。
降り続ける雨で、赤い振り袖が濡れていく。綺麗に染められた赤い着物は、今まで見たこともないような滑らかな生地で織られていた。
帰ってきたお母さんは、沈んだ声で私に教えてくれた。
このまま雨が降り続けると、村は洪水で流されてしまうであろうということ。
そして、雨がやまないのは藻神様が怒っているからだということ。
昔から雨で危なくなると、藻神様に”お嫁さん”を捧げて怒りを鎮めてもらっていること。
そしてその”お嫁さん”には、一番最近捧役に選ばれた人がなること。
村の人たち皆が集まって、私のことを見守っている。けれど、振り向くことはできなかった。私を見つめる視線が、イケニエを見る冷たいものであるのか、死にゆく仲間を見守る温かいものであるのか、分からなかったから。
でも、こうしている間も家の外に出ることを許されていない、私の大事な人を救うためなら。
大好きな人を、守るためなら。
宙に飛んだ私の脳裏に、色葉君の笑顔が浮かんだ。
深く深く、川底へ沈んでいく。
あんなに荒れ狂っていたのに、川の中は意外と静かなんだな、と思った。
ふと、視界一面に広がる濁った水の中に、緑色の靄のようなものが見えた。
まるで水中を漂う緑色の霧のようなもの。それは、川上からどんどん流れてきて、私の体に群がるようだった。手を伸ばして緑色に触れてみると、水の中が苦しくなくなった。まるで微睡の中にいるかのような、心地いい感じ。
「......あなたが、藻神様、なの?」
水の中なのに、声はいつもより綺麗に響いた気がした。
ずお、と緑色の流れが、私の体を包み込んだ。
『私は、泡沫。』
小さくささやかれた声は、性別も年齢も、まったく読み取ることができない、無機質で、それでいて暖かいものだった。
「うたかた?」
『私は、みせるもの。』
雲が晴れるように、脳裏にある光景が浮かんだ。
――
私はおじさんの家の玄関に立っている。
雨の音の強さから、丁度私が”お嫁さん”になると決まった晩であることがわかった。
「――許さないぞっ!」
掠れて、それでいて必死さが滲んだ、色葉君の声がした。声のほうを見ると、色葉君がおじさんに掴み掛かっているのが見えた。
「千代を......あの子を、捧げるなんて、そんなことで雨が止むもんか!僕が、絶対に――」
「......うるせぇっ!」
怒鳴る色葉君の体を、おじさんが力いっぱい蹴りつけた。華奢な色葉君は体勢を崩して、床にくの字になって倒れた。
『――やめてっ!』
声を張り上げておじさんを止めようとしても、全く聞こえる素振りを見せない。手を伸ばそうとしても、何にも触れることができない。
「捨てずに置いたら図に乗りやがって...てめぇ、自分が何様だと思ってんだ?」
起き上がろうとする色葉君の背中を、おじさんが力いっぱい蹴り飛ばす。
「何とか言え、この役立たず!もう一度、今みたいな口をきいてみろ!」
おじさんは色葉君の胸倉を掴んで無理やり立たせ、――力いっぱい、こめかみを殴りつけた。
その勢いのまま、色葉君は壁に力いっぱい叩きつけられて。
力なく倒れた色葉君からは、息をする音が、聞こえなくなっていた。
――
まるで、喉の奥に虫の群れを入れられたみたいだった。
がさがさして、気持ち悪くて、何もかも吐いてしまいたい。後から後から熱いものがこみあげてきて、それでも頬に涙は流れない。水の中で目を開けても痛くないのは、なんでなのだろう。
『私は、”魅”せ、私は、見せる。』
頭に小さく響く声と、お母さんの言葉が重なった。
「村の皆の為なんだよ。」
私は何の為に、ここに来たのだろうか。
『貴女はあの人たちを、どうしたい?』
水流の音が、頭の中をかき回す。全てが気持ち悪くて、今にも消えてしまいたかった。
私はゆっくり、口を開いた。
――
『結局私は殖えたからよかったけど、人間ってわからないわね。』
森の中の水たまりに、緑色の濁りが渦巻いていた。中年の、藍染めの着物を着た男が、水たまりの傍に立っている。
『最初から醜いのに、まるで今醜くなったように驚く。最初から汚かったのに、まるで今汚れたかのように憎む。最初から一緒なのにね。』
「そりゃあんたの母親の話じゃねぇのかよ。」
『私は生き物ほど複雑じゃないもの。皆同じなのよ。ここに住んでいた”藻神様”も、”藻神様”から分かれた私も。』
干上がってしまった湖の跡には、小さな雑草が生い茂っている。その草の合間合間に、小さな骨の欠片がいくつも見える。
「お前はまた、神様になるのか。」
『特に食べ物に困っているわけでもないし、多分もうしないわ。それに、人間をだますのも悪いもの。私は雨なんて降らせられないし、結局私が食べちゃったし。』
「......ふーん。」
かつてこの地には、広大な湖と豊かな川、そしてごく普通の生活を営む村があった。
村人たちは藻神様と呼ばれる神様を信じ、そして時折人柱を捧げたという。
突如として村が無人となった原因は、これからもずっとわからないだろう。
ただ、豪雨が襲来したとある日の夜、
まるで麻薬を吸ったかのような酩酊状態に陥った村人たちが、
次々と湖の中に歩いていき、最後には全員緑色の泥に呑まれてしまったと話す人がいる。
それはさながら、”見”える何かに向かって進んでいるようにも、何かに”魅”せられたようにも思えたという。
「結局人間ってのは、見えるものに魅せられるんだろうな。」
しみじみと呟いた男は、何かに気付いたようにうなり声をあげ、後ろを振りむいた。
「なあ、ところで、なんでお前はあの娘の願いを――」
声をかけた先には、もう先ほどの水たまりはなかった。男は目をぱちくりさせた後、拍子抜けしたようにため息をつく。
「......まあ、そういうのも悪くないか。」
今回の失敗...登場人物少なすぎ。
あとなんか、即興で書いたのでストーリーとか文章がくそかもしれません。
ごめんな(さ)い。