第五十九話『切り替えですか? いいえ、失態です!』
じっとりとした汗が背中を伝う。スコアはやや劣勢。何本かのラリーを経て、謎の違和感は増していくばかり。依然として王子サーブに対しての有効打も見つかっていない。
体育館全体の湿度が上がったのかと錯覚する程に、身に纏うユニフォームがピッタリとひっつく感覚がある。それに加えて妙な緊張感と倦怠感が不快感を増長させる。
嫌な展開じゃ。
そんな不安を煽るように目の前の少女は天高くボールを上げた。
このトスの高さは、王子サーブか。
白球が重力に従って玲ちゃんの手元に向かい、それに合わせて彼女の膝が……曲がらない!?
別段特徴の無いバックサーブがネット際に落ちる。
「くっ……」
強張った身体に鞭を打ち、なんとか足を踏み出し台上処理を行うが……。
そんな半端なプレーを嘲笑うかのような強烈なレシーブがワシの真横を通り抜ける。
またも騙された。
トスの高さを頼りにサーブを判別しようとしたワシの安直な考えなどお見通しとばかりのプレー。
水咲 5-7 塔月
「私、お兄ちゃん程、サーブに自信がないから見せ方に工夫が必要なんです」
彼女のその言葉は一見、日本人らしい謙遜ともとれるが、違う。この力強くも淡々とした響きの正体は自負だ。彼女の言う通り、純粋なサーブの威力だけならば、兄の蓮に部があるのかも知れない。しかし、彼女はそれを自覚した上で、武器の持ち味を生かすため、あえてその武器を多用しないのだ。
結果はスコアに表れていた。こちらは常に王子サーブを警戒しなくてはならないが、対応する為に必要な量のデータが取れない。織り交ぜ方が実に上手いのじゃ。まさか年下の少女に心理戦で負けるとは想像すらしていなかった……。
「玲ちゃん、いい性格してるって言われない?」
「ちゃんと自覚してますよ。でも、卓球も人生も目に見えるものだけが勝負じゃないですから」
塔月玲は、決して強くないトーンで芯のある言葉を紡ぐ。
この子はやはり、どこかルナに似ている。
一本の芯を持つこと、それはアスリートにとって代替えの効かない才能の一つだ。
気付けばワシは、目の前の少女に遠い記憶になりつつある好敵手の面影を重ねていた。
「集中」
思い出に浸るような時間ではない。今は目の前の強敵をいかに攻略するか、その一点に集中すべき時だ。
ワシはフェイントを挟んだ横回転系のサーブを繰り出し、ラリーが始まる。
プラスチックのボールが一定感覚で鳴り響く様は一見すると心地良いラリーに見えるのかも知れない。しかし、打っている本人からすると、違和感の連続だ。
その違和感の正体を暴くべく、注意深く打球の軌道を凝視する。
なんだこの独特の打ちにくさは?
ただのフォアハンドですら、球が下からせり上がってくるような感覚。
球の軌道に何かがあるのは間違いない。しかし、その違和感を探ろうにも、纏わりつく焦燥感が思考の邪魔をする。
どうにかしなければ。
はやく、はやく、はやく。
鼓動は早鐘を打ち、思考に蓋がされていく。
下からの圧に身体は強張り、プレーに硬さが生まれる。
何か一つ、何か一つ、そんな気持ちが故か、ワシは自身の最大の武器、スイッチドライブを繰り出す為、左手から右手へと素早くラケットを持ち替えようとした。しかし、その瞬間、ラケットはワシの意思とは別に、するりと右手から溢れ落ち、そのまま床へと落下する。木製の相棒が無機質な地面にぶつかり虚しく鳴いた。
茫然自失。思考停止。
そこからは連続失点が重なり、あれよあれよとマッチポイントを握られていた。
天高く上がるトスを呆然と見つめる。
つい先ほどまでは、あれだけ警戒していたサーブに対して、今はどこか他人事にすら感じる。
美と重力を味方に付けたサーブがこの試合に引導を渡す為、こちらのコートへ着弾した。
驚異的な回転がレシーブすら許さず、あさっての方向へとボールが飛ぶ。
コート外へと弾かれたボールが数回床を跳ねた後に、虚しさを誘うようにゆっくりと転がり続けた。
僅かな間とともに、無機質なスコアボードが捲られ、ワシの敗北が静かに確定した。