捕鯨母船アンタークチック号
山口多聞さんの架空戦記創作大会2015春の応募作品です。
皆さんは捕鯨母船アンタークチック号と言う船をご存じだろうか?昨今の反捕鯨風潮のなか、捕鯨船という船のカテゴリーも風前の灯火と言える状態だが、彼女ほど数奇な運命を辿った船も早々いないであろう。
捕鯨母船としてアンタークチック号を名乗った船は2代にわたる。初代は1906年スコットランドのウィリアム・デニー&ブラザーズ社により冷凍貨物船として建造されOpawaと命名された。そのご彼女は主にニュージーランドからの食糧品輸送に従事していたが、船齢20年を超えた1928年になりノルウェーの捕鯨会社に売却された。それはノルウェーが1924年には鯨を解体作業のために船内へ収容するスリップウェイを装備した捕鯨母船「ランシング号」を就役させ、公海上で自由に操業できる母船式捕鯨の仕組みを完成させたのを受けて、購入会社がスリップウェイを装備する捕鯨母船を欲し、大きさと価格の面で折り合いの着いた彼女を購入することにしたからである。改造後に彼女はアンタークチック号と名付けられ、2度目の仕事として南氷洋での捕鯨に着くことになった。
折角改装したにもかかわらず諸般の理由で1932年には韲えなく係船されたが、捨てる神あれば拾う神ありの諺のように1934年、南氷洋での捕鯨を行う為に捕鯨母船を探していた日本捕鯨株式会社との間で売却契約が結ばれ、95万円(52,200£)でアンタークチック号と捕鯨船5隻は売られることになった。元々1906年竣工の旧式貨物船改造の捕鯨船でもあり船齢30年に達しようとしていた訳であるから52,200£は妥当な価格と言えた。因みにほぼ同時期の陽炎型駆逐艦一隻の建造費は約1,000万円である。購入されたアンタークチック号は図南丸と名付けられ日本初の南氷洋捕鯨船団を率いることになり、第二次世界大戦で戦没するまで活躍した。
初代アンタークチック号を売却した捕鯨会社は売却益を新造船の建造に充てる事とし、1935年にイギリスのジョンブラウン造船所に発注され、1935年7月1日に起工されたが、52,200£を第1期分として都合4期に分けて支払う事になっていたが、途中の第2期の支払い遅延により1936年完成の予定が繰り延べられ、更に第3期までが遅延するという影響で一時は建造自体がキャンセルの可能性も出たが、何とか工面した資金を遅延しながらも支払する事が出来たが、建造停止時間の影響で完成は1937年となってしまい、予定より1年の遅延なった。しかし無事2代目アンタークチック号はノルウェー水産会社に引き渡された。
総トン数 19,510 トン
載貨重量トン数 22,565 トン
全長 170.25 m
垂線間長 165.25 m
型幅 23.05 m
型深 18.02 m
吃水 10.55 m
主機 MAN社製ディーゼル機関 2基
出力 10,200馬力
最高速力 16.21ノット
しかし1年の遅延の遅れを取り戻す為に、彼女は母国へ向かうことなく、そのままプリマスで慣熟訓練の後、同行する捕鯨船と合流し南氷洋へと捕鯨の旅に出かけた。これが彼女の長い長い旅の始まりになったのである。
1938年の新年赤道上で迎えた彼女は1月には漁場となる南氷洋に到着し早速シロナガスクジラなどの捕鯨にいとしんだ。そこにはノルウェー、イギリス、日本の各捕鯨船が凌ぎを削っていた。そんな中に、日本捕鯨株式会社所属で初代アンタークチック号改め図南丸の姿も認められ、初代から乗り継いでいた船員達には大変懐かしがられていた。
翌1939年の捕鯨シーズン到来直前の1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発することとなったが、ノルウェーは中立を宣言していた為、南氷洋捕鯨船団は例年通り漁を行っていた。そんななか、年が明けて帰国準備を始めた1940年4月8日、オーストラリア近海を航行中、船舶無線から緊急電が流れた。
『ドイツ軍、デンマーク、ノルウェーに侵攻』
この電文により船内は一時は大騒ぎになったが、どうせ前の世界大戦と同じで塹壕戦でダラダラと戦争が続くであろうし、母国が簡単に負けないであろうとの楽観視し、騒動は鎮静化していった。
現在の所政府や親会社からも命令がないようであった為、船団長はこのままノルウェーへ帰投することを決め帰路に着いたが、その最中の4月29日に至りノルウェー南部がドイツに占領されたことが判ると、今度こそ船団は大騒ぎになった。
そんななか、混乱しながらもノルウェー政府からの命令により海外にいるノルウェー船籍の船は一旦イギリスの指揮下に入る様にとの命令と共に近海のイギリス領の港へ帰港し指示を待てとの命令により、アンタークチック号も捕鯨船団を連れて4月30日、西アフリカシエラレオネのフリータウンに入港した。
その地で無聊を囲うと思われた彼女であったが、今や重要な戦略物資である鯨油を満載してる船をイギリスが見逃すことはなく、当地から出港するSL船団に編入され40隻の僚船と護衛のフラワー級コルベット4隻と臨時に武装を施されたキャッチャーボート10隻と共にリバプールへ向かうこととなった。
5月3日慌ただしく出港した船団はジグザク航法を行いながら北上を開始した。航海は途中Uボートの襲撃で撃沈1隻の戦果と引き替えに1隻の貨物船を失いながらも他の船は5月24日に無事リバプールへ入港し積み荷を陸揚げする事が出来た。彼女も鯨油1万6000トンを陸揚げすると今後の行動を決める為、イギリスの捕鯨基地のあるプリマスへと移動した。
そんななか、フランス戦線で大敗北したイギリス大陸派遣軍とフランス、オランダ、ベルギーなどの残存戦力がダンケルクに包囲されつつあった。
“公園のボートでも構わない。浮きさえすれば何でも良い”そんな状態で本国は王室も政府もオスロから撤退し崩壊寸前、更に親会社との連絡も取れずに、かと言ってUボートが彷徨く大西洋を南下し捕鯨することも出来ずに無聊をかこい始めた2万トンを超える彼女は注目された。それも尤も注目されたくない相手にであった。その男の名は“ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル”イギリス戦時内閣首相であり前海軍大臣でもあった。
彼は第一次世界大戦時も海軍大臣であり、対トルコ戦で無謀なガリポリ上陸作戦を命じた事でも有名であったが、ここぞという際のアイデアに優れていた。その彼が、鯨解体と鯨油製造の為に広い甲板を持つ船に注目しないわけがなかった。彼は船体後方にあるスリップウェイに注目した。
“甲板に舟艇を満載し、ここから滑り落とせばデリックで降ろすより速いのではないか?”と。
チャーチルは自分の思いつきを具体化するべく、命令を出した。その様な命令は普段であれば世迷い言と切って捨てられる筈で有ったが、時代が時代であったが故にその思いつきは実現されるはめになった。
5月27日プリマスに仮泊中だった彼女は直ぐさまハンプシャー州ウールストンに有るソーニクロフト社に回航されると解体甲板にある大型俎を撤去され、甲板上に移動用レールを仮設された。その艤装工事は突貫工事により僅か2日で完了したった一度だけ発進訓練をしただけで、小型ボートや艀を満載し、多くの僚船と共にダンケルクの海岸へと出発した。
ダンケルクへの海路はイギリス海軍のエスコートによりUボートの襲撃もなく順風満帆と言えるほどであった。しかし6月1日未明に到着したダンケルクの海岸はまさに修羅場と言える状態であった。そこにはひっきりなしに岸壁へ到着しては着の身着のままの状態の敗残兵を溢れんばかりに収容し満載状態で英本土へ脱出させる駆逐艦、各種船舶の姿、うっすらと靄で掠れる海岸には乗船の順番を待つ多数の兵の姿、その兵達を救うべく小型船舶が海岸へギリギリまで近づく姿なども見受けられた。
そんななか、船団司令の命令で、海岸に艦尾を向ける形で仮泊した彼女はスリップウェイから搭載した小型船やモーターランチを次ぎ次ぎに吐き出し始める。その姿は“まるで鯨のお産のようであった”と彼女に因って助け出された将兵達が口々に言ったことが、後々彼女の渾名である“ マザーヴァール” (英語の母+ノルウェー語の鯨)の元になった。
海岸で子鯨をお産し続ける様に見える彼女の姿は、味方には勇気を与えたが、その二万トンに及ぶ巨体はルフトバッフェの興味を引き付けるに十分すぎるほどの魅力的に映ったのである。暫くするとJu87やJu88などが次々に飛来し、彼女に向け攻撃を仕掛け始めたのである。大量の小型船を吐き出し終えた彼女は手負いの鯨が鯱に襲われるかのようにルフトバッフェの格好の餌となったのである。
船団指令の命令により、直ぐさま移動に掛かるも、低速でノロノロと移動する彼女は、次々に訪れるJU87やJu88の爆撃により2万トンの船体も木の葉のように揺れ動くき至近弾の爆発によるスプリンター被害で船体に次々に穴が空く、そして遂に、一機のJU87が放ったSC500kg爆弾1発とSC50kg爆弾2発が命中し500kg爆弾は船体を突き抜けて船底から海底へ突っ込み爆発し、50Kg爆弾は左舷機械室に直撃し左舷主機を爆砕した。
その衝撃で船体が一瞬浮き上がるとキールの一部が損傷し左舷主機から濛々と黒煙が発ちはじめ、更には爆発の衝撃と断片によるダメージで右舷主機は不完全燃焼を起こし、これもまた黒煙を上げはじめる。その姿は船体中央から濛々と黒煙を噴き上げ船体全体を覆い隠し、上空から見ると今にも沈みそうに見えた為に、敵機も別の目標を狙いはじめたが、さほどの被害も出せずに帰投していった。
その頃、船内では、船員達が必死に彼女を救おうと応急処置を行っていたが、黒煙は益々酷くなる一方であり、その上タンク内に残留していた鯨油に引火し燻る状態になっていた。しかし彼女から立ち上がる壮大な黒煙はダンケルクの海岸沿いを覆い尽くし午後からの航空攻撃を躊躇させるほどになった。そこを狙い、撤退作戦が急ピッチで進み、予定以上に多くの将兵を脱出させることに成功した。
彼女は夕方になりやっと海水で満水になった油槽からの水漏れを木栓で塞ぎ、生き残った右舷主機の再起動にも成功した事で、チョロチョロ鯨油が燃えるなか、海岸を脱出し一番近いカレーの港へよたつく様に到着した。船体はボロボロで船底にも穴が空いた姿は哀れみを誘った。
普段であればそこで解体でもされ彼女の一生も終わりとなる所であったが、貴重な2万トン級の船舶を放置できない時代であり、彼女は空襲の始まったカレーからタグボートに引かれ、再度ソーニクロフト社へ向かい、そこで損傷復旧される事になったが、造船所のリソース不足でそのまま暫く赤錆びた船体を港へ晒すはめになった。
しかし、ここでまたもチャーチルが出てくる。彼は小型艇を素早く発進できるという自分のアイデアが成功したという自負と、苦い思い出である第一次大戦時のガリポリ上陸作戦の失敗を思い出すことで、スリップウェイからの揚陸艇の発進が安全迅速に上陸作戦行動を行えると確信し、対潜艦艇を建造しなければならないという状態にもかかわらず、少ないリソースから彼女に本格的な修理と共に揚陸艦としての機能を持たせるようにと命令したのである。
その為、彼女は秘匿の意味もあり、右舷主機だけで自力航行し北アイルランドベルファーストのハーランド・アンド・ウルフ造船所へ到着し修理と改造に入った。
ハーランド・アンド・ウルフ造船所はタイタニック号を建造した事でも有名な造船所であるが、第二次世界大戦の勃発により新造艦の建造を延期し修理を専門に請け負っていた。
1940年7月から改装が始まり破損した機関をイギリス製のディーゼル機関の換装を含む試行錯誤の末、4ヶ月後の10月に完成しノルウェーより買収され新たな名前HMSガリポリと名付けられ特務艦籍の給油艦に類別され揚陸艦で有ることは秘匿された。名前自体はチャーチルに対する海軍の皮肉とも験担ぎとも言える命名であったが、その名前を聞いた、チャーチルは葉巻を吹かしながら涼しい顔で笑っていたそうである。
黒い船体塗装から海軍の灰色の塗装となった彼女は、元々あったスリップウェイは解体甲板に繋がっていたが、重心を下げる為に鯨油工場甲板を新たな搭載艇格納庫としてした関係で、角度が緩くなりより安全に搭載艇を発進できるようになった。また、解体甲板にも揚陸艇を満載しデリックで降下させる方法も可能なように整備されていた。更にチャーチルの思いつきで20mのカタパルトが前部甲板の左右に1基ずつ装備され揚陸艇を搭載しない際には前部甲板42m×25に水上機を露天係止出来る様に成っていた。
1940年11月、そんな風変わりな姿で下手物装備満載の彼女は完成後に早速仕事を割り振られることとなった。この当時ドイツ軍の本土攻撃は航空攻撃だけとなり、逆に地中海ではイタリア参戦とフランス降伏によりマルタ島が危機に瀕していたが、粘り強い防衛で奮闘していた。しかし連日の攻撃により航空機の損耗が激しく、ジブラルタルに駐留するH部隊が数度に渡り航空機の補充を行っていた。それには貴重な正規空母を含む艦隊でマルタ至近まで行き、そこから航空機を自力発艦させマルタへ向かわせるという方法を取っていた。
その様な状態では、只でさえ搭載機の少ないイギリス空母は、輸送する為に搭載機を減らしている為、次々に現れるドイツやイタリアの航空機の攻撃から自らを護る事すら難しい状態で有った。そんななか、無理をすれば前部上甲板上に11機の航空機を積め、カタパルト発進が出来る彼女に白羽の矢が立つのは必然と言えた。
彼女は改装早々に水上機移動レールを後部甲板まで延ばして搭載機数を22機まで増やし水上機に代わり、ホーカー・ハリケーンを搭載しジブラルタルのH部隊に編入された。
編入直後の11月のホワイト作戦から始まり、以来、本来の揚陸艦としての働きをせずに、航空機輸送艦兼油槽艦として活躍し続けていた。
数度に及ぶマルタ輸送作戦ではH部隊の航空母艦アーク・ロイヤルと共に活躍し、その積載量を生かして時には航空機輸送、時には生活物資の輸送、時にはタンカーとして燃料補給など八面六臂の働きをする彼女はジブラルタルで小母さん(Small mother)と親しみを込めた渾名で呼ばれていた。
そんな彼女が1941年11月10日に幾度目かのマルタ行きである、パーペテュアル作戦に何時ものように参加し、何時ものようにハリケーンを発艦させ、帰投の最中、突然右舷に水柱が立ったのである。それは、ブレストからラ・スペツィアへ向かって出港したドイツ海軍のU81による攻撃であった。U81は11月13日にジブラルタル海峡を通過し航行しているところで、ジブラルタルへ帰還途中のH部隊と遭遇した。U81は航空母艦アーク・ロイヤルを見つけ魚雷を4発を発射したが、ジブラルタルまであと僅かの距離であるが為に、そのずんぐりした船体の割りには速度の速い彼女が更に速度を上げていたが為に偶然にも射線上に入って来たのである。そして彼女には、その内の1発が命中したのである。もう1本はアーク・ロイヤルの鼻先を通過し残りの2本は外れた。
この攻撃で彼女は右舷へ傾いたが、幸いにも被雷数が1本であった為に自力航行は可能な状態あり、結果的には3番4番船倉が満水になるも自力航行でジブラルタルへ帰投し修理待ちとなった。
この後、危うい所を助かったアーク・ロイヤルは艦載機の補充の後、急遽東洋艦隊に配属される事と成った。それは当初東洋艦隊に配属される予定であったインドミタブルが、11月3日にジャマイカのキングストンで座礁した為で、装甲空母たるイラストリアスが本国艦隊よりH部隊へ移動する事が決まった為に、代わりとして、きな臭くなってきた、日本との関係に対する増援として戦雲急を告げつつあるシンガポールへと移動した。アーク・ロイヤルがシンガポールへ到着したのは、1941年12月8日、正に日本の宣戦布告の当日であった。この後のアーク・ロイヤルの活躍は諸兄はご存じであろうから割愛するが、彼女がアーク・ロイヤルの代わりに被雷していなかったら、アーク・ロイヤルの東洋艦隊配属も無かったであろうし、マレー沖海戦の結果も全く違っていたであろうと、幾人もの戦史研究家が著書で述べている所で有る。
被雷した彼女は修理の後、トーチ作戦、ハスキー作戦、アンツィオ上陸作戦など地中海で彼女をタイシップにした揚陸艦達と共に活躍し、“マザーヴァール”の愛称で親しまれた。対するドイツ側は彼女の存在を危険な物と感じ必要に攻撃を集中し続け、ドイツでは彼女の撃沈命令がヒトラー自身から命じられるほど憎々しい存在と成っていた為、彼女の動向を調べるだけのスパイ網すら形成されるほどであった。
イギリス情報局はそのスパイ網を察知し逆に情報を流すことでオーバーロード作戦における上陸作戦がドーバーよりパ・ド・カレーに向かうと欺瞞させることに成功した。それは上陸作戦で出てくる彼女を敢えてドーバーに配備した上で、アメリカ第3軍のパットン中将の御座船にしていたのである。これによりドイツ側はパットンと彼女のペアーこそ上陸作戦の主力であると誤解し、パ・ド・カレー方面の防備を重要視し、西部総軍に配属されていたSS第12装甲師団と装甲教導師団をはじめとする装甲師団や精強な歩兵師団などの多くがパ・ド・カレー方面へと移動させられた。
この後のノルマンディー上陸作戦などは、各種書籍や映画などで諸兄はご存じであろうが、掻い摘んで記そう。
上陸作戦は、まんまと欺瞞に乗り手薄になったノルマンディーで成功し、急遽パ・ド・カレー方面から再度転進させようとした各師団も航空攻撃大打撃を受けた為、ドイツ軍は兵力不足に陥り、上陸から僅か1ヶ月半後の1944年7月27日にはパリが解放され、8月2日までにセーヌ川全域でドイツ軍の退却が終了した。
その後、マーケットガーデン作戦にも彼女達揚陸艦艇は参加し(チャーチルが最後になるであろう彼女らに花道を与えようとしたのが真相らしい)ドイツ軍の意表を突いてのロッテルダム上陸欺瞞作戦に参加し、ドイツ軍の防備を北へ向けさせた為に、戦力不足に陥った為、結果的に連合軍に突破を許しナイメーヘン橋の奪取に成功したのである。この報告にヒトラーは彼女に呪いの言葉を放ったという噂が流れている。
1944年11月15日から始まったドイツ軍の冬期反抗作戦で有る所謂バルジの戦いの末、ドイツ西部方面軍は戦力の殆どをすり減らし末、12月17日には戦火が止み、連合軍の反撃が始まる事になる。
1945年2月にはライン川に中領域に架かるルーデンドルフ橋をアメリカ軍が奪取しドイツへ侵攻を開始、同じ頃、マーケットガーデン作戦に成功していたイギリス軍もライン川の橋頭堡から攻勢を開始し進撃を始めた。
2月後半にはルール工業地帯を占領し、ベルリンへの道が開けベルリンへの進撃を唱える声もあったが、ソ連との事前の取り決めと、アルプス国家要塞の情報を警戒したアイゼンハワーはベルリン進撃を否決し、米英軍はドイツ北部および南部に展開させようとしたが、ここで、マーケットガーデン作戦を成功させた、イギリスのモントゴメリー元帥が共産主義ソビエトを危険視したイギリス首相チャーチルの後押しでイギリス連邦軍だけでのベルリン攻撃を主張したことで、前大統領ルーズベルトと違い、元々共産主義に良い感情を持っていなかった、アメリカ大統領トルーマンも黙認し、一転して連合軍によるベルリン攻撃が決定された。
その頃、東部戦線ではドイツ軍最後の攻勢とも言える春の目覚め作戦を行っていたが、その最中の3月12日、連合軍は一斉にドイツ軍への総攻撃をはじめた。ヒトラーは慌てふためき、居並ぶ将軍達に赤鉛筆を投げ付けるなど錯乱したが、怒鳴った所でどうなるわけもなく、3月28日には連合軍はマクデブルクに到着しエルベ川を突破した。ベルリンまで僅か150kmとなっていた。
西部戦線のドイツ軍は一部狂信的な武装SS以外は殆どの部隊が次々に連合軍へ降伏をはじめていたが、ヒトラーにはその事は伝えられずに、幻の戦果に一喜一憂していた。(これは、ソ連軍に降伏するよりアメリカ、イギリスに降伏した方が遙かにマシだと多くの将兵が考えていたからである)
その頃、ソ連赤軍は連合軍のベルリン攻撃に激怒したソ連書記長スターリンの命令によりオーデル・ナイセ川で大攻勢を行っていたが、パ・ド・カレー方面へ移動した為に生き残り東部戦線へ移動していたSS第12装甲師団、装甲教導師団、東部戦線の生き残りであるSS第7装甲師団などの残存装甲部隊の抵抗により攻め倦んでいた。
1945年4月7日連合軍は東側を除くベルリンを包囲することに成功した。4月10日には親衛隊ハインリヒ・ヒムラーが単独での降伏交渉を密かに行うなど既に末期状態のドイツであったが、一人ヒトラーのみ勝利を信じて裏切り者の処刑を命じるなどしていた。
4月11日には最後まで開いていた東側の回廊が閉じ、ベルリンは完全に包囲された。4月12日、国会議事堂で抵抗していたノルトランド師団の残存部隊が壊滅し、国会議事堂にアメリカとイギリスの旗がはためいた。諸兄もこの写真は教科書で見た記憶が有る筈だ。
4月14日ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕の一室にて、妻であるエーファ・ブラウンと共に自殺を遂げた。
その後、ヒトラーの遺言で任命された新ドイツ政府の首相ゲッベルスは、連合国と講和交渉を行うため、参謀総長ハンス・クレープス大将を軍使として派遣し、2時間に亘る停戦の申し入れを行ったが、連合軍はその申し入れを退け、ベルリンの無条件降伏を要求した。ゲッベルスはこの要求を拒絶し、代わりにベルリン守備隊による連合軍ベルリン包囲網を突破する作戦の敢行を許可した。しかし、既に包囲網突破は不可能な状態であり、4月16日から17日にかけ、守備隊は降伏した。
尚、ゲッベルスは連合軍との停戦交渉が失敗に終わると、デーニッツにヒトラー死去の知らせを送り、その後、妻と子供6人を道連れに自殺した。4月20日ヒトラーの後継者として大統領に指名されたカール・デーニッツ提督が連合軍にドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に署名した。
これにより欧州戦争は終わりを告げたが、オデール・ナイセ線で停滞していたソ連赤軍はドイツ軍全面降伏との連合国側からの連絡に対し大いに荒れ、それを聞いたスターリンは再度激怒し、一時は連合軍側への攻撃も示唆されたが、あまりの怒りに心臓に再度負担の掛かったスターリンが心臓発作で倒れた為、後継者争いが勃発し政治的混乱から有耶無耶になり、オデール・ナイセ線がドイツとポーランドの正式な国境となる原因となった。この際の悲劇によりチェコスロバキアは西側のチェコと東側のスロバキアと言う分断国家となり、後にプラハの壁と言われた東西プラハを分ける壁が出来ることになる。
この後のことは、彼女の話とかけ離れている為に割愛する。
1945年4月20日の欧州戦争終了をアントワープで聞いた彼女は、当初は対日戦に参加する事も考えられたが、幾度となく続いた損傷でオーバーホール時期に来ていた為、ハーランド・アンド・ウルフ造船所へ入渠し整備に入ったが、整備中に日本の無条件降伏のニュースが流れたことで、一旦工事を中止し半年あまり係留された後、イギリス海軍籍から除籍され、捕鯨会社へ払い下げられる事となった。
彼女を購入したのは、イギリスの捕鯨会社で、早速改装の上、渾名であった“マザーヴァール”と改名し翌年1947年の捕鯨シーズンから南氷洋捕鯨に参加したのである。
その後、彼女はシロナガスクジラが禁漁になる1963年まで活躍し同年引退。
1963年、アラビア石油が石油貯蔵タンクとして使用していた、せりあ丸が老朽化の為に解体される為に代船としてアラビア石油が購入しペルシャ湾に回航され、カフジ製油所の沖合で石油貯蔵タンクとして使われるようになる。その後、老朽化のために解体されることが決まり、1973年3月にシンガポールの解体業者に売却され解体された。実に船齢37年であった。現在彼女の揚陸艦時代の号鐘はロンドンの海事博物館で大事に保管展示されている。
アークロイヤルの生存にマレー沖海戦への参加、ベルリンを連合国が落とすなどバタフライが起こってしまったわけです。