149 あいつだ!
「忘れたか」
「は! 勿体つけるのはやめろ!」
ンドペキは急に胸騒ぎがした。
この声は!
「俺の声を忘れるとはな」
あいつだ!
「おまえか! オーエン!」
「フン! 見くびられたものだな」
「な!」
「驚くことか?」
「なぜ!」
「この施設も俺が管理し、稼働させているからな」
エーエージーエスのときと同じように、オーエンがこの海にも巣食っていたのか。
巨大実験装置ハドロンコライダー。直径百数十キロのチューブ。
あの暗闇で起きた凄惨な光景が蘇る。
憎むべき男、オーエン。
アヤの足を切断した男。
居場所を持つ特殊なアギ。
こいつが!
しかしンドペキは、この男が現れたことに、今は心の安らぎを抑えきれなかった。
イルカの話は本当だったのだ。
ここは仮想空間でも何でもない!
いや、待て。
このオーエンの声。
これさえ、作り物かもしれない。
しかも、声が名乗ったわけではない。
ンドペキがオーエンという名を出したことによって、シナリオが分岐し、新しいストーリーが動き始めたのかもしれない。
ただ、もうこの声に頼るしかない。
「助けてやろう」
心を読んだように、オーエンの声が改まった。
「ああ。よろしく頼む」
ンドペキは、努めてあっさりとした声で応えた。
バーチャルであろうが、そうではなかろうが、どうでもいい。
事態打開の糸口になるなら、どんなシナリオでもいい。
オーエンなら、また、条件を持ち出してくるのだろう。
以前のようにホトキンを見つけ出して連れてこいというような条件なら、歓迎してよい。
不可能ではないからだ。
しかし、声はまた黙り込む。
かなり待って聞こえてきた声は、先ほどまでの挑発するような調子は影を潜め、感情を押し殺したものに変わっていた。
「引き受けよう。しかし、今ではない」
「いつだ」
「もう少し待って欲しい」
驚いた。
この言葉遣い。
轟然と言い放つだけの男だったはず。
違う。
やはりこれは、違う。
シナリオに沿って作られた声が、罠を仕掛けているだけなのだ。
「答えになってないな。いつだと聞いている」
こう問えば、オーエンなら俺に従え、口応えするなといわんばかりの反応を見せるだろう。
しかし、今、また、声は、
「あと少し。そうだな、一時間ほどあればいいだろう」
などと、言うのだった。
「遅い! 早くここから出せ!」
「まあ、そう言うな。お前達がこんなところに迷い込んでくるなど、限りなく零に近い確率だ」
「俺達には、時間がない!」
「こちらも大切な仕事がある。お前達以上に大切な仕事がな」
「条件があるなら、早く言え!」
「ん? そんなものはない。俺の好意だと思え」
好意だと!
はらわたが煮えくり返る。
しかし、挑発に乗ってはいけない。
「それはご親切なことだな」
「本来やるべき大切な仕事に優先して、お前達を助けてやろうとしている。ありがたく思え!」
そして、声は明らかに溜息をついた。
「こんなところに……」
と、再び言って、
「しかたがない」と、呟いた。
「相手してやるか」とも。