第八十六話『楔ですか? いいえ、契りです!』
正直、この大会はずっと退屈だった。
試合ごとに相手の戦型を模倣して戦ってみたりはしたが、実りある時間とは言えなかった。
準決勝の相手は日陰鳴。
レイナちゃんの因縁の相手だとか。
まぁ、彼女には申し訳ないが、ここで私が倒してしまおう。トーナメント表が作り出した組み合わせなのだから、私に非は無いだろう。
それに、私にとっては水咲レイナへのリベンジマッチが優先なのだ。
「鏡宮有栖と申しまっす! 宜しくお願いしまっす!!」
分厚い仮面を何枚も被り、私は調子良く、台を挟んで目の前にいる対戦相手へと挨拶をした。
「おめぇ、少しはマシそうだな? 頑張って俺を楽しませろよ」
オレンジ色の髪を無造作に伸ばしたその少女の眼光は、世の中全てを恨むような鋭さだ。
他人相手にここまで圧を感じるのは久しぶりかも知れない。
「互いに全力を尽くすだけっす!」
相手の戦型は予習済み。コピーも既に完了している。
だが、この相手に油断は禁物。日陰鳴の成長速度は異常だ。私の見立てが外れることなどほぼ無いが、満に一つの可能性もある。
私のコピーが破られた場合の策も今日は用意してある。
万全の状態で、試合前のラケット交換を行う。
相手のラケットは事前の情報通り、反発力が強めの中国式ペン。その両面にはボールの吸着力が強い粘着性ラバーが貼られている。
私が相手のラケットを注意深く観察していると、不意に日陰鳴が口を開いた。
「お前、この試合は中ペン使わねーのか? 相手のスタイルを猿真似すんのが得意なんだろ?」
私のシェークハンドラケットを雑に眺めながら、日陰鳴が荒々しく言った。
「安心して下さい。退屈はさせないっす!」
「まぁ、何でも良いけどよ」
会話への興味を失ったのか日陰鳴はつまらなさそうにそう言った。
サーブ権を賭けたジャンケンを制し、私はレシーブを選ぶ。
「そんじゃ、はじめるか」
日陰鳴はそう言って、フリーハンドの右手でトスを上げる。
手首を使った強烈な下回転系のサーブが繰り出される。
粘着ラバー特有の強烈な回転量。
私はそれをペンホルダーの握りで、手首を最大限に使ったフォアドライブで返す。
打球は真っ直ぐに突き進み、驚く程にあっさりと先制点を獲得した。
「おっ、なんだ。やっぱ、おめーもペン持ちすんのか? 俺をコピーするって事だよな?」
先制点を決められた事に対して、何も感じていない様子だ。それどころか、先程よりも興味が湧いたのか、語気に熱量を感じた。
シェークハンドをわざわざペン持ちで構えた私を警戒しているというよりも、ただ興味本位で眺めているのだろう。
あまりにも急ピッチで成長を遂げた彼女には、油断や慢心が敗北へと繋がるという意識が芽生えていないのかも知れない。ならば私は、その隙を突くだけだ。
「コピーに負けるのは屈辱っすよね」
「言ってろ」
日陰鳴はそう言って、再びサーブを繰り出す。
ネットスレスレに出された短いボールを私は手首を使ったフリックで弾く。
「なっ!」
相手の叫びが何を指すのか、私にはその心が手に取るようにわかった。
これは彼女が得意とするレシーブの一つ。
しかも、そのフォームを寸分の狂いなく再現したものだ。
私の頭の中には、手に入る限りの彼女のプレー動画が保存されている。
完全記憶能力、私にとっては呪いにも近いその特質が、この場面では生かされる。
鏡の世界に迷い込んだ相手は、強烈な違和感を覚えながら試合をすることになる。それは彼女とて例外ではない。
案の定、ラリーが続くに連れて、日陰鳴のテンポが崩れていくのが分かる。プレーの節々にやりにくさや、言い表せない違和感を覚えているのが伝わってくる。
まずは相手を鏡の世界に閉じ込め、そこから徐々にこちらのオリジナルの技を混ぜ、平衡感覚を奪う。
作戦は順調に進み、一セット目のゲームポイントが決まる。
日陰 8-11 鏡宮
しかし、作戦がこれ程までに上手く決まったのにも関わらず、想像よりも点差は広がらなかった。流石と言うべきか、日陰鳴は既に、自身のコピーを相手にその恐るべき成長速度で順応し始めているようにさえ思えた。
その懸念は、すぐさま確信へと変わる。
ニセット目は私のサーブから始まる。
相手の得意技でもあるスナップを効かせた下回転系のサーブに、視線のフェイントをおり混ぜ、ほんの僅かに本家とはタイミングをずらしたサーブを繰り出す。
「ちっ、めんどーだな」
日陰鳴はそう言って、一セット目では一度も見せなかったバックハンドを振り抜いた。
データの少ない動きから繰り出される強烈な一打が私のラケットを置き去りにした。
中国式ペンと日本式ペンの最大の違いであり、最大の武器でもある裏面打法をこのタイミングで使ってくるか。
勝負処を勘で理解するタイプの選手なのだろう。実に厄介。だがしかし、こんな所で負けるわけにはいかない。
私が負けを嫌う理由は実に単純。
忘れる事が出来ないからだ。
積み重なっていく記憶は風化することなく居座り続ける。
その恐怖すら想像した事の無い人間に負けることなど、納得がいかない。
ならば、そもそも、こんな舞台に立たなければ良いのだろう。
けれど、私にはラケットを手放せない理由があった。
姉が握っていたかったはずのものを、私がおいそれと諦めるわけにはいかないからだ。
それを楔と呼ぶ人もいるのだろう。
私はそれを契りと呼ぶ。
例えそれが一方的な約束で、自己満足なのだとしても。
何一つ忘れられない私にとっての、ただ一つの永遠の誓いなのだから。