8-5 悲しみの泉
ヒルの巨大集合体は、図体の割に動きが鈍く、脆かった。
ぐねぐねと蠢くだけで、抵抗らしい抵抗はない。そんなヒルの塊を叩き潰し、バラバラに飛び散らせると、モンドは敵の体液が付着した棍棒を手に大通りを歩き出した。
殺し尽くせたわけではない。ただ飛び散っただけのヒルの群は、まだあちこちで人間達を襲っているのだろう。炎に包まれた町の各所で悲鳴が上がり、ヒルに操られた幽鬼のような人影がうろつく、阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
逃げ惑う人間達は、巨大なモンドの姿とヒルの群れに挟み撃ちにされた形となり、大通りから裏町の方へとあふれ出していく。
小さな町だと思っていたが、どこにこれだけの数の人間がいたのだろう。モンドは人間の数の多さに少し呆れながら、空気の臭いを嗅いだ。だが、人間の波の中に、マリーとジャンの臭いは感じられない。
『ったく……どこだ!! マリー!! ジャン!!』
その叫びは囀りの響きとなって町中に谺した。
丸太で叩き潰され、飛び散ったはずのヒルの群れは、うねうねと蠢きながら再び集合しつつある。どうやらただ弱いだけではなく、しぶとい生命力が売りということらしい。
モンドは舌打ちした。
地上に青黒い粘液の渦を形成しながら、火事の炎に照らされて蘇りつつあるヒルの群は、さながら町を襲う泥流のように人も建物も呑み込み、小山のように盛り上がって、またひとつの群体を形作ろうとしている。
余分な材料なのであろう。取り込まれた人間の骨が、集合体の隙間からボロボロとこぼれ落ちるのが見えた。
直径五十mはあろうかという、ヒルで出来た巨大な饅頭は、まるで全体が一つの生き物のように動き出した。ゆっくりと移動しながら、饅頭の頂点に近い部分から尖った一端を突き出して周囲の臭いを嗅ぐかのように、ゆらゆらと蠢かせている。
不気味な上にしつこい敵だ。
しかも、でかい。初めて見る大きさの敵だ。
モンドはこの雲南の山中で、これまで自分以上に巨大な相手と見えたことはない。
『何なんだコイツら……ただのヒルじゃない……』
一族中でも怖いもの知らずで通っているモンドも、さすがに顔色を無くして後退りかけたその時、後ろから肩を叩かれた。
『モンド!! 二人とも保護したぞ!! 森の方へ来ていた!!』
ファロだ。その肩にはジャンとマリーを乗せている。
よほど怖い思いをしたのだろう。ファロの肩に乗る、というよりはしがみつくようにしている二人は、怯えきった顔で震えている。
『兄貴。さっさと逃げようぜ!?
こんなバケモノ、いつまでも相手にしちゃいられねえし、軍でも出張ってきたら俺達まで攻撃対象になっちまう!!』
だが、ファロは再び凝集しつつある、青黒いヒルの塊を見つめて首を振った。
『バカ。この村が無くなっちまったら、俺達どこから砂糖や油を買うんだよ?
なんとかこのバケモノ片付けるぞ!!』
『おいおい。こんなの、いったいどうすんだよ兄貴!?』
モンドは耳を疑った。
たしかにファロの言うことも分かる。発見されないよう隠れ住んでいるとはいえ、小柄な女達はよくこの村に訪れていた。奥地で採れる鉱物や山菜、獣肉と引き替えに、彼等の技術では作れない道具や食料、嗜好品を手に入れるためだ。
だが、ここにしか人間の町がないわけではないし、先ほどの再生力を見る限りモンドとファロの二人で倒せるような相手にも見えない。ここは逃げるべきではないのか?
しかし、ヒルの集合体を見据えるファロの目はどうやら本気のようだ。
『見たとこ、どうやらコイツらヒルの化け物みたいだ。
だったら、焼き殺しちまえばいい。ひとつに固まり始めたのはラッキーだ。向こうのブロックまで追い込むぞ!!』
『あ!? なるほど分かった!!』
ファロの指さす先には、この村唯一の燃料店がある。
その看板の意味は、モンドもよく知っていた。たしかにガソリンならば、相当の破壊力がある。しかも石炭や重油も扱う店であれば、更に火力は強まるだろう。この怪物を燃やし尽くす事も出来るかも知れない。
『俺がコイツを引きつけている間に、あのタンクから灯油を持ち出して逃げ道を無くせ!!』
ファロは、火の付いた家屋から太い柱材を引き抜いた。
部分部分を触手のように伸ばして移動先を探すヒルの集合体。その無数の先端に燃えさかる柱材を押しつけ、その場所に釘付けにする。
その間にモンドは、一足先に燃料店へ走った。
ガソリンと違って灯油は地下埋設タンクではない。地上に数百リットルの鉄製タンクが据えられていて、そこから給油するのだ。
三つある円筒型のタンクの一つを無理矢理引き剥がすと、引き千切られたバルブの隙間から灯油がこぼれ落ちた。
『よし。このまま……』
巨大なタンクを抱えたモンドは、したたり落ちる灯油を燃料店へ向かう道以外にまき散らしていった。そして、ほぼ円形に灯油の結界を張ると、灯油の残ったタンクをヒルの集合体に投げつけた。
『いいぜファロ兄貴!! 火をつけてくれ!!』
『おう!!』
ファロが燃えさかる柱材を地面に放ると、周囲からの熱で気化しつつあった灯油は爆発的に燃え上がった。
真紅の炎にあぶられて、巨大なヒルの塊は動きを変えた。だが、熱を嫌って縮こまるだけで、その場から動こうとはしない。灯油が充分ならこのまま炙り殺せば良さそうなものだが、一瞬で燃え上がった灯油のファイヤーサークルの勢いは、すでにピークを過ぎてしまっている。このままでは、ヒルを炙り殺すことなど出来そうにない。
『このままじゃダメだ。ヒルは水に引き寄せられる。お前は下の川から水を汲んできて、ガソリンスタンドの近くに水たまりを作れ。俺は後ろから火の付いた丸太で追い立てる!!』
『よぉし……』
モンドはトラックの車体を引き剥がし、運転席のキャブそのものを取り外した。
『水漏れはありそうだが、コイツで水を汲んで来られるな』
モンドが水を汲みに遙か下を流れる渓流へ姿を消したのを見届けると、ファロは周囲の家屋を壊し始めた。逃げまどう人々を踏みつぶしてしまわないように気をつけながら、家屋の残骸で巨大ヒルの逃げ道を塞いでいくのだ。
半径百mのバリケードは、巨大ヒルの周囲を半円形に囲む状態になった。先ほどまき散らした灯油を含んだ家屋の残骸は、折からの強風にあおられてふたたび勢いよく燃え上がり始めた。
『よし……思った通りだ』
完全に火に囲まれた巨大ヒルは、先ほどより動きを増し、なんとかその場を離れようともがき苦しみ始めた。
『兄貴!! 水だ!!』
『よし、あのスタンドにぶちまけろ!!』
ファロが言うより早く、モンドはガソリンスタンドへ水を掛けた。
『兄貴!? だけどどうやって爆発させんだよ!?』
『んなことお前が心配するな!! ぶちまけたら早く逃げろ!! お前まで爆発に巻き込まれちまう!!』
巨大ヒルは敏感に水の臭いを感じ取ったのか、一気にガソリンスタンドに覆い被さった。
灯油から瓦礫に燃え移った火事の炎に、じりじりと体表を焼かれた巨大ヒルの集合体は、また饅頭のように一カ所へと集束し始めた。
『よぉし!! コイツでっ!!』
ファロは燃え残っている電柱を掴んで引っこ抜いた。
『モンド!! おまえは人間どもを威嚇して、ガソリンタンクから離れさせろ!!
この量だと、最低二百m四方は完全に火の海だぞ』
『ええっ!? ほんとかよ兄貴!?』
『ああ、だからおまえも人間どもを追い払ったらすぐ建物の陰に隠れろ』
避難者は既にほとんど視界には居ないようだが、それでも人間の姿がちらほら見える。
モンドは慌てて丸太を棍棒のようにふるい、避難民を追い立てた。さらには、駆けつけてきた消防車や、遠巻きにこちらを見る警察の連中も追い払う。
燃料店の周囲に人影が見えなくなったことを確認して、ファロは叫んだ。
『行くぞ!!』
この村唯一の鉄筋構造物である村庁舎に駆け上り、コンクリート製の電柱を振りかざす。巨大な獲猿の体重を支えきれず、崩れつつある五階建て村庁舎。その屋上に無理矢理よじ登ると、電柱を槍のように巨大ヒルへと投げつけた。
電柱はヒルの集合体に突き立った。ヒルの集合体に覆い隠されたその下には、ガソリンスタンドの建物がある。
身長十五mの膂力で加速された電柱は、地下タンクまでも貫き、大量のガソリンを地上へと噴出させた。数瞬の間をおいて、視界を埋め尽くした閃光と耳を覆う大音響。
ファロは体毛を焼く熱波と衝撃波を屋上に伏せてやり過ごした。見下ろすと焼け残ったほんの一塊のヒルどもが、道路脇に掘られた下水溝に向かって逃げ込むところであった。
『逃がすかよ!!』
ファロが自身の体重を掛けて建物を崩し、ヒルの逃げ道を塞いだところへ、やはりそれを見つけたモンドが燃えさかる瓦礫の山を崩しかぶせた。
『キュヒイイイイイイィィィ』
鳥の叫びのような奇怪な音が空気を切り裂いた。
それと同時に小さくなったヒルの集合体の表面が割れ、青黒い液体が噴水のように舞った。発音器官などあるはずのないヒルである。どこかに溜められていた体液が内圧に耐えかねて噴き出したのだろう。その体液とガスが漏れ出す音が、ヒルの怪物の断末魔であった。
『ふうう……』
『やっとくたばりやがったか』
ファロとモンドは肩を落とし、顔を見合わせてため息をついた。
その時、空気を振動させる規則正しい音が聞こえてきた。ヘリコプターのローター音であった。この騒ぎである。地域を守備する人民解放軍の基地から、出動があったに違いない。
『やばい。逃げるぞ!!』
『おう』
マリーやジャンに通訳してもらうことは可能かも知れない。だがいくら説明したところで、この姿だ。十五mオーバーの毛むくじゃらの巨人を、人間達が信用するとは思えない。
問答無用で攻撃されるのが落ちだろう。
ファロは街の片隅に避難させてあったマリーとジャンを肩に乗せると、モンドを促してあわてて森へ分け入っていった。
巨木を揺らして去りゆく二頭の巨大な獲猿の後ろ姿を、マリーが買い物をしていた店の主人、リャンが睨み付けていた。
「くそおおっ!! 騙しやがって!! あの親子……獲猿の仲間だったのか!! ヒルのバケモノもアイツらが連れてきたに違いねえ……」
*** *** *** *** ***
一夜明けた町の状況は悲惨の一言であった。
白骨がいたる所に転がり、屍体とヒルの焼け焦げる異臭が立ちこめている。
軍の張ったテントの中は負傷者であふれかえり、救援物資も不足していた。食物や水の配給場所では奪い合いが起き、怒号と悲鳴、子供の泣き声が響いている。
運良く負傷しなかった人々の中には、精神を無くしたかのように呆然と立ちつくしているもの何人もいた。
目の前で家族や友人がヒルの塊に変わるところを見たのだ。そのようなショックから簡単に立ち直れるはずもない。
だがもっとも悲惨なのは、ヒルに半分体液を吸われかけた人々であった。
獲物に寄生し、体内で増殖するタイプのヒルである。
犠牲者を長く生かし続けるために、ヒルの分泌する液には麻酔効果や、あるいは回復効果までもあったのかも知れない。普通ならば絶命していてもおかしくない重傷……手足や腹部、頭部の半分など、中にはほぼ半身までもを失いながら……存命している者達が多数いた。彼等は家族と故郷、そして自分の体を失った苦痛に耐えながら、身動きもとれない状態でそれでも生きているのだ。
「殺してくれ」
声にならない声で呻き続ける人々。バイオハザードの観点から、負傷者は次々に救護ヘリに乗せられ、軍の研究施設へと運ばれて行く。その中には、後にチーム・カイワンのメンバーとなるイーウェンやジーラン、ジャネアたちの姿もあった。
「だからさっきから言ってるでしょう!! 獲猿がヒルの怪物をけしかけて……町の人間はほとんど食われちまったんだ。あの親子、奥地に住んでる集落があるって言って、時々来やがるんです!! きっと仲間なんだ。獲猿どもを退治してくださいよ!!」
支援に駆けつけた人民解放軍大隊長に訴え続けているのは、あの商店主リャンだ。
だが、隊長となっていたのは、五年前シャンモンとともに集落を訪れた通信士官のチェンであった。
あの集落には凶暴な巨獣はもういないはずなのだ。近隣の村を荒らしていた獲猿は、たしかに彼等の部隊が斃し、森の焼け跡から白骨まで確認、回収したのだから。
「バカな……獲猿なら、五年前に処分した。それにその親子連れはシャンモン大佐のご家族だと報告を聞いている。そんなわけはない。しかもそのヒルの化け物……どうやら大連の研究施設から逃げ出した『ゼイラニカ』という、もともとは医療用生物らしい。つながりはあり得ない……」
「軍のお偉方のご家族が、なんで巨獣の肩に乗って森へ消えるんですかい!?
で、アレが医療用生物ですって? そんなの間違いに決まってるでしょう!! 奴ら消防隊の邪魔をしてこの村唯一の燃料店までぶっ壊しやがって、俺達の村はもうおしまいだ!! ……やっつけて家族の……みんなの仇を討ってくださいよ!!」
泣き崩れるリャンの訴えにチェンは困り果てていた。だが、今は何が起きたのかハッキリさせたい状況でもある。もしシャンモン大佐の妻子が本当に来ているのなら、保護しなくてはならないとも思えた。
何よりこうして救援に来たはいいが、再び町が襲われるような事態になっては意味がない。大隊長のチェンは暫く考え込んでいたが、諦めたように大きくため息をつくと脇に控える補佐官に言った。
「救護隊以外の対巨獣戦闘部隊は救護活動から離脱。この奥地にある集落へ向かう。だが、あくまでもこの男の言っていることの検証が主目的だ。いいな」
*** *** *** *** *** ***
『おおい。なんか様子が変だぞ!? 軍用ヘリがこっちへ向かってくるみたいだ』
村の集会広場。
その脇にそびえるのは、樹高三十mの紅豆杉であった。このあたりで一番高いその巨木に登って街の様子を窺っていた、身長三m程度の小柄な男が声を上げた。
獲猿達は総じて五感が異常に発達しており、中でも視力は飛び抜けていた。
人間の中でも遊牧民や狩猟民には、数㎞先の獲物の姿を認識できるほどの視力の持ち主がいるが、彼等の視力はそれを遙かに凌駕していた。
その視力で数万年という長きにわたり、人間との諍いを裂けて隠蔽生活を送り続けてきたと言ってもいい。
それでも、数十㎞も先の街の様子をそう簡単に窺えるものではないが、いまだ消えやらぬ火事の煙ははっきり見えたし、そこから発進する巨大な飛行体の姿もよく見えた。
本来は多雨気候の雲南には珍しく澄んだ青空だったことも幸いして、ヘリの機数まで数えることが出来たのだ。
『軍用ヘリが六機だって? 人民解放軍がなんでここへ?』
『とにかく、人間どもに見つかるわけにはいかねえ。大型の男は全員、死の谷へ姿を隠すぞ』
男達のリーダー格であるファロの号令で、男達は姿勢を低くして歩き出した。
普通の人間並みの大きさである女達と、一部の男を残して隠れるのだ。
「死の谷」は集落の直下。遙か下方にきらめく渓流は国境を越え、数百㎞下流でメコン川へと合流している支流だ。断崖の高さは五百m。そこを命綱も何も無しに降りていくのだ。岩だらけの岸壁を降りるのは、筋力の発達した彼等といえども容易なことではないが、それだけに人間に見つかる可能性は低いため、いざというときの隠れ家となっていたのだ。
以前のシャンモン達の調査隊は徒歩や車輌を使い、半日以上掛けて接近してきたため、そこへ隠れる暇があった。しかし、今回はヘリであっという間に近づきつつある。
『思ったよりも人間どもの動きが速い。急ぐんだ!』
声を潜めてファロが言う。
谷底には巨大な鍾乳洞があり、それを掘り広げた空間は十数mクラスの男達十数人が、全員寝泊まりできるくらいの広さがある。
その場所へ着きさえすれば、まず見つかることはあるまい。だが、多少の準備は必要だ。
彼等が集落から出て、畑のある開けた場所へとさしかかった時、モンドが声を上げた。
『ちょっと待ってくれよ。なんだか杖が上手く持てねえん……うわっ!! な……なんだこりゃあ』
モンドは自分の指がおかしな形に膨れあがっているのを見て、驚愕した。
『モンド!! どうした!?』
『た……助けてくれ…………』
モンドが伸ばした腕が、内側から押されるように更に不気味に変形していく。
手だけではない。顔も腹も足も、妙な形に変形しつつあった。
『しまった……』
奇妙に変形した弟の姿を見てファロは呻いた。
自分自身がヒルに触れないように気をつけるので精一杯で、モンドの行動にまで気を配る余裕がなかったのだ。おそらく、最初にヒルの集合体を丸太で打ち据えた時、モンドの体表にヒルの一部が付着したに違いなかった。
『近寄るな!! コイツが昨日町を襲ったヒルだ!! 取り憑かれると体の中から食い荒らされるぞ!!』
なんとかならないのか……ファロは鋭く指示を飛ばしながら、頭を回転させた。
だが、事ここに至ってはモンドを救う方法はどうしても思いつかない。とにかく、これ以上の感染を防ぐようにするしか無いと思えた。
それにはとにかく地面に転がってのたうつモンドを鎮めなくてはならない。
『落ち着けモンド!! 何とかしてやるから!!』
しかしヒルに冒され転げ回るモンドの体は、見る見るうちに膨れあがっていく。もう返事も出来なくなっているようだ。
まさに昨夜あの街で人間達に起きたことが、ここで再現されようとしている。だが状況はずっと不利だ。ヒルを一気に燃やし尽くそうにも、村にはガソリンも灯油も瓦礫もないのだ。
とうとう限界、と思えるほどモンドの表皮が引き伸ばされた。体毛の隙間から半透明になった皮膚とその下で食い破ろうと蠢く青黒いヒルの塊が見え、ファロが思わず目を背けた時。
『い……いやだ…………』
かすかに呟いた言葉を最後に、モンドの口から青黒い塊が飛び出した。風船のように膨れた頭部が破裂し、周囲に体液が飛び散る。
『うわあああああ!!』
男達の中から悲鳴が上がった。飛び散ったヒルに体表面にへばりつかれたのだ。
畑を荒らさないよう、密集して移動していた最中であったこと、さらにモンドを助けようと全員が集まってしまったことが災いした。
男達のうち十数人が、ヒルの飛沫を浴びてしまったようだ。
小さいものは数㎝。大きいもので全長数十㎝に達する異形のヒル。男達の体に付いたヒルどもは、不気味に蠢きながら黒い体毛を掻き分けてあっという間に姿を消した。
おそらく皮膚を食い破って体内に侵入しようとしているのだろう。
『くそっ!! 火だ!! あと塩!! 塩を浴びろ!!』
ファロは叫んだ。粘膜質の体表を持つヒルが塩を浴びれば致命的なはずだ。
だが今から火を熾していても間に合わないことは明白だったし、十数mクラスの男達が浴びるほどの量の塩は村にしかない。倉庫へ行けば、山中の岩塩を貯蔵したものが大量にあるのだ。町で換金可能な岩塩は、彼等にとっては食料であると同時に貴重な生活資金源であったが、そんなことを言っている状況ではない。
『仕方ない!! いったん村へ行くぞ!!』
『ダメだ!! ヒルどもが村へ行っちまう!!』
パニックに掻き消されそうになりながらも微かに聞こえた誰かの叫び声。
村の倉庫へは、ほんの百m。だがヒルの群れを連れて戻るわけにはいかなかった。
飛び散った無数のヒルどもは、尺取り虫のように地を移動しながら生命の臭いを正確に嗅ぎ取って女達の居る集落の方へ向かっている。
『このままじゃあ……』
間違っても村へヒルを行かせるわけにはいかない。
どうしたら……そう思った瞬間、周囲の畑が爆発し、激しく土砂を巻き上げた。
『な……何が起きた!?』
『軍のヘリだ!! 見つかっちまったらしい!!』
遠距離攻撃用の小型ミサイルの着弾であった。
男達は走り出した。ある者は森へ逃げ込もうと、またある者は集落へ戻ろうとしている。
『ダメだ!! ヒルが森に散っちまう!! 村はもっとダメだ!!』
ヒルを殲滅する方法があるとすると、ただひとつ。
ファロは覚悟を決めて全員に向かって言った。
『ヒルを浴びたヤツ。俺について来い!! 助けてやる!! 浴びてないヤツはすぐに崖を降りるんだ!!』
そして尖った岩肌に自分の腕を叩き付けた。岩肌は大きく抉られ、裂けた二の腕から流れ出した血が地面に滴り落ちる。周囲に散り、あるいは村へ向かおうとしていた巨大ヒルの群れは、新鮮な血の臭いに惹かれたのか、一斉にファロの方へと這い寄り始めた。
そのスピードは驚くほど早い。
ファロは一定間隔で血を滴らせながら、山中を駆けた。
巨大な彼等にとってその距離はほんの十数分のはずだったが、飛び散ったヒルを引き寄せるため、ファロはわざとゆっくり走った。
血の臭いを追うヒルの群れ。それを避けるように走る巨大な獲猿達。
一時間ほどの後、急に視界が開けて、男達は漸く自分たちがどこへ誘導されていたのかを知った。
太陽光を反射してきらめく、限りなく透明な水。それなのに底が見えないほど深く、蒼い。彼等、獲猿の一族が生を終えた時、永遠に眠るべき場所。
『命の……泉…………』
一人がそう呟く。彼の顔は膨れあがり、すでに体内からヒルに食い破られそうである。
ヒルによる麻酔効果で、痛みも苦痛も感じていないらしいのが却って不気味だ。
それにしてもそこまで至る繁殖スピードは尋常ではない。突然変異を繰り返したせいか、獲猿の巨大なバイオマスに対応したせいかは分からないが、ヒルの増殖速度が上がっているのは事実であった。
『騙してすまん。皆、泉へ飛び込んでくれ。それしか村を……いや、この森を守る方法はない。後で俺も必ず行く』
どういう原理なのかは、ファロも知らなかった。だが、どれほど巨大な獲猿であろうとも、遺体を投げ込めば翌日には骨も残らない死の泉。そこへ飛び込むという意味を知らない者はいない。
『いや、ファロ。あんたは来るな。村に必要だ』
言い置いてさっさと飛び込んだのは、赤毛の獲猿だった。
『レッチ!!』
激しい水飛沫が上がり、白い泡がレッチの体を包み込んだ。
ほんの数秒。視界からレッチが消えたのは、ただそれくらいの時間だったはずだ。
だが泡が消えた時、レッチの姿はどこにもなかった。彼が飛び込む前と寸分変わらないどこまでも透明な、蒼く深い水を湛えて、泉は静まりかえっていた。
『後のことは頼む。お前は死ぬな』
『インファ!! ゾル!! ゲル!!』
ファロは彼等の名を叫んだ。一族を、身内を守るために何も言わず次々に飛び込んだ男達の名。ファロは泉を臨む崖に跪き、滂沱と涙を流しながら叫び続けた。
同じように白い泡が彼等を包み、ほんの数秒でその姿は掻き消されたように見えなくなっていった。
『ファロおじさん!!』
突然声を掛けられ、驚いて振り向いたファロはそこにジャンとマリーの姿を見つけて、目を丸くした。予想もしなかった相手である。こんな危険な場所に来ていい二人ではない。
『何故ついてきた!? お前達が来てしまったら何にもならないだろう!?』
ファロは大きく長い囀りで問い質した。彼等の怒りの表現である。
だが彼を見上げるジャンは、ふらつくマリーを支えながら悲しげに首を振った。
『村の中にもヒルが入り込んでいたの。ファロ。あなたと同じやり方で、私たちが引っ張ってきたのよ』
そう言うマリーの右腕からは、真っ赤な血が滴っている。
モンドから飛び散ったヒルの一部が集落に入り込んでしまったのだろう。マリーは自分を傷つけ、その血でヒルをおびき寄せてここまで来たのだ。
『馬鹿な……なんでお前達が……』
ファロは二人を見つめて絶句した。
ジャンは傷ついた母を支えてここまで来てしまったのだろう。だが、村には小柄な男もいたはずだ。よりにもよって何故、幼いジャンとその母がこんな役目を背負わねばならなかったのか。
『誰かがやらなきゃいけないことなら、自分がやる。それで他の誰かが傷つかないで済むなら、それが一番なんだって……パパが言っていたよ』
ジャンの横で哀しげに頷くマリーの顔にも覚悟の色が浮かんでいた。
『マリー……いい……ご主人に巡り会えたんだな』
だが、ならば尚更この二人を死なせるわけにはいかない。
ヒルどもを道連れに死ぬにしても、自分一人でやらねばならない。
連れてきた男達は、既にすべて泉に姿を消した。だが、ヒルの脅威をこの森から消し去るためには、背後に迫る無数のヒル達を泉に突き落とす必要があった。
だが、ファロの策は尽きていた。こうなれば自分自身にすべてのヒルを寄生させ、体が弾ける前に泉に身を投げるしかない。と覚悟を決めた時、空気を叩く規則正しい音が近づいてきた。先ほどこちらへ向かって飛び立った、軍のヘリのローター音である。
樹高二十m近い森林を移動してきたため、一時ファロ達を見失っていたようだが、ついに発見されたのだ。
『くそっ!! 見つかっちまったか……』
万事休すであった。
*** *** *** *** ***
「み……見てくだせえ大隊長さん!! あの怪物ども、獲猿だ!! ヒルもいる!!」
証言者としてヘリに無理矢理乗り込んだリャンが指さすまでもない。
遠目にも蒼く美しい泉の畔。そのすぐ脇の崖の上に、黒褐色の体毛に覆われた一頭の巨大な獲猿の姿がある。体長は十五mくらいであろうか。
その周囲には、波を打つように集合しつつあるヒルの大群が上空からでも観察できた。
一頭? とチェンは首を傾げた。
先ほどのロケット弾で倒せたのだろうか? 村近くでは数頭いるように見えたが、今はその一頭だけのように見える。だがあの場所は密林に囲まれ、決して見晴らしのいい場所ではない。周囲に隠れているとすると厄介だ。
チェンは眉をひそめたが、巨大な獲猿の足元に女性と子供とおぼしき人影を見て叫んだ。
「全部隊に通達!! 巨獣確認!! 即時攻撃開始!! ヤツの足元に女性と子供がいる!! ミサイルではなく重機銃を使え!! なお昨夜町を襲ったヒルもいる!! 地上部隊の降下も急がせろ!!」
ファロを取り囲んだ六機のヘリコプターから重機銃が発射された。
ファロの周囲の地面の土と岩を跳ね上げ、重機銃の弾丸が迫る。
『危ない!!』
ファロはジャンとマリーに覆い被さった。
黒褐色の体毛が密生した背中に容赦なく銃撃が加えられていく。体毛を抉り、血肉を弾けさせて着弾した機銃弾は、ファロの体を容易に貫いた。獲猿は、なんら特殊な能力を持たない、ただ大きいだけの人間なのだ。
銃弾を防ぐ甲羅も、強靱な皮膚も、迎え撃つ武器もない。
だがその体躯を支える丈夫な骨と筋肉が、なんとか機銃の勢いを殺したことで、ジャンとマリーに銃弾が達することはなかった。
『良かった……』
自分を見上げるマリーとジャンに怪我がないことを見て取ったファロはそれだけ呟くと、ゆっくりと倒れていった。二人を避けるように崖側に倒れ込んだファロの体は、そのまま泉へと吸い込まれていく。
『ファロ!!』
『おじさん!!』
二人は崖の上から乗り出し、ファロを呼んだ。だが、一際大きな水飛沫を上げて泉に落ちたファロの姿は、湖面を覆い尽くす白い泡が消えた時はもうどこにもなかった。
抱き合って座り込む二人の周囲に、ヒルが集まりつつあった。
周囲には夥しい量のファロの血が飛び散り、それを求めて周囲の林に隠れていたヒル達も姿を見せ始めたのだ。そして、渦を巻くようにしながら集合体を形成し始める。
大量の人間を生け贄にした昨夜とは違って、今度の集合体はかなり小さい。それでも直径十m程度の饅頭型の集合体となったヒル達は、ジャンとマリーの呼吸を感じたのか、いよいよこちらに触手を伸ばそうとしていた。
ヒルの集合体の一部が、まるで全体で一つの意志を持つかのように細く伸ばした先端でマリーに触れようとした刹那。
密林から真っ赤な炎が延びて、ヒルの集合体を包み込んだ。
火炎放射器を構えて現れたのは、人民解放軍の戦闘服を着た数人の兵士であった。対巨獣戦装備としては一般的な火炎放射器は、このヒルの集合体にはもっとも効果的な武器といえた。
「大丈夫か!? やっぱり君達は……シャンモン閣下のご家族だね?」
兵士達に続いて藪を掻き分けて現れたのは、大隊長のチェンであった。
見知った顔に、二人の表情に安堵の色が浮かぶ。
「は……はい」
言葉を喋れないマリーに代わってジャンが答えた。
「いったい、あの巨獣はどこに消えたんだ!? 泉に落ちたところまでは見ていたのだが……」
「そ……それは……」
ジャンは言いよどんだ。つまり、この人達がファロおじさんを殺したのだ。
憎い気持ちはある。しかし、彼等は獲猿の一族のことは何も知らない。ただ、自分たちを助けてくれようとしただけなのだ。悪意のないチェンの目を見て複雑な思いに駆られ、ジャンは目を伏せる。
マリーは何も言わず、その肩をそっと抱いた。
『キュヒイイイイイイィィィィ』
直径十mの青黒い饅頭に数本の火炎の筋がまとわりつき、炎上させてゆく。
燃え上がるゲル化油がヒルの集合体にまとわりつき、変形して逃れようとすればするほど燃える表面積を増やしていく。
火炎放射を受けてほんの数分。
昨夜と同じような空気を裂く悲鳴を上げて、ヒルの集合体「ゼイラニカ」は燃え尽きようとしていた。
これで漸く終わったのだろうか。だが、あまりに犠牲は大きかった。これで、獲猿の村は、人口の半分以上を失ったことになるのだ。マリーもジャンもうなだれ、泉の水面を見つめた。
「お前達!? お前達親子が来なけりゃあ、こんな事にはならなかったんだ!!」
その時、突然藪の中から現れた一人の男が、マリーの服を掴んで引き摺り上げた。
あの町の商店主、リャンだ。
リャンは憎しみに燃える目でマリーを睨み付け、その頬をいきなり平手で打った。
「な……貴様。女性に対して無礼だぞ!! ヘリで待機していろと言ったはずなのに!!」
チェンが怒りの声を上げた。
「隊長さん!! コイツらが獲猿とヒルを連れてきたんだ!! やっつけて何が悪いって言うんです!?」
「だからそれは何かの間違いだ!! それに、女性に手をあげるのが許されるものか!!」
チェンはリャンをマリーから引き剥がすと、その顔を思い切り殴った。
後ろに弾け飛んだリャンを見て、チェンの顔が蒼くなる。チェンは学生時代、アマチュアボクシングの選手だったのだ。今のパンチの入り方、相手の倒れ方、もしかすると大怪我をさせてしまったかも知れない。
「す……すまない。ちょっと力が入りすぎてしまった……」
だが、リャンは尻についた土を払うと、平気な顔で立ち上がった。
「え? 別に痛くありませんが?」
「馬鹿な!? 今の手応えは確かに……」
次の瞬間。
呆気にとられた表情のチェンを見つめ返すリャンの顔がぐにゃり、と歪んだ。
表情が変わったのではない。まるで粘土細工の顔を見えない手で握りつぶしたように変形したのだ。
『ダメ!! 離れて!!』
しかしマリーの叫びは囀り言語を聞き取れないチェンには、意味が通じなかった。
「ぶしゅ」
ガスか何かが漏れるような気の抜けた音を立てて、リャンの体からヒルの群れが飛び散った。全身にヒルを無数にかぶったチェンは、悲鳴を上げてそれを振り払った。
「う……うわぁ!! なんだこれは!?」
飛び散ったヒル達は火炎放射器を構えた兵士達にも取り付いた。町の惨状を見、リャンの壮絶な死に様を見た兵士達は、パニックに陥った。慌てた一人の兵士が火炎放射器の炎を仲間に向けたことで、パニックは更に広がっていく。
炎上する仲間を助けようとして、ヒルの群れの中に転倒する兵士。
炎から逃げようと泉に転落する兵士。
そこに襲いかかる数㎝から数十㎝のヒルの群れ。
混乱した部隊は、自滅の一途をたどり始めた。
ここにいる人数はそう多くない。とはいえ彼等のすべてがヒルの栄養源となれば、また十mクラスのヒルの集合体=巨獣ゼイラニカが生まれることになる。そうなれば、獲猿の村はもとより、この地域の生き物すべてを食らって更に巨大化していくだろう。
ちょうどその時、ヘリの方でも混乱が起き始めていた。
「チェン隊長!! 町に残した部隊が……全滅したとの報告です!!」
「何!? どういうことだ!?」
「ヒルです!! ヒルの群れがまた町を……」
ヒルに寄生され吸血されてよろめきながら、なお怒声を発したチェンは唇を噛んだ。
これでは何をしに来たか分からない。
炎で焼き尽くされ、いったん全滅したかに見えたヒルの群れが下水溝から現れて再び人々を襲い始めていたのだ。
対処しようにも、獲猿退治のために虎の子の火炎放射器はすべて持ってきてしまっていた。数十㎞離れて二カ所同時に巨大化しつつあるヒルの群れ。
絶望的な瞳で座り込んでいたマリーが、ふらりと立ち上がった。
『もう……龍王様にすがるしかない……』
母の呟きを聞きつけたジャンが、脅えた目を向ける。
『龍王様?』
『泉に強い願いを持って飛び込むの。すると、龍王様が現れて願いを叶えてくださる……』
『ダメだよそんなの……伝説じゃないか……』
『いいえ。お母さんは子供の頃、一度だけ見たことがあるの。泉に飛び込んだのは私のお母さん。あなたのお婆ちゃんよ。龍王様はその時、稲妻で崖崩れを吹き飛ばしてくださったわ……』
『それじゃあ……』
『お母さんが、泉に飛び込むわ。あなたは、お父さんに何があったか説明しなくちゃ……ね』
寂しげに微笑むマリーの胸にジャンは飛び込んだ。
『ダメだよ!! 死んじゃう……お母さんが死んじゃう……』
その時、倒れ伏していたリャンが糸に操られた人形のように立ち上がった。
「ひゃは……お前ら親子が……悪いん…………」
人としての姿を失ったリャンが、変形した頭部をこちらへ向ける。
そして、言葉を発せなくなった顔をこちらに向けたまま、完全に溶け崩れた下半身でずるずると二人に迫ってきた。
生前の妄執が張り付いたリャンの顔は、何故か少し笑っているように見えた。
「逃げるんだ。二人とも!!」
チェンが叫んだ。
だが、彼自身が伸ばしたその腕も、ヒルに内部から変形させられつつあった。
武器もなく、逃げ道もない。誰も何も出来ないまま、リャンであった「もの」はマリーとジャンに覆い被さっていった。
『リルルルルルル!!』
マリーの口から囀りの悲鳴がほとばしったその刹那。チェンは何かが軋む音を聞いた。
「崖が……」
十数人におよぶ獲猿たちの重さ。そして先ほどの重機銃による激しい銃撃とヒルの重量に耐えかねて、崖に亀裂が入っていたのだ。
崖は一瞬で崩れ落ちた。
チェンの立っている位置から、ほんの一m先の地面。それが、まるでスローモーションのように、岩塊となって泉に吸い込まれていく。その中で、チェンは確かに、マリーとジャンがこちらを向いて微笑むのを見た。
その二人を今まさに取り込もうとうねる、リャンだった「もの」。周囲に横たわり蠢く、部下達だった「もの」。
それらすべてが、水面に接触した瞬間、白く泡立った泉の水に丸ごと押し包まれるのを見た。
そして白い泡が消えた時、そこに広がっていたのは何事もなかったように静まりかえる、どこまでも透明な泉だけであった。
「ちくしょおおおお!!」
全滅した部隊。いまだ周囲でうねり続けるヒルの群れ。
ただ一人取り残されたチェンには、もう何をする術も残されていなかった。