第四十七話『監督ですか? いいえ、父親です!』
何十年と時を刻み続けてきたのであろう油まみれの壁時計が、もうすぐ日付けが変わる事を示していた。娘が寝静まったのを確認した俺は、監督からのお誘いで、とある焼き鳥屋に来ていた。
「それにしても、あのシーンでロビングをかますとは、誰に似たのかとんでもない度胸だな」
焼き鳥片手に日本酒を煽り、ほんのり頬が染まった顔で山田監督が言った。
「我が娘ながら、肝の座り方は大したものですね」
「そうだな、一セットマッチとは言え、うちの次期エース候補の金城を破るとは、正直私も驚いている」
「相変わらず、山王は良いチームですね」
俺は自身の中高時代を振り返りながら言った。
「まぁ、お前や龍司がいた頃が全盛期と言わざるを得ないがな」
「いやー、まぁ、あの頃の龍さんは怪物そのものでしたし、出場すれば優勝が当たり前でしたからね。その背中を追いながら必死に練習してましたよ」
俺が笑いながらそう言うと、監督の顔が神妙なものへと変わった。
「純、龍司は今、どうしている?」
天井を見つめながら、呟くように監督が問う。監督は昔から、龍さんや俺を実の息子のように可愛がってくれていた。そんな山田監督だからこそ、ラケットを手放した龍さんの事が心配でたまらないのだろう。
「龍さんの卓球は今も、葵君の中で生きていますよ」
繊細かつ豪快、しなやかさと力強さを両立した、ある種、卓球の完成形ともいえるプレースタイルは今も葵君の中で息をしている。
「そうか……。そうだな、それだけが救いだな。お前の娘のポテンシャルもとてつもないが、龍司の息子は別格過ぎる。同世代にはほとんど相手がいない状況だ。その孤独が青山葵という大き過ぎる才能を傷つけなければ良いが……」
監督はそう言って、深刻な面持ちで天井の一点を見つめ続けていた。
「大丈夫ですよ。それに、山王にだって多くの才能ある子ども達がいるじゃないですか。山田監督が育てた選手達がきっと、葵君を孤独にはさせませんよ」
「あぁ、俺が監督を続けているのは、龍司のような被害者を二度と出さない為でもあるからな。それに女の子ではあるが、レイナちゃんもいることだしな」
「そうですよ。それに監督はまず、お嫁に行く娘さんから子離れする準備が先ですよ?」
一瞬だけ垣間見えた、陰りのある横顔をどうにか照らしたくて、俺は少しおどけた調子でそう言った。
「言うようになったな、純。お前も他人事じゃないからな?」
「え?」
「レイナちゃんもあと数年も経てば、男の一人や二人連れてくるぞ」
「そ、そんな……」
「百戦錬磨の水咲純も娘の門出には勝てないか」
「そういう監督はどうなんですか?」
「フルセットの最終局面で、相手がマッチポイントを握っている時の気分だよ……」
なんとか絞り出した声音で監督が呟く。
「苦しい状況ですね……」
レイナが旅立つ日に俺はどんな事を思うのだろうか。
「卓球ばかりの人生に思えてもな、それによって生まれた縁が俺たちの人生を作り上げているんだ。それにこうして、教え子達が卓球を通じて人生を広げているのを見るのも、指導者ならではの醍醐味だな」
日本酒の入ったお猪口を見つめながら、ゆっくりと語るその様子は、あの頃の厳しかった監督のイメージからは遠く、心の端が揺れる。
「そうですね、学生時代のあの頃は、自分の娘もこうして山田監督に指導して貰えるなんて思ってもいなかったです。そう考えると縁ってものは、不思議なものですね」
「そうだな」
純粋な優しさを凝縮したその声音には、長い長い監督の歴史が詰まっていた。
「結局、レイナちゃんが青森にまで来た本当の理由ってのはなんなんだ?」
「本人の言う通り、強くなりたいという気持ちに嘘偽りはないようですが、少し聞いた限りだと、その気持ちをより強くしたのは、少し前にあった出来事みたいで」
俺も詳しく聞いたわけではないが、レイナは少しだけ語ってくれた。
「同世代の選手に負けでもしたのか?」
何人もの選手を育ててきた監督の勘がズバリ言い当てる。
「はい、ですが、それだけじゃないんです……」
「なんだよ、深刻そうな顔をして」
怪訝な顔で監督が言った。
「完敗したその相手なんですが、卓球をはじめて一年未満の無名の少女だったらしく……」
自分で口にしていても現実感のない台詞だ。
「一年未満……。まさか、あの話、本当だったのか?」
「何か心当たりが?」
監督がここまで動揺しているのは珍しい。
「あぁ、あまりに荒唐無稽で、てっきり冗談だと思って聞き流していたんだがな。少し前に名古屋の名門、愛明中の女子エースが無名の小学生にストレート負けしたって話なんだが、なんだったかな。確か、名前が……日陰、日陰鳴とか言っていたな」
「日陰鳴……」
俺は得体の知れない不安感とともに、その名前を口にした。
「もし、仮に、この話が本当なんだとすれば、もうじきその少女が、日本卓球界を震撼させるだろうな」
まだ見ぬ荒削りの才能を評し、監督はそう締め括る。
日陰鳴、その少女の才能が一体、レイナの卓球人生に何をもたらすのか。
まわっていたアルコールもいつの間にか消え去り、残ったのは、漠然とした不安だけだった。