第八十八話『完勝ですか? いいえ、感傷です!』
技もへったくれもない。
目の前の少女はただ、いち早くボールへと反応し、誰よりはやくラケットを振り抜いていた。
卓球経験者ならば、誰もが一度は考えたことがあるだろう永遠のテーマ。
最強の戦型とは何か?
相手の全ての回転を上回るドライブさえ打つことが出来れば、それ一つでゲームは終わる。
単純明快、直截簡明。
ならば何故、全ての卓球プレイヤーが、その武器一つで戦わないのか?
その答えも単純だ。
複雑多岐にわたる相手の戦術をたった一つの武器だけでねじ伏せるのが不可能だと感じるからだ。
しかし、この目の前の少女は、一つの武器を疑っていない。
驚異的な膂力がもたらすフットワークと、恐るべき反応速度。
ボールへ常に先回りをし、全力でフォアドライブを振り抜く。
卓球を初めて最初の数ヶ月で教わるような基本動作。
たった一つの作戦とも呼べないその武器が、私の多種多様な技を凌駕した。
四セット目は五点しか取れず奪われた。
圧倒的な力を前に、私もなり振り構ってはいられない。
最終セットが始まる。
「やるしかないか」
私は一人小さく呟き、脳内に住む他者のイメージを遠ざける。
私自身の本来のプレースタイル。
相手の動きを完全に分析し、未来を予測し、反射を決める。
一本目の反射が決まった瞬間、日陰鳴の瞳が大きく開かれたのが分かった。
「鏡宮有栖、覚えたぜ。お前は強い。でもな、俺の方が数段強い」
「よく喋るね。結果だけが答え」
メッキの剥がれた私は素の口調でそう言った。
そこからの最終セットの戦いは力と力のぶつかり合いになった。
反射神経と打球の威力。
単純な二つの要素が正面からぶつかり合う。
だが、心のどこかで分かっていた。
私ではこの子を救ってあげられないと。
世の中全てを憎むような眼光。烈火の如く激しい怒りを連想させる真紅の瞳。
しかし、その炎が不意に消え、光の届かない深海を連想させる瞬間があるのだ。深く、暗い、底の見えない空虚な闇だ。
静と動。日陰鳴からは二つの悲しみが溢れ出ている。
彼女の卓球からは、愛を感じない。
牙を剥く為だけの手段にすら思える。
私も目の前の相手に何か言えるような立場ではない。
だからこそ、少しは何かを分かり合えるのかも知れないと思った。
暗い背景を感じさせる同種の性質。
しかし、手を伸ばすには、私の力が足りなかった。
フルセットで迎えた最終戦。
反応速度の限界へと挑む戦い。
反射の調子は間違い無く絶好調。
相手の強烈なフォアドライブを冷静に処理出来ている。
だがその展開も長くは続かなかった。
戦いの中で己を進化させている日陰鳴。彼女の反応速度が明らかに上がっていた。
先程までは並走していたはずの日陰が二段飛ばしで駆け上がる。
放ったカウンターが更なる威力を持って打ち返された。
コースは先読み出来ていた。それでも追いつく事が出来なかった。
体勢も万全。集中力も切れていない。
結果を分けたのは純粋な反射神経と運動能力の差だろう。
僅かに届かないラケットの先。
時間が止まったかのようにゆっくりと進んで見える。
負ける。
そう悟った瞬間、時は歩み方を思い出したように忙しなく動き出し、審判がスコアボードを捲った。
あぁ、ここにいるのが私ではなく、あなただったのなら、勝てたのだろうか。ちゃんと救ってあげられたのだろうか。
ねぇ、お姉ちゃん。
「私、負けたよ」
届くはずの無い言葉とともに、私の大会は静かに幕を閉じた。