第九十九話『嬉し涙ですか? いいえ、それだけではありません!』
全日本卓球選手権大会最終日。
女子シングルス決勝。
この対戦カードは、ここ数年、ずっと変わっていない。
碇奏VS愛川京香。
新旧女王対決。
ワシの孫もすっかりお酒を飲める年頃になり、女子卓球界のエースと呼ばれ数年が経った。世界ランクは五位へと上がり世界大会でのメダルも有力視されている。
対する愛川師匠は30歳を迎えてなお、世界ランク八位をキープしており、その実力は衰え知らずじゃ。
試合前のラリーが終わり、師匠のサーブからはじまる。
癖の少ないショートサーブが奏のバック側へと繰り出された。
師匠らしい定石を踏む丁寧な一手じゃ。
ラケットの裏面にラバーが貼られていない日本式ペンにとって、バックの短いボールというのは、どうしたって攻めにくいコースなのである。
相手の得意をさせない卓球。それが愛川京香の真骨頂でもあった。
試合の立ち上がりは奏の得意な早いテンポでの展開が封じられ、師匠が作り出した、ややスローテンポ気味に試合が進む。お互いに決定打と言える強打が出ずに、細かい技術の差がスコアへ反映される展開となった。
相手の戦型を徹底的に研究し尽くしたであろう師匠の卓球には目立った隙が無い。しなやかな身のこなしから放たれる正確無比のボールコントロールが着実に得点を重ねた。
対する奏は己の最大の武器であるフットワークを生かしきれず、苦しい展開が続いた。
孫VS師匠という構図に、ワシの心中には複雑な思いが渦巻いていた。
初めて彼女達の試合を目にしたあの頃とは違う。あの頃は無邪気に孫を応援していたが、師匠の努力を間近で見てきた今のワシには、どちらか一方だけを応援する事は困難である。
今、ワシに出来ることは一つ。
この試合が二人にとって、卓球界にとって、価値ある素晴らしい試合になるよう静観するのみ。
固唾を呑んで試合の行方を見守る。
師匠の正確なコースの打ち分けに、奏の足が順応し始めたが、第一セットのゲームポイントは師匠の手に渡った。
全日本は、ベスト三十二位決定戦以降の試合が七ゲームマッチとなっており、四セット先取の長丁場の試合となる。
フルセットにもつれ込めば、七セットを戦い抜く必要があり、体力のペース配分も勝敗を分ける重要な要素となる。
両選手がベンチへ戻り、額の汗を拭いている。
奏のベンチには護の姿が。
流石にやりとりの内容までは聞こえないが、護のアドバイスに奏が真剣な面持ちで頷いている。
孫と息子のやりとりに、ついつい涙腺が緩みそうになる。
一方、第一セットを制した師匠は、天井を見つめながら、ゆっくりと軽い屈伸をしていた。
両者セット間の休憩が終わり、台を挟んでポジションに着く。
第二セットの一球目は奏の得意なロングサーブから始まった。
勢い良く突き進む白球に対し、師匠はボールの勢いを殺すようにバックカットを繰り出した。
その場にいた観客全員が息を呑んだ。
師匠の戦型はオーソドックスな両面裏ソフトラバーのバランス重視の攻撃型。
本来、カットを扱うようなラバーやラケットでは無い。
誰より基本に忠実な彼女が、文字通り、奇策に打って出た。
是が非でも、お前の得意なステージには上がらないという意思表示。
データには無い死角からの一手。
さりとてそれは、その場凌ぎの付け焼き刃などでは無い。
洗練された美しいフォーム。一切の無駄を排した機能美。その流麗な動きは、血の滲むような努力の証。
雨垂れ石を穿つ。
もはや根気という言葉では足りない。それは執着であり、信念であり、あるいは初恋のようなものかも知れない。
執念を内包した一球。
誰もが驚いた型破りな一球に、奏は迷う事なくフルスイングをかます。
空気の層をぶち抜く音がした。
試合の空気が変わる一球。
今、師匠の瞳には、一体、何が映し出されているのだろうか。
石を穿つ為の努力。万全を期してもまだ、穴の空かない分厚い岩に。
他人事とは思えなかった。
アスリートにとっての最大の敵は時間。
老いという概念。
試合は奏が優勢に進んでいく。
中盤、師匠が巻き返す展開もあったが、最終的なゲームカウントは四対二で奏の勝利。
後半は奏のキレが上がるに連れて、師匠の動きが徐々に鈍くなっていくのが分かった。
試合後のインタビューで師匠は言った。
「去年の私よりも、今年の私が強かった。それでも負けたのは、碇選手の実力が私よりも上だったからです。来年は、今年よりも強い私でもう一度挑みます」
師匠のその言葉には、プロとしての信念が表れていた。
勝利と敗北が明確に区別される勝負の世界。
右目からは嬉し涙が、左目からは悲し涙が。
前者は愛しの孫へ、後者は敬愛する師匠へ。
それらが地面で溶け合い、ワシの心へ残ったのは、純粋な尊敬と、前へ進む為の強い原動力だった。