第四十四話『最短距離ですか? いいえ、茨の道です!』
温泉宿の露天風呂に浸かり、練習の汗と疲労を流し、夕食の懐石料理に舌鼓を打つ。練習後はバランスの良い食事を取るのもアスリートの仕事の内だ。
そうしてお腹と心が満たされ、一息ついた所で、ワシはスポーツバックをあさり始めた。そしてカバンの中から、朱色のラケットケースを取り出す。丁寧な手付きでゆっくりとチャックを開けて、その中から一本のラケットを手に取る。それは長年連れ添った相棒じゃ。幾度の困難を共に乗り越えて来た戦友でもある。ワシはそのラケットを見つめ、ただ一言だけ呟いた。
「ありがとう、お疲れ様」
和室に染み入るその言葉に、父も何か感じ入るものがあったのか、神妙な面持ちでこちらを見つめていた。
いつかきっと、ワシにとって大切な者が現れた時に、それが今世での子どもなのか、はたまた、次世代を託す後輩なのかは分からないが、その時まではゆっくり休んでいてくれ。
「おやすみ」
ラバーの表面を優しく撫で、ワシは丁寧な手付きで相棒をケースへとしまった。
* * *
青森山王中学での合宿五日目。
等間隔で鳴る快音は、ワシの身体に新たな武器が馴染んできた証拠じゃ。微細なコントロールや小技など課題は山積みともいえるが、ボールのスピードや威力に関しては、大幅なパワーアップを感じている。しかし、ワシにとってはもう一つ、大きな課題が残っておる。
「よし、前進回転の調子も上がってきたな。だがこれだけでは、お前だけが持つ可能性を磨くことは出来ない」
プラスチック製のカゴに山のように積まれたボールが無くなり、球出しの手を止めた監督が言った。
「はい」
流石は数々の歴代日本チャンピオンを輩出した名門、山王中学の監督。ワシが懸念しておった課題にもすぐに気がついたようじゃ。
「水咲レイナの代名詞とも言えるスイッチドライブ。あれはお前だけの強力な武器であり、無限の可能性を秘めたプレースタイルだ。だが同時に、あれはお前を地獄へと突き落とす可能性も秘めている。それは本人が一番良く分かっているはずだ」
「はい」
そう、スイッチドライブはワシにとって強力な武器であると同時に諸刃の剣でもあるのじゃ。
「中途半端な両利きならば、何の意味もない。左右の技術が遜色無くトップレベルに達してこそ、そのスタイルに価値が生まれる。相手を驚かせる為だけの一度限りの奇襲では駄目だ。このスタイルの真の価値が分かるか?」
真剣な面持ちで監督が問いかけてくる。
「ペンドライブ最大の弱点である守備範囲をカバー出来ることに加え、ペンドライブの理想型であるオールフォアの実現です」
利き手の切り替えにより、守備範囲が広がるのは当然として、左右どちらに飛んできたボールに対しても、フォアハンドでの対応が可能なのは、大きなメリットと言える。
「確かにそれらも重要な要素だ。しかし、そのスタイルの真の価値は、その唯一性にある」
「私だけの強みということですか?」
「あぁ、現状それは水咲レイナ、ただ一人の可能性だ」
監督の言葉通り、現状このプレースタイルを選んでいるのは、ワシ一人だということに間違いはない。しかし、それはつまり、他者が選択しない愚かな道を歩んでいると言い換えることも出来るのだ。
そもそも、両利きの人自体が珍しいが、それでも、卓球選手の中に両利きの人間がワシだけしかおらぬなど、そんな馬鹿げた話があるはずも無い。しかしそれでも、ワシのように試合中に利き手を入れ替えてプレーする選手は他にいない。
一体何故なのか?
それには明白な理由がある。答えは実にシンプルだ。
膨大な練習量。
少し考えれば分かることじゃが、仮に初めてラケットを握った段階で、左右どちらのプレーも遜色ない選手がいたとして、当然、右手の練習量が上回れば、左手でラケットを握った際に比べ、右手の方が習熟度が高い事になる。
右手でラケットを振れば右手の技術や筋肉が発達し、左手でラケットを振れば左手の技術や筋肉が発達する。それは至極当たり前のことで、それら両方を極めようとすれば必然的に、他者の倍の練習が必要となる。
まぁ、足腰や動体視力等、共有される部分もある故に、倍は些か言い過ぎな気もするが、いずれにせよ、付け焼き刃の両手打ちなど、本来通用するはずもないのだ。
ならばなぜ、ワシはスイッチ打法を続けているのか。それは、前世の練習による経験値を引き継いでおるからじゃ。
前世でワシは右利きのプレイヤーであり、右手に握るラケットはもはや、身体の延長線上と言って良い。しかし、現世でのワシは左手を中心にプレーする事が大半だ。もうかれこれ、十年以上はこの身体で過ごしており、気の遠くなるような練習量をこなした自負もある。そう、ワシにとっての最大のアドバンテージは、二度目の生を受けた事による、人生二回分の練習時間なのじゃ。そのアドバンテージがワシにこのプレースタイルを与えた。
この選択がワシの卓球人生をどのように導くかは分からない。しかし……。
ワシの長考を引き継ぐかのように、監督がゆっくりと口を開いた。
「リスクを負わずして勝ち取れる頂点など存在しない。それに、人は先頭を歩もうと決意した時、まだ誰も通ったことの無い、新たな道を開拓しなくてはならない。水咲レイナ、お前にその覚悟はあるか?」
監督の真っ直ぐな瞳がワシを射抜くように見つめる。
「はい、私の目標はオリンピックでの金メダル、ただそれだけです!」
はっきりと口にした。王者が集う山王中学の体育館で。
様々な感情を含んだ視線がワシを貫く勢いで見つめてくる。それらの視線の槍は、羨望であり、嘲笑であり、応援であり、敵意でもある。
ようやく新たな武器が馴染みはじめていた左手から、右手にそれを持ち替える。
それは確固たる決意表明であり、宣戦布告でもある。
「最終日まで時間がない。右手の仕上げは左手の倍速でやるぞ。ついて来い!」
監督の激励が体育館に響き渡る。
「はい!」
ワシも負けじと、全力の叫びで応じる。
世界初、前人未到、人類史上初、いくら時代が移りゆこうとも、それらの言葉は色あせず、否が応でも男の心に火をつけるのだ。
まぁ、ワシ、女の子なんじゃが。