166 レイチェルのサインを
別れ際のライラの言葉が、気に掛かる。
「チョットマよ。これから先、何が起きるかわからんぞ。第一に考えるのは、自分の身」
そう言って、抱き締めてくれたのだった。
「いいか。妙な正義感に囚われるんじゃないぞ。屈辱だろうが、あざけりを受けようが、守るべきものは自分。己の命は、任務より優先する」
素直に頷くことができなかった。
任務より優先するとは。
ライラは、私のどの任務のことを指して言ったのだろう。
東部方面攻撃隊としての任務?
それとも、ブロンバーグから課される役割?
「自分の身に勝るものはただひとつ。それは愛する人の命。自分の子の命。それだけ」
「はい……」
イコマやンドペキのことを思った。
彼らの身を守るためなら、自分の命をかけてでも……。
ライラはそう言いたかったのだろうか。
それとも、ライラ自身の覚悟を言ったのだろうか。
サブリナという娘のことを。
ブロンバーグ市長の部屋に入るなり、チョットマは一枚のメモを突きつけられた。
「ここにサインを」
目を落とすと、エリアREF地下への避難を指示する内容。
「レイチェルのサインを」
「えっ」
「さあ」
チョットマは思わず後ずさり、
「できません!」と、叫んでいた。
「レイチェルのサインなんて!」
できるはずがない。
自分はレイチェルではない。たとえ彼女のクローンだとしても。
「私は」
「知っている。チョットマだ」
ブロンバーグは思い詰めた目をしていた。
「緊急事態だ」
「できません!」
「多くの人命がかかっているのだ」
「いやです!」
「市長命令として発信した。タールツー名でも発信するように依頼してある。そこにレイチェルの命令が加わればなおよい」
市民の避難が、ブロンバーグの思惑どおりに進んでいないからなのだろう。
「伝承に従うべきなのだ! このエリアREFの地下に避難するべきなのだ!」
ブロンバーグは唐突にそう叫ぶと、そうだろ!と迫ってきた。
もう、門番さんとしていつも目にしていたコウモリ男ではない。
カギ爪はそのままだが、精悍で強靭な肉体を持つ大男。
何も応えることができなかった。
その代わり、「市長さん、避難先は市民が選んでいるんでしょ。それなら……」
ブロンバーグがますます目を剥いた。
「選ぶだと! どんな基準で! アンドロやパリサイドのやつらに、そそのかされているだけではないか!」
こんなブランバーグを見たのは初めてだった。
門番として身を隠し、エリアREFを統治していたブロンバーグ。
クシの凶刃から守ってくれたのもブロンバーグ。
レイチェルのシェルタに篭る騎士団に物資を提供し、そして、ンドペキ隊との協力を説いたブロンバーグ。
しかし今、この男の頭には、決まりごとを守らせることしかないのだろうか。
チョットマがブロンバーグと話したのは、これまで二度ほどしかない。
話の中身は、チョットマからはクシの件でお礼を言ったこと。ブロンバーグからはカイロスに関してやって欲しいことがある、ということだけ。
ブロンバーグがどんな考えの持ち主か、など気にしたことはなかった。
きっと、いい人なんだという程度にしか、思っていなかった。