第六十六話『ゴールテープですか? いいえ、スタートラインです!』
涼香に手を引かれ、目的の場所へとたどり着いた。
部屋の前に到着するやいなや、涼香は練習に戻らなくてはいけないと来た道を引き返し、現在、トレーニングルームの扉の前にはワシ一人が取り残されていた。
部屋からは僅かに物音が聞こえ、先客がいることを示していた。
少しの緊張感とともに、真っ白な扉をノックする。
「どうぞー」
音が漏れにくい構造になっているのか、部屋の中からはくぐもった女性の声が聞こえた。
ドアノブを捻り恐る恐る中に入ると、バランスボールに乗りながら右手でダンベルを持ち左手でスマートフォンを操るスーパースターの姿が……。
「え、何やっているんですか?」
ワシは思わず、目の前のスーパースターへと問いかけていた。
「何って、バランストレーニングと筋トレと情報収集よ?」
それが当たり前のことかのように愛川選手が首を傾げながらそう言った。
「えっと……」
この人にとってはこれが日常なのかも知れない。
「時間は有限なのよ、人生はたった一度きり。やり切らなきゃ」
バランスボールから跳ねるように立ち上がった愛川選手がスマホとダンベルを片付けて、バランスボールを部屋の隅へと追いやった。
「私はこれから一体何を?」
「何って、もちろん卓球よ」
彼女はそう言いながら壁際に畳まれていた卓球台を部屋の中央にまで運ぶ。
「さぁ、開くよ?」
折り畳まれている卓球台の端に手をかけながら愛川選手が淡々と言った。
「あっ、はい!」
ワシはそう言って急いで台へと向かう。
「せーの」
彼女の合図で一緒にゆっくりと卓球台を開く。
僅かに軋んだ音がするのは、この台が昔から使われている証拠だろう。
ネットをはり、ラケットを握る。
そんなワシのやる気満々な姿を見て愛川選手が一言。
「ちょっと、待って、もう一台用意するから」
「え、他にも選手が来るんですか?」
確かに、二人で使うにはかなり広い部屋だとは思っていたが。
「いや、私達二人だけよ」
「え?」
「台を二つ使って多球練習するのよ」
「ん?」
「だから、台を二つ並べて死ぬまでフットワーク練習するのよ」
「ん?」
聞き間違えじゃろうか?
「まぁ、いいわ。とにかく、もう一台横に並べるわよ」
ワシはその言葉に従い、とりあえず一旦、言われた通りに二つ目の卓球台を先程の台の隣へと並べる。
「それじゃあ、やるわよ」
彼女は淡々とそう言って、数えきれない程のボールが入ったプラスチック製の箱を自身の側に置き、その背に防球ネットを設置した。
「ほら、何やってるの? 早く構えなさい」
「あっ、はい!」
左手にラケットを握りしめ、すぐさま前傾姿勢をとる。
プラスチックの白球が鋭く弾かれる音とともに一球目のボールが左の台のきわきわの角に繰り出される。
ワシがそれをフォアハンドで打ち抜いた次の瞬間、二球目がすでに右側の台の角へと繰り出されていた。
なるほど、練習の意図がわかったぞ!
こんな無理難題な局面でも、ワシには一つ打開策が存在する。つまりこれは、ワシの武器を最大限に高める為の練習なのじゃ!!
「うぉりゃ!!」
ワシは雄叫びとともに、左手から右手へとラケットを投げる。
右手がラケットをキャッチして、そのまま逆サイドへと跳んできたボールへと飛びつく。
二つの卓球台を並べた超絶ワイドな揺さぶりに対応するにはこれしかないはず。
これがワシの最適解じゃ!!
「はい、ダメ。スイッチドライブは禁止」
愛川選手が真顔でそう言った。
「え?」
いや、だって、え?
「え、じゃない。これはフットワーク強化の為の練習よ?」
「いや、でも、えっと、二球目が出される間隔があまりに早いと言いますか……」
「でも、は成長を止めるから、禁止ね」
愛川選手の双眸がワシの目を真っ直ぐに見つめている。その視線は何かを推し量っているかのようで、ワシの返事は自ずと一つに限られていた。
「はい!!」
それから二時間、ワシは一度たりとも、二球目の返球が出来ずにいた……。
ただでさえ卓球台を二台使った、超絶無茶振りな移動距離に加えて、一球目から二球目を出す間隔があまりに短いのである。
「あの、この練習、実用、的、なん、で、しょう、か……」
疲れ過ぎて息も絶え絶えに疑問を口にした。
「あなた、現実的な練習量で一番になれると思っているの?」
彼女の瞳が再びワシの姿を真っ直ぐに見つめる。その瞳に映るのは、純然たる強さへの一途な想い。
「やります」
そうだ、彼女の言う通りかも知れない。
無理を可能にしていくプロセスこそが、アスリートの本懐であり、あるべき姿だ。
愛川選手の短い言葉の中には、本人も辿って来たであろう途方も無い努力の道が見える。その説得力がワシの弱音を砕き、意識を前へと進ませた。
更に二時間後。
左手に握られたままのラケットがついに二球目を捉えた。
「よっし!!」
思わず雄叫びを上げていた。
ついに二球目に手が届いた!!
しかし、次の瞬間、当たり前のように逆サイドに三球目のボールが繰り出された……。
「何をしているの? これは多球練習よ。二球目が打てたのだから、三球目が来るに決まっているじゃない」
その声音は当たり前のことを告げるように平坦な口調そのものだった。
ワシはこの段階になってようやく気付くことになる。先程の返球はゴールなどではないということに。ようやく自身のレベルが、この地獄の特別メニューのスタートラインに立ったことを。