2-7 サンとカイ
「この向こうは実験動物の飼育室ですけど……その先はどこにもつながっていませんよ?」
怪訝そうな表情で答えたのは紀久子だ。
それを聞いた伊成は、自分を納得させるように何度も頷いた。
「そうか……つまりヤツは私を取り込むために、どうしてもこの扉を破る必要があるってことか」
「しかし、扉も限界のようだ。時間稼ぎにしかならなくとも、飼育室へ移動するしかないな」
八幡の言う通り、すでに廊下との間のドアはこちら側に大きくへこんでいた。破られるのも時間の問題だ。
飼育室へのドアは狭く、守るには有利そうだがベッドは通れない。
意識を失っているいずもと、まだ麻酔から覚めない明は抱えていくしかない。
いずもを八幡が、明を石瀬がそれぞれ背負った。
飼育室には様々な生物が、透明なケージや、水槽で飼育されている。イヌやネコ、サル、ネズミ、カエル、魚類、その他、昆虫や貝類、海生生物もいる。
「こ……これが、例のニホンザルですか?」
東宮が呻き声を上げた。
一際丈夫そうな鉄製の檻に入れられていたのは、あどけない顔立ちのニホンザルだった。ふわふわした毛並みといい、生後二~三ヶ月の子ザルとしか見えないが、そのサイズはどう見ても二十キロ前後……人間の十歳児くらいになっている。
鉄製の檻はいかにも狭苦しく、まるで人間の子供が閉じこめられているようで痛々しい。
「この子は驚くべきことに、すでに人間の四歳児並の知能まで備えています」
紀久子がそう説明すると、伏見は少し考え込んでから口を開く。
「四歳児並み……か。ということは、彼は、人間の言葉は理解できますね?」
「ある程度なら……しかし、やんちゃざかりですから、こちらの言うことを聞くとは思えませんよ?」
「それでも構いません。彼を檻から出してください」
飼育ケージから出されると、巨大な子ザルは、身軽に飛んだ。急に抱きつかれた紀久子は、二、三歩よろめく。かなり重そうだ。
「サン!! こら、離れなさい。重い~!!」
引き離そうとする両手を巧みにかいくぐって、紀久子の背中を移動する子ザルは、一向に言うことを聞く様子はない。八幡は不思議そうに尋ねた。
「伏見君。何故、この子ザルを檻から出すんだね?」
「この体格で、知能がそこまで高いなら、松尾君の命令で戦ってくれるかも知れません。使えるものはすべて使って立ち向かわなければ。万が一にも、ヤツを地上に放つことは出来ないのですから」
「でも……この子が何かの役に立つとは思えないんですけど……」
結局、頭に乗っかられた紀久子が、困り果てた表情で言う。
「それより、もう一頭……」
そう言いかけた紀久子を遮るように、激しい衝撃音が隣室から響き渡った。
ついに施術室のドアが破られたに違いない。
続けて、妙に明るく澄み切ったシュラインの声が聞こえてきた。
「君たち、いい加減に観念したまえよ。そうやって隠れていても、何にもならないんだから」
「待て、シュライン。そこまでしてG細胞因子を欲しがる、貴様の目的はいったい何だ?」
八幡がドア越しに呼びかけた。
「ははは。八幡君、時間稼ぎでも始めたのかい? いいとも。君たちには、教えてあげてもいいよ。どうせ、僕に吸収されちゃえば、話さなくとも理解できる事なんだけれどね」
次の瞬間、轟音を立てて飼育室のドアが内側に吹き飛んだ。
「何!?」
驚きの声が上がる。
ドアがあまりにもあっさりと破壊されたからだ。飼育室はさほど頑丈な作りではないとはいえ、シュラインのパワーは尋常ではない。
狭苦しそうにドアの隙間から姿を見せたシュラインを見て、全員が息を呑んだ。何を取り込んだのか、シュラインは数倍にも膨れあがっていたのだ。
下半身はぶよぶよとした肉塊に変わり、白っぽくぬめった皮膚からは、イヌやネコの足や首、尻尾などがいくつも突き出している。
肉塊の上に乗った半身が、美しい少年のままであるのが、さらに異様であった。
個体としてのバランスを無くしたシュラインの姿は、地上のどんな生き物よりも醜悪に見える。そこにいた全員が、思わず口を押さえて後ずさった。
「吸収だと? その可哀想な実験動物たちですら、まともに操れもしないくせに、人間を取り込めば、なにか変わるとでも言うつもりか!?」
伊成が挑発的な口調で叫んだ。
皆を守るように立つ干田が、先ほど作った手製の電気銛を構えて牽制する。
「君は大したものだよ伏見君。まさか細胞内共生細菌とやらが、あれほどの毒を制御できるとは思わなかった。毒の状態が不明で再融合も出来なくてね……君に飛びかかった連中は助からなかったよ。可哀想に………だが、毒の正体はもう分かった。このまま私がうまくG細胞の機能を取り込めれば、そうした問題もすべて片付くしね」
「どういう意味だ?」
八幡の問いに、肉塊の上の美少年が得意げにしゃべり始めた。
「分離した生物たちを操っているのは、生体電磁波だ。だが、動物どもの生体電磁波は微弱でね。いくら種類や数を増やしても、中継器にも成り得ないんだよ」
「それは、人間を取り込んだって同じことだろう」
「そうとも。しかし、Gなら違うんだ」
ここまでは推測通りである。八幡も伊成も、やはり、という表情をした。
「Gを始め、巨獣には強力な電磁波を発する器官を持つものがいると聞いたことがある。Gの能力を欲しがったのはやはりそれか……」
だが、最終的にどうしたいのか、シュラインの目的は不明なままだ。
「巨獣化してGの電磁波を発する力を手に入れ、同化した多くの生物を操って、それで何がしたい?」
「一つになるのさ」
「何?」
至極当然のことのように口にしたシュラインの言葉は、しかし、その場の誰も理解出来なかった。
「わかるだろう? この世界は、争いと悲しみに満ちている……それを無くすのが僕の理想なのさ……」
シュラインは遠い目をして語り始めた。
ほとんどの者にとって意味不明にしか聞こえない演説を遮って、干田が一人反論した。
「バカな。今はもう、大きな対立や紛争はことごとく終結しているんだぞ。中国とアメリカの経済圏戦争、イスラエルとイスラム諸国の紛争すら無くなり、宗教の壁を越えて理解し合えたんだ。今更何を言う!!」
干田の言う通り、二つの宗教が一つの聖地を平和裡に共有するという、まさに歴史的な和解によって、十年前にパレスチナ問題は解決している。テロや戦争の火種は、西欧、東欧諸国やアジア、アフリカはもとより、世界の火薬庫とまで言われた中東からも、ほぼ払拭されたといっていいのがこの世界の現状であった。
それもこれも、人類に甚大な被害を与えた十五年前の巨獣大戦の結果であることは、あまりに皮肉ではあったが……。
「本当に、今が平和の究極かい? もう二度と何の争いも起きないと?」
「…………」
干田は言葉に詰まった。
たしかに、世界の軍備は縮小に向かってはいない。いつ現れるとも知れない巨獣対策を名目に、軍備の拡張は続けられている。
そして経済的に先が見えず、周辺諸国との歴史的な見解の相違や国境問題などの政治的な決着を先延ばしにしてきた日本周辺が、今や世界中でもっとも危険な地域となってしまっていた。
「しょせん、一時的な平和に過ぎないのは、歴史が証明しているんじゃないかな。それだけじゃない。国家間の紛争が無くなっても、犯罪、貧困、差別は今も無くなってはいないでしょ?」
シュラインは、馬鹿にしたようにくすくすと笑った。
「しかし……」
反論しようとした干田を、シュラインが手を挙げて制した。
「詭弁はよしたまえよ。べつに人間に限ったことじゃない。あらゆる生き物は他者を殺し、食らい、同種同士もまた相争って、あるいは利用しなくては生きていけないんだ。そして、最後はどんな生物も、個体として孤独な死を迎える。これが生命だって? なんと寂しく、しかも殺伐としたシステム!!」
「それが、生物であり、そのシステムこそが生態系ってヤツだ。だからこそ、進化がもたらされ、その中から我々も生まれてきたんだ」
八幡があきれたような表情で、シュラインの言葉にかぶせた。
しかし、シュラインは八幡に一瞥をくれただけで、すました顔で続けた。
「その通り。しかし、今や僕という存在を得て、生物は進化という殺伐とした軛から解き放たれ、ようやく次のステージに進むことが出来るんだよ」
「なんだと!?」
「分からないかな? すべての人間が、いや、すべての生物が私と融合して一つになれば、争うことも……いや、それどころか永遠に死ぬことすらないんだ……。すべて同一の、僕という一個体になるんだからね」
「まさか……それが!?」
「僕の目的だ」
「――――っ!!」
声にならない声が上がる。
八幡だけではない。紀久子も、伏見も、干田や白山、東宮、石瀬も、全員が呆気にとられたように、シュラインを見つめている。
「そ……んなの、おかしいよ」
その時、一人だけ声を発した者がいた。投薬が効いたのか、正気を取り戻して目を覚ましたいずもである。
「む……お前は……すでに私の一部として取り込んだはずではないのか?」
抗生物質が効いてきているのか、至近距離にありながら、電磁波の命令も効いていないようだ。シュラインの口調も焦って聞こえる。
「雨野くん、大丈夫なのか?」
「八幡先生……大丈夫…………ではないみたいですけど……」
そう言うと、弱々しく笑って足元がおぼつかないまま立ち上がる。
「あなた……さみしいのね?」
無言のまま、シュラインはわずかだが後退した。顔からは表情が消えている。
「一時的にでも、あなたとつながった私には見えたの。あなたの心が。でも、あなたは間違っている。あなたのお母さんも、決してあなたを……」
「だまれ」
無表情なまま、シュラインの目が緑色に光った。
「だまれ 黙れ ダマレ だぁまぁれぇええ‼」
シュラインのぶよぶよした下腹部から、焦げ茶色の鋭い形状をした何かが飛び出し、素早くいずもを狙って伸びた。
「あ、危ない‼」
立ちすくんだいずもに向かって、飛び出した影があった。突き飛ばされたいずもが転がり、入れ替わるように立った人影を、鋭い突起が貫く。
「おキクさんッ!?」
いずもが叫んだ。血しぶきが舞い、人形のように崩れ落ちたのは、紀久子だった。
「ホァー――ッッ!」
紀久子の背中にへばりついていた大きな子ザル、サンが悲痛な声で鳴く。
その時。
「ゴガァアアッッッ!!」
飼育室のさらに奥。
暗く、何もないと思われていた場所から、獣の吠え声が響き渡った。
「カイだわ。カイ!! 静まりなさい! カイ!!」
紀久子は、貫かれた肩を押さえて身を起こした。しかし、そのつらそうな声に反応したのか、かえって声は激しさを増す。
「ゴッゴッゴォォオオオ!!」
次の瞬間。
奥の部屋から、四角い金網製の扉らしきものが飛んできて、激しく壁に激突した。そして、それとほぼ同時に真っ黒な何かが飛び出してきた。
体長2メートルを遙かに超えるその黒い影は、シュラインに体当たりすると、紀久子をかばうように立ちはだかる。
「M-10だと!? 松尾君!! まだ彼を処分していなかったのかね?」
八幡は右腕を押さえている。疾風のように駆け抜けたカイの巨体が、腕をかすめたのだ。
「すみません。今日、午後の便で送り出すはずだったんです」
紀久子が、サンを抱きしめながらうつむく。
M-10=カイは、ふたたびシュラインに体当たりすると、一気に施術室を駆け抜け、廊下にまで押し出してしまった。
「…………まずいぞ。シュラインが、もしあのサイズの生物を取り込んだら……」
八幡がつぶやく。
「いや、八幡先生。考えようによっては脱出のチャンスだ。今のうちに、第1ブロックまで逃げてください」
言いながら、伊成が前に出た。
「き……君はどうするつもりだ?」
「これはもう、第一級のバイオハザードです。シュラインだけじゃない。私と雨野君……そして私の息子も含めて、隔離、あるいは処分が妥当な措置でしょう」
「馬鹿な。君たちは人間だぞ。処分だなんて……」
「我々とシュラインと、どう違うというのです? 自分自身でも分かるんです。私の体はすでに、以前とはかなり違うものになりつつある」
そう言うと、伏見は手に持った何かを、ぎゅっと握って八幡に渡した。
「ふ……伏見君………」
それは、小さく折りたたまれた百円玉だった。並の力では……いや、人間の握力ではまず不可能な形状に変形したそれを見て、八幡は言葉を失った。
「私は、カイと協力してシュラインを第2ブロックに封じ込めます。サンと雨野君、そして息子の明は………出来ることなら、隔離してでも生かしてやっていただきたい」
そう言うと、カイの後を追って走り出した。速い。その速度はおそらくプロのスプリンターのそれを遙かに凌駕していると見えた。
脳だけではない。伊成の筋力もまた、常人とはかけ離れたものに変わりつつあるのだ。
押しとどめようと手を伸ばしかけた八幡は、その手をぎゅっと拳に固めて壁を叩いた。
「彼の……言う通りにしよう。雨野君、歩けるか? 白山君は東宮君と二人で、明君をお願いする。松尾君の怪我は……」
すると、傍らに座っていたサンが、さっと紀久子を抱き上げた。ここまでの会話を正確に理解していたのだ。
反応の早さから見ても、サンの知能は四歳児どころではなさそうだ。また、体格こそ小学生並だが、腕力は大人の男性か、それ以上にあるのだろう。軽々と紀久子を持ち上げ、さっさと廊下へ出て行く。
「なんと……二足歩行まで……」
あきれたように八幡がつぶやく。
「これも、G細胞の力だってことか……」
石瀬も干田も目を見張っている。
彼等が廊下に出ると、驚くべき光景が展開されていた。
カイは駆け回ってシュラインを翻弄している。そのあまりの素早さに、その姿はほとんど肉眼では捉えられず、黒い影が走るようにしか見えない。
その動きについて行けないシュラインは、先ほど紀久子を襲った突起の狙いを定められず、攻撃を加えることが出来ない様子だ。
そして伊成は、シュラインの攻撃の間隙を縫って体当たりを敢行し、すでに十数メートルも後退させている。
「伏見君!! 私達はこのまま第三ブロックへ逃げる。君も必ず、後から来るんだぞ!!」
「八幡先生! 我々のことはいい!! 第三ブロックに避難できたら、すぐに隔壁を閉めてください!! そして急いで脱出の準備を!!」
「八幡先生。伏見先生の気持ちを無駄にしてはいけない。隔壁を降ろしましょう」
逡巡している八幡を押しのけ、干田は躊躇うことなく隔壁のスイッチを押した。
「行かせるか!! お前たちは私になるのだ!!」
狂気に裏返ったシュラインの叫びが廊下に響き渡る。
その声を押し込めるように隔壁が降りていく。ブロック間の緊急隔壁は、縦横に二重三重に重なり合って閉じた。