第五十六話『一点ですか? いいえ、一転です!』
そのサーブの名は王子サーブ。
重力に従い落下してくる白球を追いかけるようにして自身もかがみ、顔の前で構えたラケットを縦に振り、強烈な回転をボールへと与えるサーブだ。
かつての日本女王が愛し、今でもトップ選手の数名が使用する、テクニカルサーブの一種である。
近年では、その大き過ぎる動作による隙や、そもそもの習得難度の兼ね合いで使用者が激減していたが、まさか目の前で見られるとは。
傍目から見ても分かる強烈な回転を内包したボールが高速で台上を突き進む。
対する金城彩は、ミドルに食い込んだそれを無駄の無い動きで移動し、バックハンドでとらえるが、ラバーとボールが接触した瞬間、彼女の意思とは明らかに別の方角へと球が弾かれ飛んでいった。
「絶対下だと思ったのに……」
彩が呟くようにそう言った。
彼女の抜け目ない観察眼を持ってしても、蓮が放ったサーブの回転方向が読み切れなかったというのか。
「憧れの選手やからこそ、なまら本気でいかせてもらいます」
蓮は淡々とそう言って、二球目のトスを上げる。
高く高く舞い上がる白球は、先程と寸分違わぬ位置で重力に従い落下を始める。
あまりに正確なそのトスに、再び魅入ってしまいそうになる。
ボールが台上に近づき、蓮の身体も同時に沈む。重力と体重を乗せた白球が先程とは違う角度に曲がりながら、一本目とは真逆のコースを襲う。
彩はそれをフォアハンドで打ち抜こうとコンパクトなフォームでラケットを振り抜くも、そのボールはネットにぶつかり、むなしく台上を転がった。
「今度は下回転か」
顔には出ていないが、その声音には僅かな動揺が見えた。
塔月 2-0 金城
山王の一年生と思われる女子生徒がスコアボードを静かにめくる。
「集中」
彩は小さくそう呟き、蓮とは対照的な小さな動作でトスを上げる。最小限の無駄の無い動きの中に小さなフェイントを織り交ぜたショートサーブが相手のネット際スレスレに落ちる。
見事なまでのボールコントロール。
ネット際を狙うお手本のようなショートサーブに対し、蓮は勢い良く台上へと踏み込み、バックハンドで構え、手首を内側に大きく巻き込み、その反動を最大限に生かしたチキータ打法を繰り出す。
横回転の加わった強烈な返球が彩のミドルを襲うが、その展開は予想済みとばかりに、ボールに対してすでに回り込んでいた彩が、コンパクトながらも強烈なフォアドライブを繰り出す。
カウンター気味に放たれたボールがノータッチでコートを駆けた。
塔月 2-1 金城
「流石や……」
ノータッチで得点を奪われたというのに、蓮の声音には驚きよりも、感嘆の色が強く含まれているように思えた。
そこからの展開はシーソーゲームだった。
シェークハンド同士の一騎打ち。互いの全力がぶつかり合う中で、スコアは均衡を保っている。
しかし、両者の顔色には決定的な違いがあった。
彩の顔に動揺は無く、反対に、蓮の横顔には大粒の汗が流れていた。
蓮の得点はサーブ権を握った時ばかりで、サービスエース、もしくは、強烈なサーブによって生まれたチャンスボールを打ち抜くという展開が続いた。ラリー自体は短く、体力を消耗するものでは無いはずだが、にも関わらず、蓮の息はあがっていた。
おそらく蓮には、とてつもないプレッシャーがかかっているのだろう。一セットマッチという短い試合にも関わらず、彩の脅威的な観察眼が、彼の最大の武器を解剖し始めているのだから。
塔月 8-8 金城
エイトオールを迎えたその時、試合の均衡が崩れた。
蓮の放った王子サーブを彩のバックハンドが完璧にとらえた。
快音を響かせたその打球は、蓮が構えた逆サイドを貫く。
塔月 8-9 金城
「まさか、もう見抜かれたんか……」
蓮の瞳には、明らかな動揺の色が映し出されていた。
たかが一点、されど一点。
卓球の試合には、勝ち負けを左右する決定的な一点が存在する。
まるで先程までのシーソーゲームが嘘のようにあっけなく、彩の鮮やかな三連続得点がこの試合に終わりを告げた。