第六十八話『限界ですか? いいえ、序の口です!』
愛川選手との地獄の午後練習が始まって三日目。
午前中は山王の選手を相手に通常練習を行い、午後は愛川選手指導のもと過酷なフットワークトレーニングに励んでいる。
卓球台をニ台並べた多球練習は、想像を絶する程の疲労を伴い、ワシの美しい金髪はお風呂上がりと言われても納得の出来るびしょ濡れ具合である。
額から滲み出る汗は止めどなく、床に落ちたそれらが日の光を反射している。
球出しをして下さる愛川選手の顔は、雑誌やテレビ番組で見る柔らかな面持ちとは打って変わって真剣そのものだ。時折、ボールと一緒に鋭い視線が飛んでくることもあり、背筋が伸びる。いや、正直に言えばワシ、ビビってます。
しかし、そんなワシの臆病な心とは裏腹に、練習の成果は目に見えてあらわれ始めていた。
初めの頃は、一、二球返すので精一杯だったはずのこの練習も、今では十球近くの返球が可能になった。
おそらく、これ程までの急成長が促されているのは偏に愛川選手の性格無比なコントロールと絶妙な難易度調整にある。
一見すると単調にも思えるこの練習だが、愛川選手の球出しは常に、ワシの限界のほんの少し先を行くのだ。
ギリギリ背中が追える状況を意図して作り出しているのだろう。その状況が、ワシの限界値を少しずつ引き上げていた。
恐るべき技術力。この人はおそらく自らの身体を全て支配している。
これが現代卓球の世界レベル。
そんな人に指導してもらえている現在の境遇に感謝しながらも、ワシは必死に手足を動かす。
十一球目に食らいつき、十二球目が飛んでくる。
「くっおらぁ!」
桜色のキュートな唇から発せられたとは思えない程の叫び声を上げ、十二球目を返球した。
するとすかさず十三球目が反対側へと飛んでくる。
ワシは必死に足を動かし手を伸ばすが、ラケットの端に白球がかすり、ボールはあらぬ方向へと飛んでいった。
「くそぅ……」
思わず美少女にあるまじき言葉が口をついて出た。
正直、足は悲鳴を上げ、肩で息をしている状態だが、それ以上に悔しさが勝った。
そんなワシの姿を真っ直ぐに見つめながら、愛川選手が落ち着いた様子でゆっくりと口を開く。
「ねぇ、レイナちゃん。煮干しは好き?」
「え? に、煮干しですか?」
「そう、煮干し」
「す、好きですけど、それが何か?」
あまりに脈略の無い問いかけに思わず動揺してしまった。
「この後、時間ある? 私の知り合いがどうしてもレイナちゃんを一目見たいって」
「えっと、はい、大丈夫です……」
急な展開に不安が無いわけではないが、これだけお世話になっている愛川選手の頼み事を断わる訳にはいかない。
「そう、ありがとう。そんなに遅くはならないけれど、山田監督には私から伝えておくから。じゃあ、着替えたら校門前集合でも良いかしら?」
「はい!!」
ワシは背筋を伸ばし声を張った。
何故なのだろうか? 愛川選手の声音はとても穏やかで優しいものの筈なのに、その音の中に、逆らってはいけない何かを本能的に感じてしまうのだ。
ワシはほんの少しの不安を抱きながらも、愛川選手の恩義に報いる為、よく分からない使命感を抱きながらも道具の後片付けをはじめた。