第六十九話『お注ぎしますか? いいえ、ラッパ飲みです!』
ラーメン京と書かれた真っ赤な暖簾をくぐるとそこは、昔懐かしい雰囲気漂うラーメン屋さんだった。かなり歴史を感じる店内じゃが、隅々まで清掃されており、清潔感が保たれておる。
ふむ、この店に、愛川選手の知り合いが待っているのじゃろうか?
それにしても懐かしいのぅ、昔はこのようなラーメン屋がたくさんあったものじゃ……。
ワシが古き良き思い出に浸っていると、愛川選手は無言で奥のカウンター席へと座った。勝手知ったるその様子から、彼女がここの常連客であることが伺える。ワシもそれに倣って愛川選手の隣の席へと座る。
どうやらまだ、ワシらの他にお客さんはいないようじゃ。
「煮干しラーメン濃いめ二つ」
愛川選手が厨房に立つ店主らしきおばさまに慣れた口調で注文した。
「京ちゃん、注文より先にただいまでしょ?」
カウンター越しのおばさま店主が愛川さんに向かって、あやすような口調でそう言った。
「京ちゃんはやめて。もういい歳だし。それに今日は教え子も一緒だから」
少し疲れた様子の愛川選手が首を回しながら言った。
「うそこぎ、いい歳言う割にあんた、モデルさんのお仕事なんかも受けておだってるじゃないの。ん? 教え子さんって、あんれ!? べっぴんさん連れてると思ったら、ひょっとして、その子、レイナちゃんじゃないの!?」
津軽弁なのか、東北なまりなのか、ワシにその違いが分かるはずもないが、強めのなまりを感じさせるその口調には不思議な温かさがあった。
「そうよ、お母さんが会いたいって言ったから、練習終わりに連れて来たの。それと、この子は札幌育ちだから、あまり津軽弁は混ぜないで」
「あぁ、ごめんなさいね。年甲斐もなく取り乱してしまったわ。愛川京香の母の愛川京子です。今日はわざわざありがとうね」
愛川選手のお母様を名乗る店主が、カウンター越しに丁寧な挨拶をして下さった。
先程感じた独特のなまりが完全に消えたわけではないが、接客歴の長さなのか、聞き取りやすい標準語へと切り替わっていた。まぁ、そもそも、うちのママンのミラクルジャパニーズに比べれば百倍は聞き取りやすい。
「水咲レイナと申します。娘さんには大変お世話になっております!!」
「娘さんって……」
愛川選手が訝しげな顔でこちらを見ていた。
「あらー、元気が一番ね。純ちゃんの小さな頃を思い出すわ〜」
「え、京子さんはお父さんのことを知っているのですか?」
「知ってるも何も、純ちゃんは小さな頃からうちの常連だし、京香の幼馴染なのよ。それに純ちゃんは京香にとっての初恋の相手なのよ」
「お母さん! 余計なこと言わないで!!」
顔を真っ赤に染めた愛川選手が叫ぶ。
「何、隠すようなことじゃないでしょ? この子ね、純ちゃんが今の奥さんと週刊誌に撮られた時、五日間も泣きじゃくっていたのよ。凄いわよね?」
カウンター越しの京子さんはそう言って豪快に笑っている。
「もう、余計なこと言ってないで、ラーメン作ってよ!!」
試合での立ち振る舞いや、様々なメディア対応も完璧にこなす愛川選手が、信じられない程に取り乱していた。
「はいはい、分かっているわよ」
京子さんはそう言って、慣れた手つきで生麺を取り、流れる様な動作でそれを茹で麺機へと投入し、すぐさまタイマーを押した。
麺が茹で上がる直前にどんぶりにスープを汲み、手首のスナップで湯切りを済ませて、その麺をスープの中へと優しくいれた。
「はい、お待ち」
テーブルの上に置かれたのは、赤いどんぶりに灰色のスープがなみなみに注がれたラーメンである。
煮干しの香りが鼻腔をくすぐり、食欲を強烈に掻き立てる。
「いただきます!」
どんぶり同様の真っ赤なレンゲをスープにくぐらせ、一口。
「だっ! 美味い! なんじゃこりゃあ!?」
固形に近い濃厚なスープなのに、何故だかくどさを感じさせない絶妙なバランス! これぞ魚介系ラーメンの頂点と思わせる程の旨味爆弾が口いっぱいに広がっていく。
思わず素のリアクションが出てしまった。
あぁ、自身が金髪美少女であることを忘れさせる程の衝撃がこの灰色のスープにはある。
お次は麺じゃ。
スープに絡む中太麺を勢い良く啜る。少し硬めに茹でられたそれは、加水率が高過ぎず、もちもちというよりかは、粉っぽさを程よく残し、ワシの好みのど真ん中を貫く。
「こりゃうんめー!!」
煮干しの凝縮された旨味がワシの理性を吹き飛ばす。
「あらあら、本当に良いリアクションをする子ね。純ちゃんもこのラーメンが好きでね〜」
京子さんが目を細めて嬉しそうに言った。
「お母さん、餃子とビールもちょうだい」
「京ちゃん、身体の為にお酒は飲まないって言ってなかった?」
「身体も大事だけれど、たまには心に従うのよ。それに、東京のお店でビールなんて頼めないのよ! 私のイメージ的に!!」
「はいはい、まったくもう」
京子さんはそう言って、ショーケースから瓶ビールを手に取り、小さなグラスと一緒に愛川選手の目の前へと置いた。
「レイナちゃん、見なかったことにして」
愛川選手はそんな前置きを入れ、瓶ビールを豪快にラッパ飲みした。
「ちょっと京ちゃん、せめてグラスは使いなさいよ」
京子さんが困り顔で自身の娘を見つめていた。
「いやよ、結局これが一番美味しいし、洗い物も増えないでしょ? それにね、都会だと人の視線が多過ぎるし、こんなこと田舎でしか出来ないのよ」
そう言い切った愛川選手は、あっという間に一瓶を飲み干し、ラーメンを啜り、焼き立ての餃子を頬張る。
その姿が、普段の愛川選手とはあまりにかけ離れており、脳が一瞬困惑したが、何故だかその姿は自然で、むしろ彼女の本来の姿にすら思えてきた。
「大体ね! なんで監督も純も、今になって私を頼ってきたのよ!?」
頬を朱色に染め、二本目の瓶ビールを手に持った愛川選手が叫ぶ。
「あ、愛川さん、大丈夫ですか?」
不穏な空気を察知したワシは、恐る恐る問いかける。
「何よ、ここには愛川が二人いるの! どっちの話をしているのよ!!」
「えっと、じゃあ、何と呼べば良いのでしょう……」
まずい、これは完全に酔っ払っている。
「そんなもん、好きにしなさい!!」
天井を見つめながら愛川選手が大声で言った。
「え、えっと、じゃあ、師匠で」
まだ短い付き合いではあるが、ワシと愛川選手の関係性を端的に言えば、そういった言葉になるのだろう。
「は? 師匠って、何か年齢を感じて嫌ね」
不服そうな表情で愛川選手が言った。
「あら、良いじゃない、師匠って。誰にでもなれるわけじゃないし、何だか凄く信頼されているみたいよ?」
「えー、そう? まぁ、いいや、じゃあそれで」
その話題に興味を失ったのか、気怠げな様子で彼女は言った。
「はい! よろしくお願いします! 師匠!!」
それでもワシは全力で返事をした。
「師匠……。うん、意外と悪くない響きね」
先程の態度とは打って変わって、少し照れた様子で師匠という言葉を反芻し始めた師匠。
これがワシの人生初の弟子入りが決まった瞬間であった……。