9-10 告白
上方への急激なGが、まどかの体をシートから引き剥がそうとする。
樋潟司令達の乗る輸送ヘリは、一瞬で後上方へと消えた。
それまで速度と高度を合わせて飛んでいたトリロバイトⅡは、急速に高度を下げてヘリから離れ、大きく旋回しながら海面すれすれまで降下した。
「水面効果をとらえました。加速、開始します」
紀久子の冷静な声が響くと同時に、今度は後方へのGが、二人の体をシートに押しつけた。
視界が一気に流れた。急降下して並進していた白い巨鳥・ガルスガルスも引き離され、慌てた様子で羽ばたきを増した。
もともと、水面効果を利用して低空を高速推進するのが、トリロバイト本来の姿なのだ。
大気中を飛行する物体には、翼下面の正圧域から上面の負圧域へと空気が回り込もうとして、翼端を中心とする渦流(翼端渦)が発生している。これによって、副次的に誘導抗力、つまり推進に対する抵抗力が発生し、エネルギーをロスしている。
特に、機体全体が翼状に、平たく設計されたトリロバイトは、とりわけこのロスが大きい。
水面効果とは、機体を地面に接近した状態にすることで、翼端渦の動きが地面に遮られ、翼上面まで回り込みにくくなり、誘導抗力係数が減少することをいう。これにより、トリロバイトは高空を飛ぶよりも、はるかに加速を増す事が出来るのだ。
銀色の機体が、海面すれすれを輸送ヘリの数倍の速度で海上を駆ける。
自分たちの任務は分かっている。米軍横須賀基地の特装艦・オルキヌス。その艦と一刻も早く合流して、いつでも荷電粒子砲を、シュラインに叩き込める態勢にするのだ。
すぐに、何も見えなかった水平線の向こうに、異様な影が現れた。
「し……島?」
まどかは呟いた。
全長五百m以上。海上に浮かぶそんな物体は、島か船以外には考えられない。
だが、あれほど巨大でのっぺりした船はない。海面から数mの高さではあるが、突き出た部分は、まるでドームか何かのように曲線を描いて見えた。
「違います!! 島じゃない!! あれ、動いてます!!」
紀久子に言われて、レーダーを確認したまどかは息を呑んだ。
彼女の言う通り、青灰色のそのドームは、時速数十キロの速度で北西に向けて移動していたのだ。しかし、船特有の金属反応はない。
これほど巨大な移動物体が船でないとすると……
その時、まどかの正面に立ち上がったターゲットスコープ内で何かが動いた。
「紀久子さん!! 見てください!! あのドームの上に…………」
言っている間にも、トリロバイトⅡは巨大物体に近づき、後方から追い越すような形ですれ違った。
その一瞬の交差の中で、まどかは見て取った。
ドーム状の巨大な動く島。その上に降り立っているのは、見覚えのない四つ足獣型の機動兵器だった。
その両肩に当たる部分から、何かが発射された、と見えた。
紀久子が操縦桿を左に倒した。機体を旋回させ、巨大物体を再び正面に捉えたのだ。
見ると巨大物体の上では、チェーン状のケーブルを引いて飛んだ二個の武器が、ドームの表面に深々と突き刺さっている。
「ショックアンカー……それじゃ、まさか……チーム・ドラゴン?」
見覚えのない機体ではあるが、MCMOの機動兵器に間違いない。
その機動兵器が攻撃を加えている、ということは……
次の瞬間。巨大ドームの一部が大きく動いた。のけ反るようにして、海面から立ち上がったその姿は……。
「節足動物…………等脚類だ……」
その桁外れな大きさを除けば、紀久子もよく知る深海生物にそっくりだ。
節のあるいくつもの脚が、空をつかむようにうねうねと蠢いている。ショックアンカーの電流が与えた衝撃が、ドーム状の背中をした巨大生物を苦しめているのだ。
続けて、海中からミサイル状のものが飛び出して巨大生物に命中した。
炸裂したミサイルは巨大生物の体表にクレーター状の穴を穿つ。苦しげに体をよじるたび、海面は津波のように荒れ狂っている。どうやら海中でも、何者かが攻撃を加えているらしい。
「海底ラボであんな深海生物を見たことがあります。……たぶん、擬巨獣なんです。あれも……」
震える声で呟きながら、紀久子は両手で自分の体を抱き締めた。
怖い。
その動きや姿、巨大さに、畏怖や生理的嫌悪を感じたからではない。
自分は、あのような怪物の中に取り込まれたことがある。不意に、そのことが強い記憶となって呼び覚まされたからだ。
ダイナスティスの中にいた時、紀久子の心と体を包んでいたのは、ねっとりとからみつく、甘い絶望の感覚だった。
細胞の隅々までシュラインに侵蝕され、別のものに変えられてしまった自分への、諦めの気持ち。未来も意志も奪われ、何も考える必要がない。悩みもなく、苦痛もなく、他者の意思によってただ生きていればいい、そんな歪んだ幸福感。
だが、同じ擬巨獣であるベスパを見たときには、こんな恐怖は感じなかった。
紀久子には分かる。この感覚はたぶん、いや間違いなく…………
「紀久子さん……紀久子さん!? どうしたんですか!?」
ふと、顔を上げると、まどかが振り向いて、前のシートから身を乗り出すようにしていた。まだ脊椎の負傷は完治していない。動かない足で無理な体勢を取ったせいか、まどかの顔は苦痛に歪んでいた。
紀久子は、慌てて頭を強く振った。
数瞬、意識が飛んでいたのだろう。トリロバイトⅡの自動操縦機能が働き、ホバー状態のまま、大きく弧を描いて旋回し始めている。
「い……いえ。すみません。もう、大丈夫です……まどかさん、気をつけてください。あの巨大な擬巨獣は……シュラインの意識を持っています……」
「どうして……それが?」
「それは……聞かないでください。でも、間違いありません」
紀久子は、静かな怒りを湛えた瞳で、巨大な節足動物型の擬巨獣を睨んだ。
シュラインは自分の勝手な理想を押しつけるために、紀久子をいいように操り、人々を傷つけさせた。いや、そもそもシートピアで、明の体にG細胞を植え付けさせたのもシュラインだ。この事態を招き、紀久子自身だけでなく、明やその父である伏見伊成、八幡教授、いずも、サンやカイ……多くの人々の人生も、大きく狂わせた。
特に、いずもや東宮たちのように、一度シュライン細胞に冒された者は、その影響から逃れられずにいる。
不思議なことに紀久子自身から、シュライン細胞の影響が完全に消し去られていたことが、却って大きな重荷となって、紀久子の心にわだかまってもいる。
そのシュラインが、更に強大な力を得て、今また多くの人々を蹂躙しようとしているのだ。許せるはずがなかった。
「私達も、戦いましょう」
紀久子の声は小さく、そして震えている。だが、堅く低いその声は、強い覚悟を示していた。
「あれがシュライン本体だとして、私達がアイツを斃したとしても……もしかすると、何か小さな生き物に意識を移して、逃げられちゃうんじゃないですか?」
まどかの疑問はもっともである。だが、一度ダイナスティスの核となった紀久子には、確信めいたものがあった。
「たしかにその可能性はあります。でも、一体の巨獣と違って、擬巨獣には核となるものがないと、全体の形態をまとめられません。それには相当のパワーを使います。あれほどの巨体になれば尚更……きっと、そう簡単に意識を移せはしないはずです……一瞬で中枢を破壊できれば、たぶん……」
「じゃあ……アイツを斃してしまえば闘いは終わるんだ……明さんは、もうGにならなくても……辛い思いをしなくても済むんですね……」
「まどかさん……?」
紀久子は驚いた。まどかが囁くように口にした明の名前に、なにか特別な響きを感じたのだ。
「あ……すみません!! 今のなし!! き……聞かなかったことにしてください!!」
フルフェイスのヘルメットから、僅かに見える耳が、口紅でも塗ったかのように真っ赤に染まっている。
「もしかしてまどかさんは……明君のことを……?」
まどかは振り向かずに肩をすぼめ、小さく頷いた。
「明さんの気持ちは、知っています。でも……私…………」
それ以上何も言えずに、まどかは俯いた。
微かに震える肩を見つめる紀久子の胸も、知らずに高鳴っていた。
つかの間、コクピット内を沈黙が支配する。
これまで紀久子自身にも、自分の気持ちがよく分からなかった。だが、明を好きだ、という女性を初めて目の前にして、平静でいられない自分に、今気づいてしまった。
胸の高鳴りを抑えるように、紀久子はしどろもどろで話し始めた。
「あ、明君は……すごい人だと思います。あんな過酷な運命を受け入れて、みんなのために戦えるんですから……まどかさんが好きになった人は……」
「違いますっっっ!!」
「え?」
激しい声で否定されて、紀久子は戸惑った。
自分が何を言おうとしていたのかさえ忘れて、まどかを見つめた。ゆっくりと振り向いたまどかの、涙に濡れた厳しい視線が紀久子に突き刺さった。
「みんなのため、なんかじゃありません!! あの人は……明さんは、いつだって、あなたのために戦ってきたんです!! そりゃ……シュラインを倒すことは、人類のためにもなります!! 優しい人だから、巨獣に取り込まれた人達や、動物たちまで助け出しましたけど……運命が過酷でも!! 残酷でも!! どんなに……苦しくても!! 紀久子さん!! あなたのためだから、彼は耐えて戦ってきたんです!! いえ、今も戦ってるんです!!」
「あの…………ご……」
「ごめんなさい。言い過ぎました……斃しましょう、アイツを。話の続きは、それからです」
激しい言葉に押されて、謝ろうとした紀久子の言葉を遮って言うと、まどかはまた前を向いた。
(……ごめんなさい)
紀久子は心の中で言った。
明が自分に好意を寄せてくれていることは、もう分かっていたことだ。だが、これまでの行動すべてが、自分のためだとまでは思っていなかった。
だが、冷静に考えれば、海底ラボでの戦いからずっと、明は自分を助けようとしてくれていたのではなかったか。
しかも、目の前の女性はそれを知ってなお、明を思い慕っている。
(私が……はっきりしなくちゃいけないんだ……)
だが、自分には、将来を誓い合った婚約者がいる。
紀久子は自分自身に嫌気が差して、婚約破棄を申し出ていたが、それを守里は受け入れてはいない。
「荷電粒子砲……発射シークエンス開始します。大容量コンデンサ充電開始。もう一度、あの巨獣の正面に回り込んでください」
まどかの冷静な声が響く。
「了解」
トリロバイトⅡは一気に加速し、大きく弧を描いて海面を駆けた。