第二十二話『ごめんなさいは必要ですか? いいえ、本気だった証です!』
目が覚めるとそこには見覚えの無い天井が。
「もぉー、しーんぱーすまぁーすたぁよーレイナー!」
意識がまだ覚醒しきってない中、あまりにも聞き慣れた聞き取り難い日本語が鼓膜を揺らす。
「え、ママ、あれ? 試合は??」
ここはどこじゃ? ワシは確か、試合の真っ最中だったはずじゃが??
「レイナ、試合はもう終わったんだよ。残念だけど、最後の得点を決める前に、倒れてしまったんだ」
マミーの後ろから現れたパパ上殿が優しい声音で諭すようにそう言った。
その言葉が示す事実は、敗北の二文字。
そうか、ワシは負けたのか……。
周りを見渡してようやく気がついたが、ここはどうやら病室のようじゃ。
つまりワシは試合の途中で力尽きて、病院へと運ばれてしまったという事か。
茫然自失。
しかし、敗北の味を噛み締めるよりも先に、ワシの思考は霧散した。病室の扉のノックによって。
「どぅーぞぉー」
ノックの音に反応したママンが返事をした。
ガチャ、という音とともに病室へと入ってきたのは一人の少女とその保護者らしき女性。
「桐崎一葉と申します。涼香の母です。レイナさんは大丈夫なのでしょうか?」
なるほど、娘の対戦相手が倒れたと言う事で、わざわざ病室にまで見舞いに来てくれたというわけか。なんと律儀な親御さんなんじゃ。
「はい、疲労と熱中症によって一時的に倒れてしまったようで、二、三日安静にしていれば、全く問題ないとの事です。わざわざ病室までありがとうございます」
父上がとても丁寧な口調で対応しておる。流石は日本チャンピオンと言ったところか。
大人同士のやりとりが終わり、僅かな沈黙が生まれたが、その沈黙を埋めるかのようにして涼香が口を開いた。
「あの……。ごめんなさい……」
そう言って深々と頭を下げる涼香。その姿には試合中の異様な執着心のようなものは見受けられない。
「お互いベストを尽くしただけ」
ワシは子どもらしからぬ言葉を口にしたが、こればかりは本心じゃから、誤魔化すわけにはいかない。どんな流れであっても、お互いが勝つ為のプレイを積み重ねた結果が今だ。
「でも……」
ワシの返答になんと答えて良いのか、口ごもる涼香。
「涼香ちゃんはお父さんに似て、素晴らしい卓球選手になったね」
再び生まれた沈黙をやぶったのはパパ上殿の言葉だった。
「え……。私のお父さんを知ってるの?」
「知ってるも何も、試合をした事があるよ。強烈なフォアドライブと、後陣での粘り強いロビングは印象的だったね」
大事な記憶を懐かしむようにして、パピーはそれを楽しそうに語る。
「え、だって、お父さんは貴方にストレート負けしたのに。それなのに覚えているの? バカにしてないの?」
何か信じられないことが起きたかのように、動揺した涼香が言った。
「あの試合があったから、僕はあの年、全日本を優勝出来たと思っているよ。ストレートとは言っても、11ー9、11ー8、11ー9と、どのセットも接戦だったし、あの試合が僕を勢いづけてくれたんだよ」
水咲純のその言葉に、衝撃を受けた様子の涼香。彼女の小さな頭の中には一体、どんな感情が駆け巡っているのか。
「なんで……。どうして悪者じゃないのよ!!」
表面張力ギリギリだった感情がついに溢れ出してしまったのだろう。その激しい勢いのままに涼香が叫ぶ。
「涼香ちゃんはお父さんが大好きなんだね。君のお父さんは卓球を辞めてしまったかも知れないけれどね、お父さんのプレイはまだ、涼香ちゃんの中に間違いなく生きているよ」
その言葉を聞いた瞬間、涼香はただひたすらに泣いた。人目も気にせずに、大粒の涙をこぼし、泣いて、泣いて、泣いて、泣いた。何度もしゃくりあげ、蓄積された感情を爆発させるようにして流したそれは、彼女を縛り付けていた呪いのような何かなのかも知れない。
そしてそれは、あまりに早熟過ぎた少女が初めて年相応の姿を見せた瞬間だった。その小さな背中に背負っていたものが何かまでは分からない。でも、きっと、今日が彼女にとって旅立ちの日になることじゃろう。
そうして泣き尽くした涼香は最後に、深々と頭を下げ、「ありがとうございました」と試合の最後に告げるはずだった言葉だけを残し、母と共に病室を後にした。