きっと美しい言葉を追えば
きっと美しい言葉を追えば、反ってそれから離れてしまう。つまりは諦めきれないながらも少し離れてみる。そうして色を意識せず、少し音は意識する。流れ込むように低いところへではなく穴へ注ぐように。誰に届けるでもなく、勿論独白でもなく。語らずに語り、述べずに述べる。言葉が意味を明示せず暗喩として流れ込むとき、そこに何かが宿ることがある。それは読み手にだけ訪れる。書き手にも訪れているが決して等しくはない。わたしたちは、そのもしかしたら美しい雰囲気を詩と呼ぶのだろう。
あの系譜へ連なる者としての自覚を持ち得た時から始まり、そして終わりを告げたことがある。思い返せば物心付いたときより違和感はあったようだ。やがて理解出来るようになっても抗っていた。世間一般という仲間内からはみ出ることなど考えもしなかった。しかしある雰囲気が常にそばにあったのだ。それは一部の文学の文章の中から流れ出すような行間に近しかった。酒に酔い思うままに世界の手触りを語れば誰もが妙な顔をした。だから何時しかそのことから遠ざかっていたが、しかし黙ることなく苦悩は語り掛け続けた。そして遂にマスの裏側に隠れていたものが姿を現した。あのときわたしたちは壊れていたから、素直にその言葉を聞いたのだった。
恐らくこの想いたちは叶うことがないだろう。かつて手に負えなかったメタファーたちの想いは。そして果てていった語られぬ物語たちのそれは。硬く握りしめた拳を開けば、そこに何があろうか。束の間失われる体温を感じるのみだ。それでも尚、わたしたちは放ち続けるのだ。彼方への言葉を。様々な表現で。例えそれが言葉のようでなくなったとしても。
指向する先が意味を超えていることを知りながらも、わたしたちはやはり内的な、そして外的な言葉から離れることが出来ない。時は止まらないのだから。それは誰もが斃れることから逃れられないからであって、バタリバタリと果て続けている事実そのものでもある。呻き足掻き藻掻く内に果て、そして恐らくは忘れ去られてゆく。だからこそ刹那を刻まんとする故に見苦しく、時に尊く残るのだ。
刹那へと永遠は恋をする。しかし刹那は最も気紛れで代わり続ける故に、その想いは果てることがない。わたしたちの言葉もまた。永遠への系譜は受け継がれる。断絶がある限り。果てこそが始まりであり、永遠と刹那を結ぶ限りなく濃密な空白である。我らが系譜はそれに従うだろう。今までも。そしてこれからも。
この文字列は難解だろうか。それとも陳腐だろうか。どちらにせよ、流れ去る日々の隙間に挟まっている空白部分のことです。