第四十二話『スパルタですか? いいえ、期待の裏返しです!』
昨日はあれから、パパ上殿が手配してくれた温泉宿に泊まり、ゆっくりと疲れを癒した。
若い身体のおかげか体力はすっかり回復したが、敗北のイメージはまだ払拭し切れてはいない。
そんな複雑な心境の中、練習前のランニングを行う。どうやらそれは山王中学の伝統らしく、ボールを使用する実戦的な練習の前に走り込みをするのだとか。おそらくはトーナメントなどの連戦を意識した体力作りの為だろう。最終セットでも疲れを見せずに実力を発揮出来る選手は強い。山王中学を王者たらしめる理由がそこにはあった。
「足を止めるなよー!」
監督の激励のもと、体育館の外周を走る部員達。体力には自信があるワシも、両足に疲れを感じ始めていた。しかし、昨日の今日でへばってはいられない。
年上の集団とはいえ、体力勝負で負けるわけにはいかないのじゃ。日本式ペンホルダーの使い手として、フットワーク練習を欠かしたことはない。
両面で強打が打てるシェークハンド主流の現代卓球において、片面にしかラバーを貼らないペンホルダーが生き残るには、尋常ならざるフットワークが必須。
次のステージに上がる為、道具のアップデートは受け入れるが、この戦型までも変えるつもりはない。それに、両利きとなったワシにとっては、ペンホルダーの弱点も強みに変えられる。
すでに一度生まれ変わっているこの身じゃが、ここからまた、ワシの卓球は生まれ変わる。
早朝の太陽を背に、両足に更に力を込める。
「おはよう、朝から気合い入ってるわね、レイナ」
ワシが更なる加速をかけたと同時に、隣に並走してきた涼香が不意に話しかけてきた。
「もう、あんな負け方はごめんだからね」
こんな所で立ち止まるわけにはいかない。
「そうね。けれど、大丈夫よ。あなたの才能は、こんなところで終わるものじゃない。小さな頃からあなたを知っている私が言うんだから、間違いないわ」
ハイペースで走りながらも、息一つ切らさずに涼香は言った。その姿からも分かる通り、彼女もまた、弛まぬ努力を重ね続けて、今までずっと走り続けてきたのだろう。
そんな涼香の真っ直ぐな瞳がワシに次の一歩を踏み出す力を与える。
かつては対戦相手としてワシの前に立ちはだかった彼女の言葉だからこそ、心に刺さるものがあった。
「涼香……」
心に染み渡るその言葉に、大きく感情を揺さぶられ、思わず両目に熱を感じる。
「こら、ここでは桐崎先輩よ?」
小さな笑顔を浮かべながらワシに注意するその姿に、涼香の優しさと成長が伺え、なんだか時の流れを感じた。
「はい! 桐崎先輩!!」
青森の澄み切った快晴の空に、ワシの返事が響き渡る。言葉が空に溶け合い消えて、心に巣食う不安感すらも、その広大な青空が受けて止めてくれるかのようだった。
* * *
早朝ランニングが終わり、ストレッチを済ませ、いよいよボールを使った練習が始まる。日々行われている練習だろうに、一定の緊張感が常に体育館を包み込んでいた。流石は強豪校、練習といえど一人たりとも気を抜いてはいない。
そんな実戦さながらの空気感の中、ワシはまだ、ボールを打たずに体育館の端で目を瞑って立っていた。
「水咲、目を開けろ」
山田監督の声に従い、ワシはゆっくりと目蓋を開けた。
監督の手がこちらに一本のラケットを差し出している。
「これがお前の新たな武器だ」
「はい!」
ワシはそう言って、その新たなラケットを受け取る。
そしてそれをおそるおそる左手に握ると……。
「え!」
思わず声を上げてしまった。それ程までに手に馴染む感覚。
グリップのフィット感と持った時の重量感。その両方があまりにも馴染み深い感覚だったのじゃ。
「驚いただろ?」
心なしか、少し楽しそうな声音で監督は言う。
「は、はい……」
初めて握ったとは思えない程の驚きのフィット感だ。
「グリップに関しては、今まで使用していたものに極限まで近づけ、ラケットそのものの重量もなるべく変わらないようにと厳選したオーダーメイドのものだからな」
監督は淡々ととんでも無いことを口にした。
「え!? だ、だって、昨日の今日でそんな……」
特注のラケットが一日やそこらで完成する筈がない。
「実はな、少し前にお父さんから連絡があったんだよ。娘に指導して欲しいとね。私はそれから水咲レイナの試合動画を隅々まで見て、大きな問題点は現状のオールドスタイルにあると気づいたわけだ。だから、新たなプレースタイルに合わせたラケットを発注し、それが今日、その手に収まったということだ」
監督は、それがまるで当たり前の事のように平然と話しているが、これは間違いなく、とんでもない事のはずじゃが……。
「何故、そこまでしてくださるのですか?」
いくら愛弟子の実の娘だったとしても、この待遇はあまりにも特別、いや、異常と言っても過言ではない。
「日本卓球界への恩返しと、これからの未来の為さ」
少し遠くでこちらを見守る水咲純の姿を見つめ、その後、視線を切り替えた監督が、ワシの瞳を真っ直ぐに見つめてそう言った。
「それはつまり……」
「これ以上言わせるなよ。期待に応えて見せろ、水咲レイナ」
その言葉に含まれた重みを背負いきれるようにと、ワシは肺いっぱいに空気をためる。そして、それを余す事なく解放する。
「はい!」
それは、前世も含め、今までの人生で一番の返事だったに違いない。
「よし、良い返事だ。ではラケットを構えろ。今日この日をスタートラインだと思え」
監督自らがラケットを握り、台の正面に立つ。
様々な思いを内包したラケットを手に、次のステージへの第一球目が今始まる。