第四十九話『ブラジャーの話ですか? いいえ、ラケットの話です!』
「レイナちゃん、調子良いみたいだね」
もうすぐ変声期を迎えるであろう、ボーイソプラノの透き通った声が自宅の練習場であるガレージ内に響く。
「葵のドライブは相変わらず正確で力強いよね」
ワシは台を挟んで目の前に立つ中性的な美少年へと言葉を返す。
「最近少し、レイナちゃんのフットワークに違和感があったから、ちょっとだけ心配していたんだよね」
「え!? あぁ、うん、それなら、えっと〜、なんか解決したんだよね!!」
流石は観察眼に優れた葵。実はここ最近、おっぱいへの締め付けが強くなっていて、プレーへの集中力を欠いておったのじゃ。しかし、ワシの胸部は新たな武器を手に入れたことにより、その束縛から解き放たれた。
しかし、思春期手前の葵に対し、そんなことは言えるはずもなく、うまい言い訳が思いつかなかった結果、いまいち要領を得ない返事をしてしまった。
「そっか、新しい道具が身体に馴染んできたのかもね」
「えっ!?」
まさか葵は、ワシが子ども用ブラジャーから大人用ブラジャーにステップアップした事に気付いておったのか!?
「ほら、レイナちゃん、長い事使っていたラケットとかラバーを変えたからさ」
「あっ、そっちね〜」
「え、他に何かある?」
訝しげな顔で首を傾げる葵。
「いやいや、何でもないのじゃ」
「のじゃ?」
葵の表情が更に怪訝なものへと変わる。
「そ、そんな事よりも、もうすぐカデットの予選が始まるよね!!」
多少強引なプレーではあるが、ここは力押しじゃ!!
「え、あぁ、僕は昨年優勝してるし、推薦枠だから地方の予選は免除で全国からだよ。あと、レイナちゃんも中学の部は初だろうけど、今までの実績があるからきっと推薦枠だと思うよ?」
全日本卓球選手権中学生以下の部を小学四年生という異例の若さで制覇した彼は、それを誇るでもなく、淡々と語っていた。そしてその在り方そのものが、葵の絶対的な強さの秘密なのだろう。
「本戦はたしか秋頃だったよね?」
「うん、十月末だから、あと半年ちょっとかな。それと今年はコンディションが整えば、年齢制限の無い一般の部にも挑戦しようと思ってる」
「えっ、一般の部!?」
それはつまり、日本のエースである、ワシのパパンも参加する国内最高峰の大会に参加する事を意味していた。
「うん、まずは中学の部で二連覇出来たらの話だけどね。そこで実力が証明出来れば、次のステージに進むつもり。証明というか、確認に近いのかも知れないけど」
葵のその発言は、聞く人によっては驕りたかぶっている様に聞こえるかも知れないが、決してそうでは無い。
彼はもう、はっきりと自覚しているのだ。自身の才能を試すステージが次の段階に差し迫っていることを。それは成長期に靴のサイズがキツくなることや、ブラジャーのカップ数を上げなければいけないことと同義であり、そうなれば人は、窮屈になってきた殻を突き破らなくてはならないのだ。そして彼はその速度が人よりも数段はやいのだろう。
急激な進化には痛みが伴う。それは思春期の成長痛のようなもので、自分自身の変革に身体や心が置いてけぼりをくらうからだ。
最近の葵を見ていると、少しだけ不安に思う事がある。そのあまりの成長速度故に、その事が彼に孤独を与えてはいないだろうかと。
「どうしたの、レイナちゃん?」
くりくりな両目を開き、こちらを覗き込むようにして葵が問う。
「え? あぁ、何でもない」
ワシの考え過ぎなのじゃろうか……。
葵の成長を一番身近で感じているワシじゃからこそ、時折不安に思う事がある。
今まではワシが葵にとって一番の練習相手であり、切磋琢磨するライバルでもあった。しかし、日に日に感じるのだ。どうしようもない、性別の壁を。
それは単純な話だ。男と女では、絶対的な筋肉量に差がつく。そしてその差は間違いなく、後数年もすれば技術では埋め切れない差を作る。
葵が今も特定のクラブチームに所属していないのはおそらく、小さな頃から時を共有しているワシとの練習が日常の生活に染みついておるからじゃろう。
後、二年、いや、葵の驚異的な成長速度を鑑みれば一年かも知れない……。それが彼にとってワシが練習相手として成立するギリギリのラインだろう。
ワシにとって葵はこれ以上ない程の練習相手じゃが、葵にとってワシは後数年もすればもう適正な練習相手とは呼べないかも知れない。最悪の場合ワシが、彼にとっての足枷になるかも知れない。
本当ならばもう、東京のスポーツエリートを育成するチームに参加するべきなのだろう。
葵はどう思っているのだろうか。
「あのさ、葵はその、中学からは東京とかの学校を考えているの?」
「いや、今のところは考えてないよ。なんで?」
「え、だって、東京の方がエリート学園もあるし、世界を意識した練習相手も多く集まるでしょ?」
「うーん、どうだろう? 同世代には今のところ驚く様な選手はいないし、そもそも歳上の高校生や大学生の人を相手に練習するのであれば、北海道にもまだまだ僕より強い人もいるから。それに……」
「それに?」
葵が言葉に詰まるのは珍しく、すぐに続きを促してしまった。
「いや、なんでもない。まぁ、とにかく、卓球の為だけに東京に行くのは、僕には違和感があるのかも知れない」
「そっか……」
思えばずっと卓球ばかりの人生だったが、葵の言う通り、そういう考え方もあるのかも知れない。
そんな今一つ煮え切らない思考を遮ったのは、聞き慣れた、聞き取り難い日本語だった。
「ふぅたぁりとぅもー、よるぅぐぉはぁんができまぁすたーよー!!」
ガレージと家の中を繋ぐ扉が開かれ、リスニング難易度MAXの言葉が響き渡る。
「あっ、夜ご飯が出来たみたい。僕、リディアさんの料理が大好きなんだ!」
先程までの話はもう終わりとばかりに、葵は道具を片付け始め、小走りで我がママンの呼ぶ方へと向かう。
その姿はある種、年相応の可愛らしさを感じさせるもののはずだ。しかし、何故だろう? 心の中に纏わりつく拭い切れない違和感がワシの頭の中を占領していた。
その答え合わせがいつになるのか、それが一体何をもたらすのか? 二度目の人生にも関わらずワシは、小学生の心一つ読めないでいた。