第九十一話『激痛ですか? いいえ、認めるわけにはいかないのです!』
血を連想させる程の真っ赤な双眸が、怒りではなく憐れみを込め、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
背中には嫌な汗が流れている。
第一セット、第二セットを連続で制したワシは、続く第三セット、第四セットをすぐさま奪われることとなった。
原因は明白。
左足の激痛によるフットワークの鈍化じゃ。
左足をカバーすれば、当然右足に負担がいく。身体全体のバランスは崩れ、息は上がり、視界は靄がかかったような状態。
正直に言えば、気力のみで立っている。
夏からの急激な練習の蓄積が身体に負荷を与えていたのじゃろう。前兆が全く無かったわけではない。周囲の人間からも、何度も体調の確認をされたが、その度にワシは、頑なに大丈夫だと言い張ってきた。
ワシには己の疲労を認められない理由があった。
死んでもなお、治らなかった思想。
前世での記憶。
そうして今も、無駄な意固地を拗らせて、無理を押してここにいる。
「ちっ、もう、ろくに動けねーだろ! 最終セットは捨てろ。勝機は無い」
コートチェンジが終わり、最終セットがはじまる瞬間、日陰鳴が苛立ち混じりにそう言った。
「嫌じゃ」
「は?」
ワシの言葉が意外だったのか、目の前の少女は呆気にとられた様子で言った。
「最後までやる」
「地獄を見るぞ?」
彼女の瞳には明確な怒りがこもっていた。
「それでもやる」
ワシの意思は変わらない。
「お前、本当に分かってねーんだな。いいよ、俺がぶっ壊してやる!」
日陰鳴の怒号とともに、ジュニア日本一を賭けた最終ゲームが始まった。
右へ左へ激しくボールが行き交う。
やはり、フットワークの鈍った状態では相手のボールに追いつく事は出来ない。
無様な失点が重なる。
じゃが、それが諦めることには繋がらない。
ワシはラケットを空へと投げ、スイッチドライブを放つ。
足がダメでも、これならば守備範囲を補える。
痛みに耐えながらも、勝利への道を模索する。
「ちっ、なんだその目。もう苦しいだけだろーがよ!」
日陰鳴はここにきて、この試合初めてのフルドライブを放った。
水咲 2-9 日陰
点差は絶望的にも思えるが、それが諦めることには繋がらない。
休む間もなく次のラリーが始まる。
「ちっ、気に食わねーんだよ! 好きなことを当たり前のように楽しんでる奴らがよ!!」
日陰鳴の渾身のフルドライブが放たれた。
ワシにそのボールを止める術は無く、それでも、全力でボールの方に飛び込む。
ラケットの先端にボールが僅かに触れるも、打球は相手コートに返ることなく、あらぬ方向へと飛んでいった。
相手にマッチポイントが渡る。
まだじゃ。
まだ分からん。
ワシは極度の疲労と痛みの中、今出せる最大限のサーブを繰り出す。
回転もスピードも劣化したサーブに、相手は己の勝利を確信したはず。
それは選手だけではなく、会場でこの試合を見ていた全ての人が感じただろう。
しかし次の瞬間、強打を放つ体勢に入った日陰鳴の腕から、あまりにも唐突にラケットがこぼれ落ちた。
疲労と痛みで薄れゆく意識の中、木製のラケットが地面にぶつかる音が聞こえた。
肩を抑えて、その場にうずくまる日陰鳴。
周囲の大人達が彼女へと駆け寄る。
試合の中断が叫ばれ、彼女が担架で運ばれていく。
今、目の前では何が起きているのだ?
追い詰められていたのはワシの方で、なのに相手が運ばれて……。
疲れ切った身体が、現状把握を拒んでいる。
思考を放棄した脳でも、唯一理解出来たのは、試合の続行は不可能ということ。その判断が下された瞬間、騙し騙し保っていた意識の糸がプツリとその役目を終えた。