第六十四話『一途ですか? いいえ、ミーハーです!』
日課のランニングを終え、朝食を済まし、合同合宿二日目が幕を開けた。
現在体育館内には、ワシらの他にも山王中の一、二年が集合しており、なかなかの大人数が揃っていた。
皆が練習前の監督の言葉を待っている。
どこか静謐な雰囲気に包まれた体育館の静寂を破ったのは山田監督の力強い声だった。
「今日は、山王出身の特別コーチに来てもらっている」
監督のその言葉に選手一同がざわつき出すが、ワシは既にそのゲストが誰なのかを知っていた。
「挨拶頼む」
監督がそう言うとステージ横の教官室の扉が開き、一人の美女が姿を現した。
その場にいた全員が息を呑む。
その美貌とスター性は卓球少年達の心を掴み、卓球少女達にとっては憧れの的である。
「愛川京香です。本日から数日間、ゲストコーチを務めさせていただきます。よろしくお願いします」
一瞬の静寂の後に、大歓声が上がった。
急な有名選手の登場に、生徒達は男女問わず色めき立つ。
「う、嘘やろ!? あの愛川選手がコーチ?? 信じられないべ」
顔を赤らめた蓮が自らの頬をつねりながらそう言った。
「蓮って意外とミーハーだよね」
ルナのことを愛しているとまで言った割に、彩パイセンのファンだとも言っていたし。
「う、うるせー! 尊敬する選手がぎょーさんおるのは良いことだべ! 逆になんでおめーはそんなに冷静なんだよ!?」
ムキになった蓮がちくはぐな方言で言い返してきた。
「え、いや、早朝にランニングしてたら、偶然すれ違って、その時に少し会話したの」
「なまらずるいやんけ! 俺も朝一でランニングしとったのに!!」
「え、何時頃?」
六時頃から走っていたが、まったくすれ違った記憶がない。
「四時」
「はっや!! ちょっと引く……」
素晴らしい意気込みだとは思うが、それにしたって早過ぎる。
「あら、やる気があるのは素晴らしいことじゃない。塔月蓮君」
ワシらのやりとりを聞いていたのか、愛川選手が不意にこちらに話しかけてきた。
「な、なんで俺の名前を!?」
憧れの選手からの呼びかけに蓮が声を上擦らせながら言った。
「私、新世代の注目選手はちゃんと覚えるようにしているの」
その言葉はお世辞などではないのだろう。蓮を見つめる瞳は真剣そのものじゃ。彼女の闘志は本物であり、最前線に立ち続けながらも、新たな才能を意識しているのだ。
皆が愛川選手の言葉に注目する中、一拍間を空け、彼女が再び言葉を紡ぐ。
「今この場にいるのは、王者山王の選手と山田監督が声をかけた将来有望な選手達ばかり。つまりは、今後この中から、私のライバルとなる選手が現れると確信しています。だから私は指導者としてあなた達を高めながらも、自らの成長の場としてここにいます。短い時間ですが、お互いを高め合い実りある合宿にしましょう」
愛川選手の挨拶が終わり拍手喝采が巻き起こる。皆の士気が数段階上がったのが分かる。
拍手が鳴り止み、皆が各々割り振られた台へと向かう。フォア打ちの基本打から練習が始まった。愛川選手はゆっくりと体育館内を歩きながら、目に止まった選手一人一人へとアドバイスをしてまわっている。
普段は葵とばかり練習をしているワシじゃが、今日の相手は彩パイセンじゃ。
せっかく青森にまで来ているのだから、普段は練習出来ない相手との打ち合いの中で、様々な刺激を受けなくては。
そんな思いでワシは彩パイセンのプレーを凝視する。
彼女の基本打には無駄が無く、圧倒的にミスが少ない。その上、コントロールが抜群じゃ。基礎練を行う相手としてこれ以上に適任な人はそういないのかも知れない。
白球が鳴らす規則正しい音が耳に心地良い。
長身のすらりとした細腕が流麗な動きで球を捉える様は美しく、ただのフォア打ちにすら特別感を与えていた。
「彩パイセン、動きに無駄が無いですよね」
彼女の卓球からは学ぶ事が多い。
「何、急に? あとパイセン言うな」
彩パイセンが目を細めながらワシに向かって抗議した。
すると不意に予想外な方角から声がした。
「レイナちゃんの言うとおりね、金城彩さん。あなたの無駄の無いフォームと抜群のコントロール、実に私好みの卓球」
いつの間にかワシらの台に近づいていた愛川選手が、彩パイセンの真後ろから声をかけてきた。
「え、あぁ、ありがとうございます」
少し驚いた様子のパイセンが短めの襟足を触りながら言った。
「次世代を担う二人のプレーが見られるのは私にとっても良い刺激になるよ」
愛川選手が穏やかな声音でそう言った。
「あ、あの、何か私のプレーに問題があれば、アドバイスが欲しいのですが……」
少し照れた様子の彩パイセンが柄にもなく、他人にアドバイスを求めていた。何事にも省エネ思考の面倒くさがり屋のパイセンにしては珍しい。
やはり同じ戦型のトップ選手を前にアドバイスが聞きたいのじゃろう。シェークハンドのオールラウンダーとして愛川選手の技術は世界でもトップクラスといえる。
「うーん、そうね、これはあなたの強みでもあるのでしょうけれど、手足が長い分フットワークへの意識が薄れて、技術でカバーするシーンが多いのかも知れない。それが余裕を生んで良い方向に作用している事もあるから、一概には言えないけれど、もう少し汗をかくのも悪くないのかも」
柔和な笑顔を浮かべながら適切なアドバイスを口にした愛川選手。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる彩パイセン。
その様子からも彼女の愛川選手に対する強いリスペクトが感じられる。
「あ、あの、私も何かあれば!」
こんな貴重な機会はそうそう無い。ワシもぜひ何かしらのアドバイスが欲しい!
「そうね、レイナちゃんは……。うーん、後でかな?」
「え? それはその、どういう意味で……」
「今は言いたく無いかなー、なんて」
謎の言葉だけを残し、愛川選手は違う選手の練習台へと行ってしまった。
「あんたまさか、愛川選手に何かしたの?」
彩パイセンが訝しげな目線でこちらを覗き込む。
「いやいやいや、何もしてないですよ」
思い当たる節など一つもない。あるはずが無かった。
しかし気のせいじゃろうか、愛川選手の去り際のあの一言には、何か複雑な感情の一部が見え隠れしていた気がした。
ワシは漠然とした不安を抱えながらも、額に浮かんだ汗を拭い、ラケットを握る。