第二十一話『憧れですか? いいえ、執着です!』
私の名前は桐崎涼香。私の父は元卓球選手だ。私に卓球を教えてくれたのも父だ。しかし、今はもう教えてもらうことは出来ない。父はもうラケットを握らない。父は卓球から逃げたのだ。あれは五年前、父が最後にラケットを握った国体での出来事。当時、社会人リーグでも活躍していた父は、国体での活躍も当然のように期待されており、本人もまた、自分の実力を疑ってはいなかった。しかし、悲劇はその日にやってきた。父の初戦の相手は名も知れぬ高校生。そう、あの時点ではまだ無名だった怪物、水咲純。簡潔に言えば父は、水咲純に負けたのだ。それも、ストレート負けの完敗で……。
当時の卓球界はまだ、国体で活躍する選手の多くが社会人だった事もあり、社会人選手が高校生に負けるということは考えにくい時代だったのだ。
卓球キングダムをはじめとした多くの卓球メディアは言った。「桐崎の時代は終わった」と。
しかし父が水咲選手を恨むことは無かった。むしろその才能に惚れていた。父は選手という重荷を捨てさり、観戦者という立場へ逃げたのだ。
私はそれがたまらなく悲しかった。
そしてもう一つ、私の中にどうしようも無くこびりつく違和感。
私は私という存在がわからない。冷静に考えても見れば、五年前の父の試合など、私が覚えているはずはないのだ。五年前の当時の私は二歳であり、その当時の私がこれ程までに正確に記憶を保持しているわけもない。それに、この漠然とした違和感の理由はそれだけではない。
私は、初めて習ったはずの事柄を最初から知っていることがあるのだ。本来知らないはずの事を知っている恐ろしさ。自身が何者なのかすら分からなくなる夜がある。
身に覚えの無い万能感と、常に付き纏う喪失感が私の心を支配している。
だから私はその怒りをぶつけられる対象を探していたのかも知れない。そしてその機会は訪れた。父の仇という大義と共に私はラケットを握ったのだ。
水咲レイナ。水咲純の一人娘。
私が彼女を初めて知ったのは、とある地方紙の切り抜きだった。父が嬉しそうに持ってきたそれを見た時に、私の中に渦巻いたそれは明確な嫉妬と不明瞭な怒り。父の目線を奪うその一面にはでかでかとこう書かれていた。天才卓球少女現ると。それは北海道卓球選手権大会バンビの部決勝についての記事だ。
父は言った。「流石は水咲選手の娘だ」と。
自らの卓球人生を終わらせた男の実の娘を称賛する父。私はそれが堪らなく嫌だった。
だから私は、水咲レイナを倒すと決めた。
父が卓球関係者のツテを使って手に入れた北海道卓球選手権バンビの部決勝の映像。私はそれを何度も見た。何度も何度も。その度に浮かぶ父の笑みに苛立ちながらも、私は目を背けなかった。
水咲レイナのありとあらゆる癖を観察し、私の中に生まれた結論は一つ。もし私が彼女に勝てることがあるのだとすれば、それはもうおそらく、次の試合が最後だろうと。映像を見ただけで分かる。才能が違うと。けれど今なら、まだ体格差と体力に大幅な差が開いている今だけならば、1%でも可能性は残されているのではないかと。
そして私はその日を迎えた。
私は恥も外聞も捨て、体格差と体力差を押し付けるような持久戦に持ち込んだ。それでもスコアは無様なもので、一セットも取れないまま最終セットを迎え、相手のマッチポイント。あぁ、このまま私は負けるのか。このまま一生、私はこの子には勝てないのだと、完全に諦めきったその時、目の前の少女の手からはラケットが落ち、彼女は台上から姿を消した。
そう、水咲レイナが倒れたのだ。
* * *
モノクロの世界。といってもそこには何もない。そこにあるのは二色の背景だけで、今はそれが徐々に混ざりつつある。白と黒の世界はもともと、はっきりと二つに分かれていたものだ。しかしその境界線は曖昧になりつつある。
「やぁ、また来たのかい? 少しばかりペースが早いな。そんな調子じゃ、あっという間に自分を失うぜ?」
中性的な声音が何もない空間から響く。
薄い膜が思考を包み込んでいるかのような、意識がぼんやりとしており、頭の中に浮かぶ疑問は言葉としての形を得ない。
「おいおい、初対面ってわけでもないのに、会話も無しかい?」
脳内に直接響く声を流れる音としては認識するが、返事をする程の思考がまとまらない……。
「まぁいいや、とりあえず忠告だけはしておくよ。この世にはね、前世の記憶を失い切った転生者が実は結構いるんだよ。中途半端に失って、今の自分が何者なのかと葛藤している者もいる。たまに見かけるだろう? 子どもらしくない子どもだったり、小さな頃は天才だったのに大人になったら凡人になった人間が。あれらの多くは君らのような転生者であり、その成れの果てなんだよ。条件は様々だが、二十歳までに前世の記憶を失わなかった転生者は今のところ一人もいない。さぁ、君は最初の一人になれるかな?」
それは神の一人語りなのか、思考がその言葉を掴みかけた瞬間、ワシの意識は泡沫の泡となって消えた。