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第三十六話『天からの声ですか? いいえ、少女の叫びです!』

 全日本卓球選手権、女子シングルス決勝、最終セット。観客全員を魅了するような衝撃のプレーで先制点をもぎ取った奏だったが、試合の流れ自体は、愛川選手にあるように思える。


 スコア自体はシーソーゲームになっており、一方が取れば、もう一方が取り返すという均衡状態が保たれているのだが、セブンオールを迎えた現時点で、両者の表情には大きな違いが生まれていた。


 真剣な横顔から大粒の汗を流す奏に対し、普段通りの微笑を浮かべている愛川選手。

 

 スコアボードには表示されない大きな差が奏の頬を伝う。


 凄まじいラリーの応酬。


 スコアは進むが点差は開かず、開いていくのは体力差だけ。


 愛川選手の正確無比なボールコントロールが、右へ左へ奏を揺さぶる。

 

 日本式ペンホルダーの宿命とも言える激しい運動量に加えて、愛川選手の左右への揺さぶりや、プレーの中に織り交ぜる小さなフェイントの一つ一つがあまりにも巧みで、着々と奏の体力と精神力を削っていく。


 経験と技術力の差を尋常ならざるフットワークで埋めていたツケが、試合終盤になって重くのしかかる。


 スマッシュやドライブの威力は確実に奏が上回っている。反射速度やフットワークについては言わずもがな。それでも奏がリード出来ない理由は、愛川選手の膨大な経験値に他ならない。


 数々の世界大会やオリンピックにも出場経験のある彼女と奏では、踏んできた場数が違う。


 大舞台での試合は心の摩耗が激しい。単純な実力差だけでは測れない何かが潜んでいるのだ。


 左右への大きな動きと、大舞台の精神的プレッシャー、その両方が奏の足に重くのしかかる。


 フィジカル面でなんとかラリーを拮抗させている奏だったが、その足が止まりかけた一瞬……。


「奏! 小さくなるな! 足を止めた者に勝利はないぞ!! 動け! 奏!!」


 ワシの口は衝動のままに、愛する孫へと叫んでいた。



 * * *


 目の前には、日本最強の女子卓球プレイヤーが立っている。


 日々の練習はもちろん、体調管理も含め、万全の状態で迎えた全日本決勝。


 正直、今日は動きのキレも打球の感覚も驚く程に調子が良い。だからこそ痛感してしまう。目の前の女王と己の力量の差を。


 最終セットを迎え、徐々にトップスピードの動きが維持出来なくなってきている。これでも日々の走り込みはサボった事がないし、フットワークの練習は人の倍以上やっている自信がある。


 しかし、こちらがいかに打てども打てども、愛川さんの微笑が崩れることはない。対峙して初めてわかる。この微笑の真の意味(おそろしさ)が。自分も同じだけ得点を重ねているはずなのに、その揺るがない余裕を前にすると、素手で鉄板を殴っているような感覚に陥るのだ。


 様々なメディアが、閃光なんて大袈裟な異名で私を呼ぶが、今や自慢の足も鉛のように重い。それでも動き回れるのは、お爺ちゃんが残してくれた教えがあるからだ。


 小さくなるな、動き続けろと。


 シェークハンド主流の現代卓球においてそれは古臭い考え方なのかも知れない。

 それでも、私の中での最強の卓球選手は、お爺ちゃんに他ならない。


 こんな風にボールが打てたら、あんな風に素早く動けたら。私の卓球人生は、そんな憧れからはじまったのだ。


 あの背中に少しでも近づく為に。


 ただ必死にその思いで、前に前にと足を動かしてきた。


 しかしその足も、疲労と極限のプレッシャーを前にその動きを止めようとしている。


 あぁ、激しいラリーの中、こんな無意味な思考が頭を占領している時点で、私の集中力はもう……。


「奏! 小さくなるな! 足を止めた者に勝利はないぞ!! 動け! 奏!!」


 それは、幼い少女の甲高い叫び声だった。その振動が揺らしたのは鼓膜だけではなく、私の心の奥深くまでもを強く揺らした。


 諦めかけていた心に火が灯るのを感じる。


 止まれば負ける、だから動け。たった一歩が勝敗を決する事がある。


 一点を大事に出来ない者に、卓球をする資格は無いと、お爺ちゃんは言っていた。


 見ず知らずの少女の声が何故だかその言葉を思い出させた。


 体力や精神力を超えた何かが、私の足を動かす。


 苦しい体勢で飛び付いた一本。


 限界を超えたフォアドライブが、敵陣を抉るように突き進む。


 強烈な前進回転を纏った白球が急加速する。


 均衡を崩す一本。


 女王の無敵の微笑の奥に一瞬だけ、感情が見え隠れした気がした。


 先程までの雑念は全て消え去り、集中力が極限まで引き上げられる。


 それは、自身の心を無に近づける作業に近いのかも知れない。


 無駄なものを全て捨て去り、身軽になった足は、驚く程に良く動く。


 打球音すら消えたかのような静寂と平穏。


 深く深く、果てしない闇へと潜っていくようなイメージ。


 何か一つ、ステージを超えた。


 そこから数本のラリーは一切記憶がない。


 気がつけば私は、表彰台の上にいて、その手には優勝トロフィーを抱えていた。

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