第六十七話『愛情ですか? いいえ、愛憎です!』
バランスボールに乗りながら、右手でダンベルを握り、左手のスマホでは碇奏の情報収集をする。これはあたしの日課であり、例えそれが、どこであろうと変わらない。この田舎臭い母校には特に思い入れも無い。では何故、あたしは東京からわざわざこの青森へと帰って来ているのだろうか?
理由は二つ。
師である山田監督への恩と、あたしのくそったれな初恋へのケジメなのだろう。
いや、三つだな。
水咲レイナ。彼女の卓球は、碇奏を彷彿とさせる。若手のトップ選手、しかも女子の中では、絶滅危惧種の日本式ペンホルダー使い。水咲レイナと碇奏の卓球には共通点が多い。
浅ましくもあたしは、水咲レイナの卓球から、碇奏の攻略に繋がるヒントが見つかるかも知れないと思ったのだ。
あたしが日本卓球界の女王として君臨していたのは、もう数年前の話だ。彗星のごとく現れた碇奏が、その抜群のフットワークで瞬く間にあたしから女王の座を奪った。
悔しかった。ただひたすらに悔しかった。
愛川京香の卓球は勝つ為だけにある。せめて、卓球だけではもう、誰にも負けたくないから。
外からノックの音が聞こえた。
ノックの主はもう分かっていた。
「どうぞー」
あたしは返事をした。ドア一枚隔てた先にいる、初恋相手の娘に向かって。
* * *
六時間の練習が終わり、すっかり日も暮れていた。
学園の中にあるシャワー室で、練習の汗を洗い流しながら思考する。
あたしのこの気持ちは何なのだろうかと。
熱いお湯でも流しきれない、じっとりとしたこの感情は。
あえて端的に表現するのであれば、これは嫉妬と愛憎なのだろう。あたしは、水咲レイナという才能に嫉妬し、憧れたのかも知れない。
結局、たった半日にも満たない練習時間で彼女は、あの無理難題なフットワーク練習の五球目までをクリアして見せた。
まったく、妬ましい。
彼女の中には、碇奏の卓球と、水咲純の卓球が混在していた。
水咲レイナがボールを打つ度そこに、宿敵と初恋相手の面影がちらつくのだ。
見た目は母親譲りの美貌だが、笑ったときの表情の柔らかさや、卓球への熱量、それらが彼を思い出させる。
練習内容の厳しさにも、ひょっとすると私情を挟んでしまったのかも知れない。
でも、そんなことは知らねー。
だって、監督と彼が、私にあの子を鍛えて欲しいと懇願してきたのだから。
最初は断ろうとも思った。
何もあたしじゃなくても良いじゃないか。
そう思ったはずだった。
水咲レイナという存在は、あたしの柔らかい部分を刺激する。
心の平穏を保つのもトップアスリートとしての重要な仕事の一つだ。
だが同時に、アスリートととして、水咲レイナという巨大な才能を放置しておける程の胆力もあたしの中には無かったのだ。
もう、分からない。
だったらあたしは、あたしの好きなようにやる。
結局あたしは、彼が大事に育て上げた種に水をあげる役目を、他の誰かに譲ることすら出来ないのだ。
あたしの人生の秒針はひょっとすると、ずっとあの頃で止まっているのかも知れない。