第五十八話『気弱少女ですか? いいえ、強気悪女です!』
試合前のラリーから、その違和感は始まっていた。
いつもと違う打球感。
テンポが少しずつズレていくような得体の知れない心地悪さ。
目の前にいる一回り程小さな少女に、何かを狂わされている感覚がある。
そんな曖昧模糊とした状態のまま、漠然とした不安を抱えつつ、ワシと塔月玲の試合は始まった。
「レシーブでお願いします」
サーブ権を決めるジャンケンに勝利した玲ちゃんが軽く頭を下げながらそう言った。
栗毛色のセミロングを一つ結びにした彼女の瞳には、何か明確な力が宿っていた。先程までの少し内気な印象とは裏腹に、意志の強さを感じられる。これから始まる試合への集中力を高めているのだろう。今の彼女からは弱々しさは微塵も感じられない。
ワシは得体の知れない不安感を拭う為、何千回、いや、何万回と繰り返したトスを上げる。
一本目のサーブは、得意のロングサーブを繰り出した。勢い良く突き進むボールが相手のフォアサイドを奥深く抉る。
開幕早々のロングサーブに虚を突かれたのか、玲ちゃんの反応が少し遅れる。結果、彼女のレシーブは浮き、ワシはそのチャンスボールに全力のスマッシュを叩き込む。
プラスチックの白球が鳴らす心地よい音とともに、ワシの先制点が決まった。
「よし」
まずは一点。
水咲 1-0 塔月
二本目のサーブは回転系のショートサーブを繰り出した。
小柄な玲ちゃんにとっては目一杯手を伸ばした位置での打球となる。しかし、その体勢の不安定さとは裏腹に、器用に手首を使ったフリックがフォアハンドから放たれた。
サウスポー同士のクロス対決。
ペンホルダー相手にフォアハンドの打ち合いを選ぶとは、この子は案外、強気な性格なのかも知れない。
ならばワシも、渾身のフォアドライブで応えるのみ。
ワンテンポの溜めとともに、左手を鋭く振り抜く。
左手に握られたラケットがボールと接触した瞬間、僅かな違和感を覚えた。
フォームの微妙な異変とテンポのずれが、普段とワントーン違う打球音を生む。一つ一つは微細な違いに過ぎないが、結果それが、無視出来ない程の違和感を与えてくる。
必然、ワシの放ったレシーブは普段よりも僅かに遅く、僅かに浮き、僅かに回転の弱まった状態で相手のコートを跳ねた。
それは相手にとって絶好球に等しい。
快音が響き渡り、スピードのある白球がワシの真横を通り抜けた。
水咲 1-1 塔月
「なんだ?」
ワシは思わず、小さな声で呟いていた。
違和感の正体が掴めない。
そんなワシの不安を煽るように、目の前の少女は天高くサーブを上げた。
それは先程、蓮が見せたトスの軌道を寸分違わずなぞるように舞い上がった。
あまりに美しいトス。
強大な重力を味方に付けた白球が落下を始め、彼女はそれに合わせ、完璧なタイミングで膝を落とす。
見るものを魅了する流麗な動きは、時を止め、一瞬の美を圧倒的な力へと変える。
少女のか細い腕から放たれた王子サーブが、強烈な回転を内包し、ワシのコートへ着弾する。
何とかタイミングを合わせ、ラケットを振り抜く。
ラバーに接触したボールが一瞬にして、自分の支配下を離れていくのを感じた。
ボールはまったく意図していない方向へと向かい、コート外へと飛び出した。
連続得点に小さなガッツポーズをとる玲ちゃん。
その小さな拳には、練習に裏打ちされた自信を感じる。
まずいな、謎の違和感に加え、この強烈な王子サーブとは……。よりにもよって兄妹揃ってビッグサーバーとは予想外じゃった。
彩パイセンはこんな強烈なサーブをワンセットの中で攻略したのか。まったく、恐ろしい観察眼とセンスじゃのう。
とにかく今は一刻も早くこの違和感の正体と、王子サーブ攻略の糸口を見つけなくては……。
しかし、これだけのサーブを持ちながら、わざわざレシーブを選ぶとは、この少女、中々の食わせ者じゃのう。
ワシがそんなことを考えていると、再び相手のトスが上がった。
しかしそれは、先程とは打って変わって、全くと言って良いほど特徴の無い、シンプルなロングサーブ。
トスの高さは先程の半分もない、ごく普通のサーブだ。
しかしそれが、効果絶大。
王子サーブがくると思い込んでいたワシの脳内は、強烈な回転への対応ばかり考えており、それなりにスピードのあるロングサーブへの対応が遅れた。
なんとかラケットに当てたボールは当然チャンスボールへと変わり、あっさりと打ち抜かれた。
「くっ、やられた」
年甲斐もなく、言葉が漏れた。
この少女、間違いなく策士である。
「ふふ、私、お兄ちゃん程、素直じゃないので」
そこに、試合前のか弱い少女の姿は無く、その笑顔はまるで、男を惑わす悪女の微笑みだった。