第百一話『陸上ですか? いいえ、水上です!』
眼前には奇妙な光景が広がっている。
窓から差し込む光が水面を輝かせ、その中心には見慣れたものが見慣れない形で存在していた。
なんと、プールの中央に卓球台が浮かんでおるのじゃ。
卓球台型フロートと呼ばれるそれは、アメリカなどで人気を博している遊具をより実戦向けの競技規格に特注したものらしい。
鼻腔を僅かに刺激する塩素の匂いと水面を揺蕩う卓球台というミスマッチ。
そんな異空間の中ですら、尋常ならざる存在感を放っているオレンジ髪の少女が一人。
水面に浮かぶ卓球台をはさみ対面に立つその少女の半身はプールの水に浸かっている。それはワシも同様で、簡潔に言ってしまえば、ワシらは今、プールの中で卓球をしていた。
水中卓球。息子曰く、これが身体の負担を考えながら、リハビリ兼パワーアップを行える最短コースだそうじゃ。
ワシら二人はかれこれ、一週間近くこの水中卓球に取り組んでいた。
当然、陸にいる時のようなフットワークは出来ず、アップテンポなラリーを続けるのは至難の技じゃ。
水の抵抗を感じながらも足を動かし、必死に白球を追う。そんな日々の練習の中でワシは、ようやく日陰鳴という人物を少しずつではあるが理解してきた。
「ちっ、左右にばっか振りやがって。無駄なんだよ!!」
ゆらゆらと浮かぶ台上で左右を狙ったワシのコース打ちに対し、彼女は半身が水に浸かっているとは思えない程のフットワークでボールへと追いつく。
バランスが取りづらいはずの環境下での鋭いスイング。
前進回転のかかった強烈なドライブがワシの構えた逆方向を突く。
しかし、この環境下はワシにとってあまりにも有利な状況。
ワシは右手に構えたラケットを左手へと放り投げ、さほど動くことなくカウンタードライブを決めた。
白球は彼女を抜き去り、静かに水中へと沈んでいった。
「おい、ずりぃーぞレイナ!!」
プール内に荒々しい怒号が響き渡る。
「ずるいって何が? ずるいと思うなら鳴も同じことをやれば良いじゃない?」
このリハビリ兼トレーニング生活の中でワシらは互いの実力だけは認め合いながら、いつの間にか下の名前で呼び合う仲になっていた。
「この練習は足腰の負担を減らしながら、フットワークを鍛える意図も含まれてんだよ! 負けたくねーからってスイッチドライブしてたらリハビリにもなんねーだろーが!!」
荒々しい口調ではあるが、鳴の言っていることは完全に正論だった。
「バランスの取りづらい環境下でのスムーズなスイッチドライブの練習にもなるし」
ワシは少し苦しい言い訳を吐いた。
「ちっ、おめーは本当、あぁ言えばこう言うな。自分が不倫した癖に、私だって寂しかったのよ、とか言い出す開き直り女かよ。だりぃ」
やけに具体的な例えで噛みつく鳴ちゃん(小学五年生)。
最近の小学生は早熟で怖いのぅ。
「また揉めてるのかい二人とも」
プールサイドの岸に立つ護がこちらに向かって声をかけてきた。
「ち、ちげーよ! レイナのやつが足も動かさずにラケットばっか投げてんだよ!!」
「鳴ちゃん。言葉遣いが乱れてるよ」
「はい……」
狂犬と呼んでも差し支えの無い鳴も何故か護の言う事だけは素直に聞く。
「レイナちゃん。君は賢いからこの練習の意図が分かっているよね。スイッチドライブの多用はこの練習においては禁止だよ?」
「はい、分かりました。つい負けたくなくて」
ワシは大人げ無い本心を口にした。
「まぁ、気持ちは分かるけれど、これは君達に合わせた特別メニューだからね。方針には従ってもらうよ?」
まさか、息子に真っ直ぐ諭される日が来るとは考え深いのぅ。
「はい、分かりました」
ワシも鳴を見習い素直に返事をした。
「じゃあ二人とも、今日はこの辺で終わりにしようか」
プールサイドから差し込む夕陽を背に護が柔らかい声音で言った。
『はい!!』
二人の声がシンクロしたのが恥ずかしかったのか、ちっ、と舌打ちした鳴がじゃばじゃばと大きな音を鳴らしながら、両手で水をかき分けプールサイドに上がった。
「ちっ、明日も来いよ」
再度舌打ちした彼女は気怠げな様子でそう言って、わざと大きな足音を響かせながらその場を後にした。