第三十五話『ファンですか? いいえ、祖父です!』
歴史が変わる瞬間に立ち会っているのかも知れない。
全日本卓球選手権、女子シングルス決勝。日本一卓球の強い女が決まるその舞台に立つのは、全日本三連覇中の女王、愛川京香、二十三歳。日本女子卓球界のエース。シェークハンドのオーソドックスな戦型で隙の無い堅実なプレーが有名だ。全ての技術が高水準であるが故に、プレースタイルによる二つ名などは無く、一部ファンからは、微笑の愛川と呼ばれている。試合中に一度足りとも崩れることのない微笑みは、絶対的な自信のあらわれなのかも知れない。
対する挑戦者は、十五才の天才少女、碇奏。次世代を担うエースの呼び声が高く、神速のフットワークで縦横無尽にコートを移動する様から、閃光の二つ名を持つ。今は亡き卓球界のレジェンドの碇玄三を祖父に持つ最強のチャレンジャーというわけじゃ。
試合はフルセットにまでもつれ込み、両者は今、ベンチに戻り水分補給をしているところだ。
「ねぇ、レイナ。どちらが勝つと思う?」
体育館の張り詰めた空気の中、観客席の左隣に座るルナがひっそりと問いかけてきた。
「私は奏選手を応援してる」
何せワシの、愛しの愛しの孫なのじゃから。
「レイナと同じ戦型だから?」
ルナが更に問いかけてきた。
「うーん、それもあるけど、単純に奏選手が好きなんだよね」
ワシは正直な胸の内を話す。
「あの人の卓球、なんかレイナちゃんに似てるよね」
右隣に座る葵が何とはなしにそう呟いた。
「確かに言われて見れば、ドライブのフォームとか、フットワークの癖とかもよく似ているわね」
葵の言葉に深く頷きながら、ワシのプレーを思い出すようにしてルナが言った。
それもそのはず。奏に最初に卓球を教えたのは、何を隠そうこのワシなのじゃから。しかし、その技術はワシが教えていた頃とは比べられない程に磨かれていた。
「大きくなったのぅ……」
「え?」
ルナが怪訝な顔でこちらを見つめている。
「あー、いや、えっと、なんでもない!」
しまった、成長した孫の姿につい……。
そんな一波乱が起こりつつも、最終セットの幕が上がる。
両選手が台の前につくと、会場の緊張感がより一層濃いものへと変わる。
奏の左手がサーブを上げる。
天高く上がった白球が重力に従い落下する。いくつもの細かいフェイントを入れたフォームから、鋭いサーブが繰り出される。
青色の台を駆け抜ける打球は、愛川選手のミドルを強襲した。フォアハンドで打つか、バックハンドで処理をするか、相手に一瞬の思考を迫る絶妙なコース。しかし、流石は女王の貫禄と呼ぶべきか、一ミリの綻びも無い微笑を浮かべたまま、これがバックドライブの完成形と感じさせる程の流麗な動きで愛川選手がレシーブを行う。
離れた位置からですら分かる、凄まじい回転量を感じさせる打球が恐ろしいほどの正確性を持って、奏のコートのバックサイドの角へと着弾する。
ワシと同様に日本式ペンを使う奏にとって、バックサイドは永遠の課題とも言える。
ラバーを表側にしか貼らない日本式ペンホルダーは、両面にラバーを貼ってあるシェークハンドラケットに比べて、当然バック側の処理の自由度は減る。それ故、現代卓球では、ほとんどの選手がシェークハンドのラケットを選ぶ。
しかし、日本式ペンホルダーにはシェークハンドを上回るメリットもある。
それは幼稚園児にでも分かる理屈じゃ。二枚よりも一枚の方が軽い。当然の理屈。
そして、この舞台に立つ程の実力者が、自身の最大の弱点を放置しているはずもない。
針の穴を通すような正確かつ強烈な打球が奏のバックサイドを強襲するが、その瞬間にはすでに、打球に対して完全に回り込みを済ませた奏が待ち構えていた。
瞬間移動と言われても納得してしまいそうになる程のそれは、トレーニングに裏打ちされたシンプルな横移動。
日々の積み重ねにより磨き抜かれたフットワークは、彼女に異名を与えた。
閃光。
しかしその真の由来は、トップクラスのフットワークのみにあらず。
凄まじい打球音が体育館中に鳴り響く。
その音が観客達の鼓膜を揺らした頃には、女王の真横を小さな白球が通り抜けていた。
閃光、それは、音すら置き去る光を指す。