第十一話『おっぱいですか? いいえ、地球です!』
広いガレージ内に白球の行き交う乾いた音が響く。
幼稚園から帰宅したワシは日課の練習メニューに励んでいる。基本的に平日はパパンが練習に出かけている為、ワシの相手をしてくれるのはママンである。
フォアハンドによるラリーが一定のリズムを保ちながら続く。その音が百を超えたあたりで、母上は一旦ラリーを止める。
「レイナ、からーだがあたたまってきぃーますたかぁ?」
高速ラリーを続けた後だというのに、マミーの息づかいには一切の乱れがない。乱れているのは日本語だけだ。
「うん、バッチリだよ!」
ワシは身体の準備が整ったことを伝える。
「じゃあ、はっじめまーつよ〜」
その緩い掛け声を合図に下回転のサーブがワシのフォア側めがけて跳んでくる。
ワシはそれを山なりの軌道を描くループドライブで返球する。それに対して母君は、バックカットを繰り出してくる。
そうこれはつまり、カットマン対策の練習である。同世代に塔月ルナという強力なカットマンが現れた以上、ワシにとってこの練習は避けては通れぬ道だ。
それに幸運なことにワシは、世界最高峰の練習相手が身近にいるのじゃ。
「すこーし、Driveのタイミングがはやーすぅぎぃまーすぅ」
キレのあるカットとともに、ユルユルのアドバイスをくれるママ上。うちのママンはこう見えても、女子卓球の世界選手権にてベスト八に残ったこともある正真正銘の一流選手じゃ。回転量の多いバックカットは世界中の多くの選手に恐れられている。一人娘を出産した今も、そのキレのある動きは健在じゃ。
しかし、ワシにとって本当に恐ろしいのは、キレのあるバックカットなどではない……。
母君の体幹はとても優れており、常に一定のフォームでその動きにブレはない。そう、動きにブレはなく、いやそれ故に、二つの果実が一定感覚で揺れるのじゃ。卓球のユニフォーム特有の薄い生地が、彼女の暴力的な夏の果実を際立たせており、身をよじらせるたびに、実がよじれて、ワシの理性が波打ち際まで押し寄せられている。これ以上押して寄せないで!
ワシは魅惑の果実と葛藤しつつも、困惑に誘い込むカットとも戦わねばならない。こ、これが現代卓球の世界レベルというわけか!!
くそ、父離れは出来ても、乳離れは難しいようじゃな!!
汗だくになりながらも必死にドライブを打ち続けるワシ。
あらゆる音は消え去り、ワシの世界には、一つの白球と二つの果実だけが映っている。
あぁ、やはり、丸みを帯びた形というのは素晴らしい。そう、この地球が丸いことからも、その卓越性は証明されている。
ワシはいま、はじめて地球が丸いことに気がついた古代ギリシアの人々と同じ気持ちになっていた。この感動は、二千五百年の時を経ようとも色褪せることはない。
ボールが揺れて、果実も揺れる。
この一瞬を永遠に!!
ワシの頭の中にはもう、いかに長くこのラリーを続けるかという思考しかなく、ひょっとするとこれが、ゾーンという状態なのかも知れなかった。
* * *
過酷な練習も終わり、現在ワシの目の前には、一目見ただけでも美味だとわかる、実に食欲を刺激してくる夕食の数々が並んでいた。
炊きたての白米に、菜の花のお浸し、メインの焼き魚からは香ばしい香りが立ちのぼりワシの鼻腔をくすぐる。
うちのママンは日本語は苦手だが、日本料理は大得意なのである。
「うん、美味い、リディアの料理は最高だよ」
つい先程練習から帰ってきた父上殿が、自身の妻に熱い視線を送りながら言った。
「もう、あにゃーたったるぁ♡」
あぁ、いつもの光景である。ロングサーブからの三球目攻撃よりも見慣れた光景じゃ。
それにしても、この二人の熱々のやりとりを見ていると、手元で湯気を出している味噌汁ですらぬるく感じるのぅ。
ワシがそんな思考を辿りながらも、ぼーっと二人のやりとりを眺めていると、不意に父上がこちらに話題を振る。
「レイナ、練習の調子はどうだい?」
「うん、いい感じ」
「そうか、次の土曜日に札幌で行われる卓球のイベントがあるんだけど、レイナも一緒に行くか?」
テーブルの右隣に座るパパンが気軽な調子で問いかけてくる。おそらくは、イベントのスペシャルゲストとして呼ばれているのだろう。ワシの頃にはその手のイベントはなかったので、とても興味深い話じゃった。
「行く!!」
迷う余地など何処にもない。
この選択もまた、この先のワシにとって重要な出会いを生むことになるのであった。