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第二十九話『凡庸ですか? いいえ、消えます!』

 集中力が十全に高まったのを感じる。

 ゆっくりと目蓋を開ける。


 目の前には最高の好敵手(ライバル)がいる。


 ダブルスではあるが、リベンジ戦には変わりない。三本ラリーを終え、ラケット交換を済まし、サーブ権をかけたジャンケンが始まる。


 観察眼に優れた葵が前に出ると、向こうは意外にもルナではなく、その執事の土井さんが前に出た。


 葵の瞳と土井さんの双眸がぶつかり、それを合図に互いが拳を突き出す。


 最初はグーの合図で始まったそれは……、土井さんの勝利で終わった。


 少なくない動揺が走る。


 たかがジャンケンと思うかも知れないが、ワシはサーブ権をかけた重要な場面で、葵が負けた姿を見た事が無かった。


 不穏な空気を残したまま、相手のサーブから試合が始まる。どうやら向こうも利き手が別の理想的なペアのようだ。


 土井さんは右手にラケットを構え、左のフリーハンドでゆっくりとボールをついている。そしてそのまま流れるような動作でトスを上げ、少し癖のあるフォームで、おそらくは回転系のサーブを繰り出した。


 そのサーブを受けるのは葵だ。


 無駄のない美しいフォームは、普段の葵の練習量を物語っている。この歳にしてこれ程までに完成された選手は世界広しと言えども、そうはいないだろう。


 そしてその美しいフォームが空を切った。


 ボールに一切かすりすらせず、只々虚しく空を切ったのだ。


「え……」


 言葉にもならない短い音が、思わず口から漏れ出していた。


 葵が空振りをする事など、想像すらした事も無かったから。


 側から見た限りでは、フォームが少し独特なだけの、なんの変哲もない回転系のサーブに見えたのじゃが。


「消え、た……」


 葵は何度か瞬きをし、大きな瞳を擦りながら、首を傾げていた。


「ドンマイ、ドンマイ。次、集中していこ」


 心の中に渦巻いた動揺を押し殺して、ワシは葵へと平静を装った言葉をかける。


「うん……」


 イマイチ腑に落ちていないのだろう。首を傾げながらも、再びレシーブのポジションにつく葵。


 再び土井さんがサーブを繰り出す。フォームが少し独特ではあるが、やはり、サーブ自体は何の変哲もないオーソドックスな回転系のサーブに見える……。が、しかし、次の瞬間、驚愕の展開が訪れた。


 葵のラケットが再び、何も無い空間を切り裂いた。


 先程と寸分違わぬこの展開は、出口の無い悪夢の再来。


 ノータッチで抜けたボールが、ワシらの背後でカンカンカンとバウンドした。


「消えた、また消えた……」


 ラケットを振り抜いた姿勢のまま、硬直してしまった葵が小さく呟いた。

 額には大粒の汗が流れ、明らかに動揺している事が分かる。


「大丈夫、大丈夫」


 自らの口から出た根拠のないその言葉は、状況を打開する為のものではなく、子どもが自身に言い聞かせる自己暗示のようなものかも知れない。


 卓球のダブルスは基本的にレシーブをニ回打った選手が次のサーブを出し、サーブをニ回打った選手は次にパートナーと立ち位置を交代して、待機する側へと移動する。


 つまり次は相手のサーブを二本受けた葵のサーブから攻撃が始まるのだが、どうにも最初の二本の失点が脳裏にこびりついているようで、その幼い横顔には不安の色が濃く出ているように見える。


 序盤での連続失点は確かに、身体を強張らせ、精神的な緊張を助長させるが、あくまでもこれはダブルスなのだ。プレーや言葉で味方を支える事だって出来る。


「大丈夫だよ。試合は始まったばかりだし、葵の強さは私が一番良く知っているから」


 ワシがかけられる言葉など、精々がこの程度。だからワシは、己の背中(プレー)で葵を鼓舞することに決めた。


 ワシの言葉に小さく頷き、サーブのセットポジションにつく葵。それを受ける相手はルナだ。彼女の性格上、一本目のレシーブは左手から放つクロスへの強烈なフォアドライブの可能性が高い。ならばここは、この不穏な空気を切り裂く為にも、真っ向勝負で打ち破る。


 葵が台の下で回転系のサーブのサインを出すが、ワシはそれに首を振り、葵の得意なスピード系のロングサーブのサインを出す。


 ワシの意図を汲み取ったのか、今度は力強く頷いた葵。


 葵のその小さな手が天高くボールを舞い上げる。重力によって生まれた落下による(エネルギー)を最大限に生かしたロングサーブが繰り出された。


 一瞬、それを受けるルナの顔が、嬉しそうに微笑んだ様に見えた。そしてそのまま、彼女は全力でラケットを振り抜いた。


 甲高い打球音が鼓膜を揺らし、鋭い弾道がワシのバック側を強襲する。


 ダブルスならではの、回り込んだ態勢からのクロスへの強烈なフォアドライブ。

 日本式ペンの最大の弱点とも言われる、バック側への深い返球。流石は塔月ルナ。技術、知識ともに最高レベルのプレイヤーと呼べる。


 しかし、本気のワシに、バックハンドなど存在しない!!


「スイッチドライブ!!」


 瞬時にラケットを右手に持ち替え、ワシは全力のフォアドライブを放つ。


 相手の威力を力に変え、カウンター気味に放たれたそれは、ノータッチで相手コートを駆け抜ける。


 2ー1


 ワシらの初得点が決まった。


「なるほど、流石はお嬢様が太鼓判を押すだけのお方ですね。老いぼれにこの速さは中々に厳しい」


「ちょっと何やってるの、じぃや! 確かに、初球から来るとは思わなかったけど、スイッチドライブについては前から話をしていたじゃない!!」


「マジシャン仲間の中にも両利きの人間はいましたが、まさかスポーツの試合で左右、遜色なく扱える人が存在するとは驚きです」


「感心してる場合じゃないでしょ!?」


 どうやら、相手チームにもある程度の動揺を与えられたようだ。この勢いで、スコアを振り出しに戻したいところ。


 葵も少し落ち着いてきたのか、その横顔に先程までの焦りは感じられない。


 サインで互いの意思疎通を図り、葵がゆっくりとトスを上げた。


 丁寧なトスに美しいフォーム。


 シンプルではあるが練り上げられた下回転系のサーブが狙いすましたネット際に落ちる。


 台上で低く跳ねたその球を手首と前腕を中心にフリックで打ち返すルナ。


 意図も容易くやっているように見えるが、凄まじい精度の技術だ。フリックとは台上でツーバウンドするような、短い下回転や横回転サーブに対して使われる打法だが、試合の立ち上がり段階で、ここまで思い切りの良いプレーは、確固たる自信がなければ出来ない。


 手首を使って、はらうように放たれたそれは、

まさに理想的なフリックだった。


「くっ、おっるぁー!」


 左のフォアサイドギリギリに飛んで来たその打球に、必死に食らいつく。


 やや飛びつき気味に放った打球だが、勢いは充分。


 ワシの返球に対して、決して美しいとは言えない独特のフォームで土井さんがレシーブをした。


 球の軌道はさして鋭くもなく、葵にとってそれはチャンスボールと言っても良いレベルの球だろう。


 しかし次の瞬間、またも葵のラケットは、小さな白球をとらえることなく、何もない空間を虚しく叩いた。


 打球はそのまま背後を通過し、ワシらの不安を煽るように数回、不規則に床を跳ねる。一瞬の沈黙の中に白球の音だけがリズムを刻む。その虚しく響く音色は、心にまで敗北のイメージを刻み込むのであった……。

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