第十九話『万全ですか? いいえ、慢心です!』
僅かな不安を残したまま眠りについたワシは、目覚ましよりも早い時間に目が覚めた。
そのままゆっくりと上半身を起こし、小さな両足で立ち上がる。身体を覆っていた羽毛布団がだらりと落ちる。
部屋の奥にある大きな窓からは朝陽が差し込んでおり、その光に導かれるようにして、窓際までゆっくりと足を運ぶ。
「眩しいのぅ」
ワシは朝一番の太陽を見つめ、一人呟く。自ら見つめておいて眩しいとは、身勝手な話かも知れない。しかし、否応なしに視線を集める太陽の陽にも、非があるのだろう。火は強く、それ故に周りを惹きつけ、燃やしつくす。
くだらない言葉遊びが頭の中を占領し始め、いつの間にやら時間が経過したのか、他のみなも起床し始めた。
それから数十分後、部屋に運ばれた朝食を食べ終え、ワシらは今日も体育館へと向かう。
* * *
床とシューズが擦れ合う甲高いスキール音。乾いた球が高速で飛び交い、馴れ親しんだリズムを刻む。それらが混ざり合った独特の空気が体育館を包み込む。
試合前のラリーを終え、ワシは目の前の相手へと意識を向ける。
昨夜、ビデオで確認した選手が台を挟んですぐ正面に立っている。
互いのラケットを見せ合う為、ワシと目の前の少女の距離が縮まる。
「私、桐崎 涼香。貴方のお父さんの大ファンなの。今日はよろしくね」
そう口にした目の前の少女の瞳は、まったくワシを見てはいなかった。その視線は、ワシの背後の防球フェンス付近に立つ水咲 純へと注がれていた。
「私は水咲 レイナ。あなた、あまり余所見をしていると、直ぐに試合は終わるよ?」
ワシは相手の集中を目の前の試合に向けさせる為、挑発とも捉えられる言葉を投げかけた。互いが全力を尽くしてこそ、良い試合が生まれる。そしてその上で勝つことに意味がある。ワシが卓球を続ける限り、この信念は、たとえ幼女になろうとも変わりはしない。
「心配しなくても大丈夫、もちろん貴方の卓球もよく知ってるから。それと私のことは涼香って呼んでね、レイナ」
ワシの挑発気味の言葉に余裕の笑みで応える少女。この期に及んでもその瞳はワシを見てはいなかった。背丈から見て、ワシよりも三、四歳は上な事がわかるが、その余裕は年の差によるものなのか? そして気になることがもう一つ。ワシの卓球を知っている? 一体どういうことじゃろうか? ワシの試合を予選から見ていたという意味か?
僅かな疑問が脳裏に浮かぶが、涼香と名乗った少女がサーブの構えに入り、ワシは思考を切り替える。
相手が繰り出す一球目のサーブはミドルに落ちるショートサーブのようだ。サーブのモーションから察するに、純粋な下回転のはず。
ネット側に着地した白球をワシは、様子見の意味も込め、ストップレシーブで返す、はずだった……。しかし、ワシのラケットに触れたボールは狙いよりも僅かに浮き、理想通りの低さと短さを失い、絶好の狙い球へと成り果てた。その結果は火を見るよりも明らかだ。絶好球を打ち抜かれ、ワシの横を猛スピードで白球が通り過ぎた。
こうもあっさりと先取点を奪われるとは、桐崎 涼香、彼女は一体……。
「ふふ、貴方が僅かに苦手とするミドルの台上処理と、下回転に見せかけたナックルサーブを組み合わせただけよ? そんなに驚かないで」
当たり前のように敵にタネを明かす涼香。これは余裕からくる慢心か、それとも先程の挑発の仕返しのつもりか。
「どうやら特技はロビングだけではないと」
「あら、レイナも私の事を調べてくれていたのね、嬉しいわ」
一見すると満面の笑みにも見える彼女の顔だが、その瞳はやはり、ワシを映してはいない。
「集中」
次の一球へと意識を向けるため、ワシは小さな声で呟く。
再び涼香がトスを上げる。天高くボールが舞い、重力の力を生かしたロングサーブがワシのバック側を襲う。
コースはいいが、この速度ならば!!
ワシは左足に力を込め、素早く身体を動かす。回り込みの勢いそのままに、ストレートにフォアドライブを打ち込む。
「やっぱりね」
ワシの放ったドライブの先には既に、完全に回り込みが終わった、万全の状態で構える涼香の姿が……。
そしてそのまま、予定調和かのようなカウンタースマッシュを放たれ、再び白球がワシの真横を通り過ぎた。
出だしの連続失点は、生まれ変わる前の記憶を遡っても珍しい。
ワシはある種異常事態とも言える現状に違和感を覚え始めていた。そのまま、ワシが黙っていると、目の前の難敵が口を開く。
「だから言ったでしょ、私は貴方を知っていると。水咲 レイナ」
名字を強調するそのイントネーションからは何故か、敵意と尊敬が入り混じった歪なものを感じさせられた。
テレビ越しでの映像をもとに相手を測ってしまっていた結果が今なのだとすれば、本当に相手を見ていなかったのは、ワシの方なのかも知れない……。