第七十話『他人ですか? いいえ、超ワシです!』
師匠との練習が始まり五日間が経過した。
師匠は他の人の前では相変わらず、完璧な愛川京香選手を演じ続けていたが、ワシと二人きりの時は砕けた口調で話すようになっていた。ラーメン屋の一件で距離が近づいたのもあるのじゃろうが、それよりもどちらかと言えば、ふっきれた態度と表現した方がしっくりくる。
「そう言えば、レイナの卓球って碇奏のスタイルに似ているけれど、どちらかと言えば、玄三選手の方に近いわよね? 昔の映像とかを参考にしたの?」
練習の合間の小休憩に入り、師匠が不意に話しかけてきた。
「玄三選手? 誰のことですか?」
まったく聞き覚えの無い名前じゃ。
「えっ、あなた、日本式ペンホルダーを使っているのに、玄三選手を知らないの!? 碇奏の実のお爺様よ?」
「ん?」
奏のお爺様? それは他ならぬワシの事じゃが、師匠は一体何を言っておるのじゃろう??
「まったくもう、勉強不足よ。ほらこれを見なさい」
師匠は呆れた様子でそう言って、自らのスマートフォンを取り出し、とある動画を流し始めた。
どうやら、卓球の試合動画のようじゃが、えらく古い動画で、音が所々割れており時代を感じさせる。
そこには見覚えのある選手が映し出されていた。中ペンを手にした中国人選手と、もう一人は日ペンを手にした……。
「ワシやないかい!!」
かんっぜんにワシやないかい!!
え、え、え、どゆこと?
この人が玄三? え? どこからどう見ても、ただのワシなんじゃが??
「何よ、どうしたの? 暑さでやられた??」
師匠が訝しげな目でこちらを見つめている。
「え、いや、えっと、何でもないです……」
背中に嫌な汗が流れる。
碇玄三、碇玄三、碇玄三。
それがワシの前世での名前ということか?
何故だ? 何故だかその名前に実感が持てない。それは、奇妙という言葉では足りない程に、自身の心に強烈な違和感を与えてくる。
そもそも何故ワシは、前世の名前を思い出せないのじゃろうか……。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
「あぁ、いや、大丈夫です」
「いや、大丈夫そうには見えない。今日はもう、お風呂に浸かってゆっくり寝なさい」
師匠の瞳が心配そうにこちらを覗く。
「あ、あの、師匠は自分が分からなくなる事ってありますか?」
気づけばワシは縋るような思いで問いかけていた。
「急にどうしたの?」
「いや、今、どうしても聞きたくて」
ワシの切迫した思いを汲み取ったのか、師匠の顔が真剣なものへと変わる。
「そうね、私みたいなタイプは、いつも迷ってばかりよ」
「え?」
とてもその様なタイプには見えないが。
「意外? それはそうかもね。意外だと思ってくれたのならそれは、私が作り上げた愛川京香という人間のブランディングが成功している証なのかも知れないわね。まぁ、あなたには見せ過ぎてしまっているから、それも怪しいところだけれど」
師匠は少し笑いながらそう言った。
「師匠はどんな事で迷うのですか?」
「そうね、自己の同一性についてかしら」
「同一性ですか?」
「少し言葉が難しかったかしら? いや、あなたなら大丈夫そうね。今は半分だけでも伝われば良いと思うし」
師匠はそう言って、少しの間目を閉じて、思考を整理している様子だ。
「うーん、難しいわね。それでもあえて口にするのであれば、自分の中での一貫性だったりとか、存在価値だったり、嘘だったり、矛盾だったり、そうね、裏面性とも言えるのかな。あなたも知っての通り、私は裏表が激しいからね。どれが本当の私? なんてメルヘンな空想で人並みに悩むことだってあるわ」
師匠が自虐混じりにそう語った。
「自分を見失った時、師匠はどうやって乗り越えているのですか?」
「努力よ。努力は人を裏切らない。思うような結果が出なかったり、大事な事が分からなくなる時ってあるじゃない? それはね、自分が努力を裏切った時なのよ。努力は人を裏切らない。でもね、人は努力を裏切ってしまう事があるの」
先程とは違い、この返答は随分と早く言語化された様子だった。おそらくこれは、彼女の核となる信念なのだろう。
「強いですね」
己の弱さと向き合うことの出来る人なのだと感じた。
「これも努力の賜物よ。強がりとも呼べるけれどね」
師匠はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
「素敵です。私にもなれるでしょうか?」
「なにを贅沢言ってんのよ。あなたはまだまだ若いじゃない。こんな風に考えるのは、試行錯誤を迫られてからで良いのよ。今はもっと調子に乗りなさい。いい? 根拠もなく調子に乗れる時間はとても短いのよ。それは実はとても素敵なことなの。みんな自分の事なんて分からないのだから。それでも怖いと言うのであれば、結果を出し続けて全てを黙らせる努力をするしかない」
「全てを黙らせる努力……」
それはつまり、先の見えない暗闇を相手に戦いを挑むような話にも思えてしまう。
「周りや環境だけじゃない。自分自身の中にある、不安に怯える心の声すらも黙らせる努力よ。結局人間ってのはね、自分が納得出来ればいいのよ。自分を認めて愛せるかどうかなの。まぁ、それがまだまだ出来ないから、私はこうして前に進むのよ」
「怖くはないのですか?」
「そりゃあ、怖いわよ。でもね、悩むよりも行動を。実はその方が恐怖は減ると思うの」
「そうまでして師匠を奮い立たせる原動力は、一体何なのですか?」
その強さの源泉は一体どこにあるのだろう。
「私を支えているのは、高額の化粧品と地獄の努力よ。私の全盛期は今日だ。この命尽きるまで、私はそう言い続ける」
師匠の力強い言葉が一条の光となって、ワシの心を照らした。
「師匠、もう一球お願いします!」
不安が消えたわけではない。しかし、ワシのやる事はもう決まっていた。
師匠と視線が交錯する。
「いい面構えになったじゃない」
「はい!!」
努力は人を裏切らない。だからこそ、努力を裏切ることのないように、ワシは力強くラケットを握った。