第九十六話『楽勝ですか? いいえ、ここからが本番です!』
全日本選手権三日目。
いよいよ今日は、葵のデビュー戦の日じゃ。
大会二日目の昨日はダブルスの試合を観戦し、とても充実した一日となった。三日目の今日からが男女ともにシングルスがはじまるということもあり、会場の熱気が一段と高くなっているのを感じる。
観客席には珍しく、葵の父の龍司さんも来ている。小柄な秋穂さんと夫婦並んで座っていると、その屈強な肉体がより大きく見えた。美少女と見間違う程の葵も将来はゴリマッチョになってしまうのだろうか……。
「お父さんが体育館に来てくれるなんて珍しいね!」
葵がはしゃいでいる姿を見るのは随分と久しぶりに思えた。大好きな父親の前でプレー出来ることが嬉しいのじゃろう。
「葵の全日本デビューだからな。そりゃ、来ない訳にいかないだろ?」
「うん、ありがと!!」
葵が天使の様な笑顔を浮かべてそう言った。
「葵、そのまま動くな」
葵パパは低い声音でそう言って、鋭い目つきで一眼レフを構え、自らの愛息子を激写した。
「あなた、写真も良いけれど、そろそろ葵の試合がはじまるからね?」
秋穂さんがおっとりとした口調で旦那を嗜める。
「おっ、すまんすまん。葵、頑張ってこい!」
「うん!!」
父に背中を押された葵が試合会場へと走って行った。
「あなた、大丈夫?」
秋穂さんが小さな声で呟く。
「あぁ、久しぶりの東京体育館だ」
体育館一帯を見渡しながら、龍司さんが言った。
「そうよね……」
気のせいじゃろうか? 秋穂さんの声音が少しだけ暗い。
「意外と悪くない」
「本当? 気分が悪くなったら言ってね?」
「気にし過ぎだ。大丈夫。今日は葵の晴れ舞台だからな」
龍司さんはそう言って、妻に向かって笑顔を向ける。
その表情は息子のような天使の笑顔というよりも悪魔に近い迫力であったが、優しさで作られていることだけは伝わってきた。
「いよいよどぅえすねぇーーい!」
うちのママンも葵の全日本デビューに興奮した様子じゃ。
「レイナちゃん。純は今日、試合無いだろ? 会場には来ていないのか?」
龍司さんが神妙な面持ちで問いかけてきた。
「いや、来ているとは思いますけど。多分取材とか挨拶とか色々と大変なんだと思います」
「なるほどなぁ。もし、純に会ったら、少し時間を貰えるか聞いておいてくれないか?」
「はい! 父も喜ぶと思います!」
パパンは何せ、龍司さんを心の底から尊敬している。
葵が大会で優勝する度に、流石は龍さんの息子だ。龍さんが、龍さんが、と耳にタコが出来るほど語っている。
「はじまぁりまぁつよー! がぁんぶぁれー!」
そうこうしている内に、気合いの入ったママンの掛け声とともに、満を辞して葵のデビュー戦が始まった。
* * *
瞬殺とはこのこと。
物の見事に一回戦を制した葵は続く二回戦三回戦もあっという間に大人達を倒し、あっさりと本日の試合を終えた。
当の本人はというと、特に緊張した様子もなく、試合を淡々とこなしていた。強いて言うのであれば、龍司さんが応援に来ていたこともあり、普段よりはいくらか楽しそうに試合をしていた。
それでもどこか物足りない表情をしていたのが気になった。あまりにも簡単に勝利を手にしてしまうことへの退屈さや、孤独を感じていなければ良いが。
まぁ、しかし、そんな心配は杞憂に終わる。
絶対にだ。
物足りなさや、達成感の欠如。相手のいない孤独感。そんなものは明日になれば全て消える。
何と言っても、青山葵の四回戦目の相手は、日本卓球界のエース、水咲純なのだから。