美しさがなぜ哀しいか
末尾を推敲 18.2.24
それは末端のことである。張り巡らされた枝葉を見よ。同じ葉は一枚としてなく、全ての葉が生きようとしている。それぞれにそれぞれの場所で、命を全うしようと。風に震え、雨に濡れ、陽に灼かれても、自らを頼み生きている。つまりは瑞々しくあろうとして。その端の端までも己を漲らせようとしている。
そこに美は宿る。細部にこそ美は顕れる。それはまるで味わいのように。始まりから終わりまでおろそかにせず、湛えている深みを離さない。花の花弁のもっとも先に若さがあるように。跳躍の足の爪先に全ての力があるように。
そして哀しさもそこから始まる。葉は先より枯れる。花の色も。人は言葉から枯れる。それを誰かが知るときは、最早取り戻せない時の流れがその者を覆い尽くしている。
だから、美は言葉に宿る。最も人間の末端に。見えないはずの言葉に宿る美しさを形にすること。つまりは瑞々しくあろうとすること。その端の端までも己を漲らせようとすること。誰がその行為を愚かと呼ぶだろうか。生きることを。己として満ちるための行為を愚かと呼ぶならば、人間はすでに枯れ始めている。
美しさが哀しい訳を。末端の衰え始める哀しさを。世界は狂暴に美しい。その全体を持って迫りくる。我ら人間の末端など歯牙にもかけない。それはまるで風に震える木の葉のように頼りない。美しさは見上げる銀嶺のようにあまりに大きく気高い。それでいて微睡む菫の蕾のように小さく儚い。我ら人間は遥かなマクロとか弱いミクロに跨る姿なきもの。その末端ははるか高みにさえ伸び、そして露の玉にさえこころを動かす。
哀しさとは人間。どこにもいない我らの頼りなさ。そして末端とはそれ自身。我ら人間こそが末端。我らは美しさで出来ている。だから果て枯れる。つまり美しさはその末端より枯れる。だからこそ我らは漲ろうとする。言葉の末端まで。細部にこそ美は漲る。冗長な声を発する時を惜しみ、己を漲らせよ。聞こえずとも聞こえる音として。生きていること全てを言葉として。