第百二話『知った気ですか? いいえ、何も』
北海道に住むワシにとって、一月の東京はさほど寒くない。
プールでの練習を終え、しっかりと温かいシャワーを浴びたワシは迎えに来たパピィに連れられてとある施設に来ていた。
そこは大いなる知の泉。静寂が包むその空間には独特の緊張感と安らぎが共存している。
人間の歴史そのものが集積されたそこは、東京都が管理する巨大図書館である。
一体何が目的で図書館におるのか?
そう、答えは単純。
冬休みの宿題and絵日記である。
北海道に住まう子ども達の冬休みは長い。
権利には常に義務が伴う。積もり積もった宿題がパパンにバレまして、今日はここに強制送還されたというわけじゃ。
しかしワシも腐っても人生二周目。小学五年生レベルの問題に躓くわけはない。
怒涛の勢いで問題を解き、絵日記の思い出を大量生産したワシは、一気に宿題を終わらせた。
予定時間を大幅に巻いたワシは、パピィからの了承を得て、少しばかりこの図書館を散策することにした。
しかし、前世からワシは大した読書家ではなく、興味のある書物と言えば、色が多めの大人の雑誌か卓球の専門誌くらいなものじゃ。
大人の雑誌が無いのならば、ワシの足取りは自然とスポーツ関連のコーナーへと向かった。
愛読書の卓球キングダムを手に取ろうとしたその時だった。
視界の端に見覚えのある少女の姿が映った気がした。
その違和感を突き止めるべく、視線をもう一度巻き戻していく。
すると、そこには一冊の雑誌が。『月刊ダンク』と銘打たれた表紙から察するに、どうやらバスケットボールに関する雑誌らしい。
少し前のバックナンバー。その表紙を飾っているのは四人の少年少女。
表紙の左下にはミニバス特集と赤文字で書かれており、どうやら、全国の注目ミニバス選手の特集が組まれているようじゃ。
その中央を飾る一人の少女に、なぜか既視感を覚えた。
その少女の燃えるような双眸と目が合い、ワシは思わずパラパラとページをめくりはじめていた。
そして、とあるページで手が止まった。
ミニバス界の超新星、日陰鳴!!
大きなフォントで書かれたその文字に、ワシの目は釘付けになった。
「え……」
思わず疑問符が漏れ出た。
トレードマークのオレンジ髪は鳴りを潜め、きっちりと切り揃えられた真っ黒なショートカットの少女が笑顔でシュートしている写真。
しかし、その印象的な瞳は、彼女があの、日陰鳴本人であることを何よりも雄弁に語っていた。
今よりも幼いその顔立ちは少しだけ前の彼女の姿なのじゃろう。
記事にはこう書かれていた。
小学三年生にして期待の星。超新星! 日陰鳴!! と。
これは一体、どういうことなのか……。
鳴の本当の姿はバスケットボールプレイヤーだったのか?
いや、しかし、彼女の口からはバスケットのバの字も聞いたことがない。
それに、もし鳴がまだバスケットボールを続けているのだとすれば、流石に一日中ずっと卓球の練習ばかりしている訳にはいかないじゃろう。
うーーむ。どれだけ考えようとも、あれやこれやとあてのない憶測が浮かぶばかりで、意味がないように思える。
まぁ、いいか。
明日も会うことじゃし、その時にでも聞けば良いか。
ワシは楽観的に思考を打ち切り、隣りで卓球雑誌を読み漁っていたパピィの手を握り、巨大図書館を後にした。
* * *
翌朝。
「その話はすんじゃねーー!!」
水面を切り裂くような怒号がワシの鼓膜を揺らした。
「え……」
「いいか、俺の前で次その話をしたら、絶対に許さねーからな?」
怒髪衝天とはこのこと。
鳴は激しく声を荒げ、その鋭い視線からは純粋な敵意すら感じた。
昨夜、図書館で見かけたバスケット雑誌の話を鳴に問いかけた瞬間、彼女は尋常ならざる怒りを露わにした。
「ご、ごめん」
ワシは現状がうまく飲み込めず、動揺の最中、なんとか謝罪の言葉を捻り出した。
「ちっ、今日はもうやめだ……」
そう言って水面に拳を叩きつけた鳴は、珍しく、護の制止すら振り払って、勢いよくその場を去って行った。
彼女の拳によって揺れた水面はまるで、動揺し切ったワシの心中を映し出しているかのようだった。
触れてはいけないものに触れてしまった。
動揺し切った脳内ですら、そのことだけは理解出来た。