笑いと滑稽 ~立川談志を通じて~
最近、立川談志にはまっている。知らない人に説明すると、立川談志とは落語家で、古典落語を現在に生かそうと死ぬまでもがいた人だ。ジャンル的には「お笑い」である。
僕は都合上、談志を思想家として見るが、談志の思想の根っこには戦争体験があると思う。戦争という深刻なものを経験して、笑い、滑稽さ、皮肉、に到達するのはアメリカの作家カート・ヴォネガットに似ているとも言える。どちらも、言葉にできないような深刻な経験をしてから、「笑い」に到達した。
ツイッターなんかを見ると、物凄く真面目な事を言っている人というのがいる。大抵、政治的な事柄で、立場的に右だったり左だったり上だったり下だったりするのだが、彼らはその事に対する同意、不満、改善の要求など様々な事を掲げている。彼らからすれば、立川談志は「ふざけた人」「下品な人」という事になるのかもしれないが、「下品」とか「ふざけた」とかいう概念はもう一度考え直す必要がある。
談志が言っていた事だが、最近の客は、すぐに笑う。彼らは、昔の客と違って、笑いたがっている。損得勘定からすれば、金を払ってわざわざ劇場まで来たのだから、笑わなければ損だという料簡なのだろう。こんな損得勘定は色々な所に広がっている。彼らに「得? 得してどうなるの?」と聞いても、答えは帰ってこない。「得する」というのが彼らにとって答えだからであり、問う事ではないから、答えは帰ってこない。
笑い、滑稽さと言った事柄は一般的には、人生を彩るか、人生にプラスされるものとしてあるのだろう。平日に仕事して、休みの日に、「ちょっと暇だからお笑いでも見るか」といった風で、そのような考え方が普通となっている。だから、彼らは笑いと真面目を分けて考えるし、芸としての笑いは、あくまで自分達を笑わせてくれるものとして価値があるのだと信じている。他の事柄も全てそうで、彼らは人生を彩るものとしての何かを探している。芸術か、スポーツか、恋愛か、何かは知らないが、彼らは人生というものに華を添えようとしている。「人生を変えたい」なんて言葉も聞くが、「人生を変えるとはどういう事ですか?」と聞くと、「億万長者になる事です」などと彼らは言うだろう。では、こう質問してみてはどうだろう。「億万長者になったら、人生が『変わった』と言うのですか?」 彼らは首を縦に振るだろう。では、億万長者になった途端、不治の病にかかったらどうか。「いやー病にかかって、今年中には死ぬんですけど、人生変わったんで悔いありません」と言うだろうか。
自分の言いたい事は次のようなものだ。立川談志やヴォネガットの持っている笑い、滑稽さ、というのは、人生に彩りを添えるものではない。立川談志は健全な市民を市民として笑わせてくれる存在ではない。そんな存在は今のテレビタレントで十分だ。談志やヴォネガットにとっては、笑いや滑稽さというものは、人生の結論であったのだと思う。つまり、「人生こんなもんだ」という、そういう笑いである。笑われているのは、我々である。立川談志やカート・ヴォネガットといった、個人を含んだ人間が本質的に悲しいものである、と気付いた時に、ふと笑いが漏れてくる。それが結論であって、だが、人はそれを人生における一過程とみなす。つまり、「たまにはお笑いでも見てストレス発散するか」という風に。
思えば、ウマル・ハイヤームなどというのは大詩人だが、書いてあるのは阿呆らしい事だ。要するに、酒を飲んでこの世を忘れ、美女といちゃついて、それでいいじゃないか、という、内容的にはそんなものである。では、この詩に何故価値があるのかと言えば、談志と同じように、結局、寄りすがるものがないからである。真面目さというものを、それぞれに恐ろしく生真面目であったろうウマル・ハイヤームとか立川談志とかいった個人が徹底的に掘り下げていった時、その真面目さはどこにも行き着かず、底がないとわかったが為に、「酒でも飲んでいるしかない」となる。だから、これは外見は同じでもただ酒を飲んでふらふらしている人間とは随分違うという事になる。
彼ら天才達にとって、滑稽や笑いは人生の結論であったと思う。彼らにとって笑いの対象は、我々の人生そのものである。我々が今、色々に騒いでいるその様、それ自体を彼らは一段高い所に立って「ま、こんなもんよ」と笑っているのだと思う。(その中には自分自身の姿もあろう) 我々は、それを逆に考える。彼らの存在や彼らの作品というのを、我々の騒動の渦中に組み入れる。そこで問題はわからなくなる。あるいは問題は消える。そうして、相変わらず、色々な事で騒いでいる我々だけが残り、我々は絶えず自分達によって正当化され、世の中は不正と不義に満ちているがどうやら自分(達)だけは正義を知っているというような結論に落ち着く。(正義が嫌な場合は、『現実はこうであるから仕方ない』という理屈に落ち着く)
立川談志が落語を通じて理解した笑いは、「人間の業の肯定」であり、「業」は言うまでもなく、善悪含んだものである。人が善であるとか悪であるとか議論する事も業であるし、犯罪者の犯罪も、聖人の事業も等しく業だと言えるだろう。その業を見つつ、笑う他ない、という所に談志の笑いはあると思う。我々が談志によって笑うというより、談志が自分含めた色々なものを笑うーー笑う他ないという境地に達しているのだと思う。今の、多数者が最高権力である世界では、談志は居心地の悪い存在となるだろう。何故なら、彼らは談志によって笑う事はできないからだ。彼らが笑えるのはもっと安いもの、自分達を脅かさないものである。談志は我々の存在そのものを笑っている。しかし、そこで癒やされる魂というものも、この世には存在する。