第八十五話『涙ですか? いいえ、努力の結晶です!』
それはある種、麻酔を打たれた時の感覚に似ているのかも知れない。
セットカウントフルセット。
膝や腰に僅かな違和感を覚えるが、試合が接戦になればなるほど集中力は高まり、ごく僅かな違和感は0に等しい誤差へと変わる。
高速のコミュニケーション。
脳は次の一手を考えながらも、身体へと信号を送る。
精神と体力を擦り減らしながらも、得も言われぬ高揚感が身体を駆け巡る。
互いに身に付けた技を試しながら、その場で錬磨する感覚。
練習では得られない、緊張感。
張り詰められた心と身体が、己を次のステージへと引き上げる。
血湧き肉躍る舞台。
強烈なフォアドライブを放てば、正確なバックブロックが飛んでくる。
ある種の信頼関係とでも呼ぶべきなのか、この相手ならば、この技では決まらない。そんな歪な共生関係が構築される。
相手の実力を疑わないからこそ成り立つラリー。
シューズと床が擦れるスキール音。
白球の底を強烈に擦り上げる。手首に伝わる振動が確かな手応えを感じさせる。しかし、これでもまだ決め手に欠ける。
視線の読み合いにフェイントの応酬。
そのどれもがたった一点を勝ち取る為の手段に過ぎない。
長時間に及ぶラリーは間伸びすることなく、息が詰まりそうな程の緊張感を保ちながら続く。だが不思議な事に、目の前の尊敬すべき先輩の顔にはむしろ、笑顔が浮かんでいた。おそらくはワシも同じ顔をしているのじゃろう。
勝つ為のラリーであり、その為に努力を積み重ねてきた。しかし、その気持ちとは別に、この心地良い時間が続けと願う自分もまた存在するのだ。
疲労の蓄積すら吹き飛ばす集中力。オーバーワークを忘れさせる程の高揚感。しかし、その均衡が僅かに崩れる音がした。
一瞬の膝の痛みが、ワシの踏み込みかけた足を止めた。
「くっ」
ワシはフットワークを活かしたカウンター攻撃という選択肢を捨て、左手に握ったラケットを放り投げる。
空を舞うラケット。
右手が相棒をキャッチして、間髪入れずにスイッチドライブを放つ。
咄嗟の判断だった。それはフェイントなどではなく、身体の反応にただ従った行動。
「なっ!?」
先読みに長けているが故に、彩パイセンにとって今の打球は読みづらいはず。
緻密に計算された彼女の動きに僅かな狂いが生じた。しかし、それだけで崩せる程に簡単な相手ではない。不測の事態であろうとも基本は崩さず、最善を選び取るのが金城彩という選手じゃ。
崩れた体勢ながらもコンパクトなフォームで強烈なバックハンドを振り抜く。
スピードとキレのある打球。
しかし、万全とは呼べないそのボールをワシのラケットが完璧に捉えた。
快音が鼓膜を揺らし、互いに悟った。
それは己の慢心ではなく、相手の諦めでもない。
互いの死力を出し尽くした結果だ。
白球はコートを突き抜け、勝敗を決めた。
審判がスコアボードを捲る。
『ありがとうございました』
二人の少女の声が重なる。
汗だくの手で握手を交わす。
「悔しいけど、私の負けね。最後のは見事なフェイントだった」
「いや、一瞬だけ足に痛みを感じて、気づいたら咄嗟に」
「え、大丈夫なの?」
パイセンの声音が急に深刻なものへと変わった。
「うーん、今は全然痛くないし、本当に一瞬だったから」
「もし痛むなら冷やすなりして、ちゃんと対応しなさいよ?」
ワシの瞳を覗き込みようにしてパイセンが言った。
「え〜、彩パイセン、珍しく私のこと心配してくれてるんですかぁ??」
彼女の深刻そうな顔が気になって、ワシは茶化すようにそう言った。
「はぁ? 別にそういうわけじゃないけど。アスリートとして当然のことを言ったまでよ! あと、パイセン言うな」
「ふふ、ありがとうございます。彩先輩!」
「せ、先輩言うな……」
「え?」
あんなにもパイセン呼ばわりに猛抗議していた人が何故?
「だから、前にも言ったでしょ。私が勝つまでは、私の事は先輩扱いしなくて良いって!」
「実はパイセン、クールな割に底無しの負けず嫌いですよね」
それが彼女の強さの秘訣でもあり、素敵な部分でもあるが。
「私を倒した責任取りなさいよ」
「責任?」
パイセンからの不意の言葉に、思わず聞き返してしまった。
「絶対に優勝すること」
「それはもちろん。言われなくとも」
最初からそのつもりである。
「まったく、可愛げの無い後輩ね」
パイセンはそう言って、少し笑い、台に背を向け立ち去った。
去り際に見えた頬の雫は美しく、今大会までの彼女の努力を物語っていた。
試合が終わり、気持ちを切り替え、となりのコートへ視線を移すと、そこに選手の姿は無く、どうやら既に試合は終わっているようじゃった。
決勝の相手を確認する為、体育館内に張り出されているトーナメント表へと駆け寄る。
準決勝を制し、決勝へと駒を進めた相手は……。