第十五話『雲さんですか? いいえ、わたあめです!』
多くの人々を乗せた鉄の箱がもの凄い速度で地を離れる。
離陸の瞬間のなんとも言えない浮遊感が小さな身体にまとわりつく。
決して気持ちの良い感覚ではないが、何故だか不思議と心が躍る。
機体の傾きが次第になくなり、機内は水平に保たれる。青い空の上には白い雲が浮かんでおり、普段は見上げている景色を今は上から見下ろしている。その光景はまるで、青い台上を行き交う白球のように映る。
「レ、レイナちゃん、雲さんが葵達の下に見えるよ」
ワシの真後ろの座席に座る葵が興奮した様子で瞳を爛々と輝かせながら話しかけてきた。
「上から見おろす雲も中々にオツじゃな」
ワシは窓の外に広がる幻想的な世界に目を奪われながら思わず心の声を口にした。
「オツってなーに?」
席の隙間から後ろを除き見ると、その言葉とともに不思議そうに首を傾げる葵の姿が見えた。
「え、えっと、シャレがきいていて味なことかな?」
動揺しつつも口調を変えて、葵の疑問に答えるワシ。
「雲さんはオシャレで美味しいの?」
再び首を傾げる葵。あぁ、なんじゃ、この可愛い生物。
「そうだね、雲さんはオシャレで美味しいんだよ」
正しさだけが正義ではない。優しい嘘も時には必要なんじゃ。子どもの内は夢を見る権利がある。
「わー、じゃあ雲さんって、わたあめなんだ!!」
そう言って声を上げて楽しそうに笑う葵。それはまるで雲の上に姿を見せた太陽そのもの。彼の笑顔を曇らせる真実はもはや悪ですらあるだろう。この笑顔を守る為ならば、ワシはここに一つの嘘をつこう。
「そうだね、雲さんはわたあめで出来てるんだよ!」
あれは水蒸気の塊などではない、優しさと砂糖で作られた、ファンタジー物質なのじゃ。
そんな可愛らしくもふわふわなやりとりが続く中、ワシの隣に座るママンは更にその隣に座るパパンと楽しそうに会話している。
「そらぁのうーえなぁのに、ラ○ュタがあーりませぇんよ?」
不思議そうに首を傾げ、窓の外にラ○ュタを探す母上。
「ラ○ュタは移動しているから、簡単には見つからないよ。それよりも今は綺麗な景色を楽しもう」
通路側に座るパピーが、大人の夢を守る為に優しい嘘をついていた。どうやら夢というのは子どもだけの特権ではないらしい。
「すきとぉったうつくすぃーBlueでぇす!」
ママンの笑顔が青空の上で弾ける。
「まぁ、この澄み渡る青空も、リディアの透きとおった美しい青色の瞳には敵わないけれどね。君の双眸は青という色が持ち得る最大の美を表現しているからね?」
「もう、あにゃーたったるぁ♡」
空の上だというのに、うちの両親はこの飛行機のように平常運転だ。しかし、この二人の平常はちぃとばかし常軌を逸しているからのぅ、このまま大気圏に突入する可能性すらある。
座席の隙間から斜め後ろを覗き見ると、温かな微笑みを浮かべながら、優しい眼差しで全体を見守る葵ママの姿が見えた。
この視線の正体は子ども達に向けられたものなのか、はたまた、前の座席のバカップルに向けられたものなのか、あるいはその両方なのか。そんな小さな疑問を乗せながら、真っ白な飛行機は目的地を目指し、この青空を真っ直ぐに突き進むのであった。
* * *
二時間のフライトを終え、ワシらは無事に神戸空港へと着陸した。
カフェやレストラン、お土産屋さんにスカイラウンジなど様々な施設があるが、ワシらの最初の目的地はすでに決まっていた。
パパンとママンが手荷物受取所で荷物を受け取り、到着ロビーを抜け1階出入り口から外へと出る。
「こーべぎゅうバーガーがぁたぁべたぁいどぅぇーすぅ!!」
そう、このママンの発言により、ワシらの目的地は神戸一有名なハンバーガーショップに決まったのじゃ。
ワシら五人はタクシーに乗り、直接目的の店を目指す。車内は広いとはいえない普通のタクシーだが、助手席にパピーが座り、子どものワシらはそれぞれ、母親の膝へと座る。
窓の外を流れるのは見慣れない街並み。たったそれだけのことが、ワシの心に新鮮な風を送り込む。それはさながら、新品のラバーに変えたばかりの練習日に似たワクワク感を与えてくる。
緩やかな減速感が車内全体に伝わり目的の店の前でタクシーがゆっくりと停車した。ワシらは意気揚々と車から降りて、目の前のお店へと入る。
看板によれば、お店の名前はエルビーダインコーベというらしい。店内にはアメリカンな雰囲気が流れている。英単語がでかでかと書かれた掲示板が吊るされていたり、テーブルの上には巨大なケチャップやマスタードが置いてある。
パピーが五人分の注文を終えて数分。
テーブルの上に広がるのは五枚の白いお皿。その上にはそれぞれ、巨大なハンバーガーが鎮座しておられる。そしてその横にはボリューミーなポテトとピクルスが添えられている。いや、添えるというにはあまりにも主張が強いが……。
それにしても、否応無しに食欲を刺激してくる光景じゃ。あぁ、唾液の分泌が止まらん。
小さなおててで巨大なバーガーを掴む。それをゆっくりと口内へ運ぶ。
神戸牛の上質な肉汁が小さなお口の中で溢れ、旨味の濁流が舌を包みこみ、その刺激の奔流が脳内へとダイレクトに伝わる。
「う、美味い……」
旨味が溢れ、言葉も溢れ出していた。
「ごーくじょうのうーまみんが、おくちぃのなーかにひぃろがぁるぃまぁつ!!」
ブルーの瞳を輝かせ、この旨味にも負けない程の複雑な日本語を操る母上様。神戸牛のエネルギーがママンに力を貸しているのか、エンジン全開、フルスロットルなご様子じゃ。
「おいひー!」
ワシの対面に座る葵も大変ご満足の様子で興奮気味に頷いている。
「あらあら」
葵の隣に座る葵ママが、葵のお口の周りについたケチャップを紙ナプキンで拭いている。
「お肉を食べるとスマッシュが速くなるからね、これで、二人の優勝は決まりだ!!」
あっという間に目の前のハンバーガーをペロリと平らげた父上が自信満々にそう言った。
「めざーせ、Championでーす! それーとあなーた、あまりはやーくたべるぅのはからだにわるーねるでぇすよ?」
ワシらのことを激励しつつも、ママンがパパンへと注意する。
そんな水咲家の普段の食卓in神戸が開催される中、目の前に座る葵は黙々と小さなお口を動かしている。頬をいっぱいにしている愛らしい姿は小さなシマリスを連想させた。
そんなキュートなシマリスさんの食事シーンに癒されながらもゆったりとしたランチタイムを過ごす。
パパンの助力を借りつつも、ワシらは無事、巨大バーガーを完食した。
店を出る前に店員さんにサインを頼まれたパピーとマミーが快くそれを引き受けていた。一枚の色紙に水咲夫婦のおしどりサインが並ぶ。寄り添うように書かれた二つのサインからは二人の仲睦まじさが伝わってくるようだ。
ワシもはやく、サインを頼まれる程の選手にならなくてはのぅ。目指せバラエティーデビュー!!
* * *
再びタクシーに乗ってワシらは無事に、今晩の宿である旅館にたどり着いた。畳の部屋の中央には背の低い横長の座卓があり、その上には温泉饅頭と日本茶のティーバッグが置かれている。
ママンが全員分のお茶をいれ、広々とした和室内にはゆるやかな空気が流れる。
「夕飯まで時間もあることだし、温泉に浸かろう」
部屋の窓から外を眺めているパパンが口を開く。
「おんせぇーんはにほーんのたますぃーでぇすぅ!!」
JAPAN LOVEのマミーが叫ぶ。
「よし、レイナはパパと入るか?」
「いや、ママと入る」
ワシはノータイムで返事をした。
流石の日本チャンピオンもこの速攻は効いたらしく、悲しそうな目でこちらを見ている。
いや、そんな目をしても駄目じゃ。ワシは絶対にママンと風呂に入るのじゃ。これだけは何があっても譲るわけにはいかない。そう、男湯の光景など誰も望んではいないのじゃから……。
かくしてワシは苦渋の選択と大いなる意思のもと、女湯へと向かうのだった。