8-2 囀りの夜
「ほう……軍の方々ですか。こんな奥地まで、一体何のご用ですか?」
十戸ほどある民家のうち、もっとも大きな家を訪ねたシャンモン達は、白髪の老人に出迎えられていた。後ろで束ねた長い髪も、顔の半分を覆う髭も真っ白な、老人の表情はわかりにくい。
しかし、そのわずかに見せる表情からも、先ほどの女性と同様彫りの深い顔立ちが窺える。西方の血を濃く継ぐように見えるこの顔立ちは、この集落の特徴のようだった。
それにしても大きな老人だ。百八十センチあるシャンモンより、少し高いかも知れない。
腰が曲がっていなければ二m近くあるのではないか、と思った。
そういえば先ほどの女性も、女性にしては大柄だったようだ。
それも、民族の特徴なのだろう。もしかすると欧米の方の血も入っているのかも知れない。そう裡で思いながらシャンモンは言葉を返した。
「この先の集落に巨獣が出た、との通報がありまして。我々にお呼びがかかったのです。村長はご存じありませんか?」
「巨獣? 巨獣とはいったい何なのです?」
「え? 巨獣のことを、ご存じないのですか?」
「はい。そのような言葉、聞いたことがございません」
「巨獣とは……普通ではないサイズの生物を指して言います。数mのものから百mを越えるものまで確認されています。まあ、一口に言えば、遺伝子工学の事故で生み出されたバケモノで……たしかに、ここはそういったものとは無縁かも知れませんね」
「ほほう……そのような生物がこのあたりに?」
「このあたりだけではありません。数ヶ月前から世界各地で現れ始め、現在も数十個体が世界中に潜み、また暴れ回り、人類の脅威となっているのです」
「それは剣呑ですな。ですが、おわかりのようにこの周辺にはそのような生物はいません。どうかお引き取り願いたい」
「いえ。ここに近い集落で、実際に被害が出ているのです。何か巨大な生物がいる事に間違いはありません。
その生物を捕獲、もしくは殲滅するまでは、我々も帰るわけにはいかないのです。少なくとも調査が終わるまで、この村に数日、滞在させていただきたい」
「そうですか。どうしても……とおっしゃるなら、仕方ありません。
この私の家をご提供しましょう。今は家族はおりませんし、部隊の方、全員でも狭くはないはずです……ただ……」
「……ただ?」
「他の家々には、決して足を踏み入れないでいただきたい。
この村には客人を忌む風習がありましてな。どうかお願いします」
「分かりました。我々もあなた方の生活の邪魔をするつもりはありませんから。周辺の調査が済み次第引き上げますので」
シャンモンは村長に軽く会釈すると、そばにいたシン小隊長へと向き直った。
「聞いていたな? こちらのお宅を数日お借りできることになった。それと、聞き込みであっても、他のお宅を訪問しないように徹底させろ」
「はい。では、ここに荷物を運び込ませていただきます」
小隊長は軽く敬礼すると、外へ走り出ていった。
「ところで村長?」
「何でございましょう?」
「畑を見たところ、今年は大変な冷害のようですね。もし村民の方がお困りなら、支援物資の空輸を本部に打診しますが?」
「これはお気遣い、ありがとうございます。しかし、このような事もあろうかと保存食料を十分に確保してありますので……」
「そうですか。しかし、保存食は使わないに越したことはない。宿泊料代わりです。小麦粉と米、缶詰など基本的な物ばかりですが、すぐ運ばせましょう」
「あ、いえ、その……ここは気流も視界も悪く……空からは危険ではありますまいか?」
「なに。我が部隊の良い訓練にもなります。おいチェン、通信だ。村民約三十人の食料一ヶ月分、そして我々の食料一週間分をヘリで空輸しろとな」
「了解」
チェンと呼ばれた色黒の通信士は、外の通信機へと向かって足早に去った。
「申し訳ございません」
白髪を地面にすりつけるようにして礼をした村長は、恭しい態度を崩さないまま、自分の娘の嫁ぎ先だという隣家へ、簡単な荷物だけを持って出て行った。
「家の中のものはすべてご自由にお使いください」
村長はそう言って出て行ったものの、電気も通らない山奥のことであるから、軍として使用できるような設備など無いに等しかった。
ただ、たしかにその家は老人の一人暮らしとは思えないほど大きい。いや、梁までの高さが十m近くはありそうに見えるこの屋敷に入ると、まるで自分たちが子供にでもなってしまったかのような錯覚を覚えるほどだった。
この家だけではない。
気候の関係で風通しを良くするためだと村長は説明したが、村にある民家のすべてが、不必要に思えるほど大きな作りである。
さらに、裏手には立派な浴場もあった。
温泉が湧き出ているらしく、中国には珍しく木製の湯船も設置されている。
気候区分では温帯域に入るとはいえ、高温高湿度の密林を丸一日以上行軍してきた小隊には、ありがたい施設といえた。
「シン小隊長。せっかくのご厚意だ。まずは浴場を使わせていただいて汚れを落とすよう、兵達に伝えておいてくれ」
「了解しました」
シャンモンの言葉に、小隊長の真っ黒に汚れた顔から、初めて白い歯がこぼれた。
*** *** *** *** ***
「こういうのを”風流”というのかな……」
ベン=シャンモンは大きく息をつきながら呟いた。
ゆったりと足を伸ばせる風呂に入るなど、生まれて初めての経験だ。
生まれ故郷の上海では、湯船につかるという習慣はない。シャワーは浴びるものの、それも毎日使うというものではない。
学生時代からの日本人の友人がいるが、彼は風呂には毎日入るものだと言っていた。
だが、中国人民がそんな事を始めたら、大陸中の水があっという間に枯渇してしまうだろう。中国の人口は今や十三億を超えているのだ。
水も金も有り余っている日本ならではの習慣だと言って、呆れたものだった。
(だが……日本人の気持ちも分かるな。これは最高の贅沢だ)
露天風呂……という言葉をシャンモンは知らなかったが、裏の森に面して置かれたその湯船は、まさに露天風呂であった。
蒼い満月が中天にかかり、月光がまるで粉雪のように降ってくるような錯覚を覚える。
夜に鳴く鳥だろうか、先ほどから鈴を振るような、また笛の音のような高い音が、森の奥からかすかに聞こえてきている。
しばらくの間、宿営している兵士達の声も聞こえていたが、今は止んでいる。不寝番を残して眠ったのであろう。
どのくらいそうしていただろうか。
ふと、シャンモンの視界の端で山際の木の影が動いたような気がした。
「何だ?」
いや、気のせいではない。
たしかに、木の影だと思っていた黒い塊が、森の縁をゆっくりと移動していた。
(巨獣か?……いや、それにしては……?)
まるで忍び足で歩いているかのようなその影の動きは、シャンモンが何度か見た巨獣の動きとはかなり異なって見えた。
巨獣とは大形化した生物の総称であって、共通の習性や行動パターンがあるわけではない。だが、あくまで巨獣は知能の低い生物のはずだ。影の動きには、どことなく人間くささが感じ取れた。
(確認すべき……だろうな。だが、兵達も疲れてすでに寝ている。起こすほどの事ではないか)
不寝番のいる位置からは、あの場所は死角である。
指揮官が一人で偵察に出るなど、本来ではあり得なかった。
後から考えても、何故そう判断したのかはシャンモン自身にも分からない。
ただ、その時は蒼い月の光に誘われたのか、催眠術にでも掛かったかのように、シャンモンはふらふらと立ち上がった。
湯船をそっと出ると、タオルで体を拭き手早く衣服を身につける。
黒い影はシャンモンが衣服を着る間も森の奥へ向かって、ゆっくりと移動し続けているようだ。
「まずい……見失うぞ」
軍靴を履くのもそこそこに、シャンモンは走り出した。
簡単に結んだ紐がほどけ、足首に当たるが今は気にしていられない。
黒い影の消えた森の辺りに走り込むと、月光が遮られ、周囲は漆黒の闇に閉ざされた。
相手に気づかれたくはないが、これでは歩く事も出来ない。シャンモンは携帯型の懐中電灯を点けた。
(う……これは……足跡か)
やはり錯覚などではなかったようだ。森の下生えや落ち葉が、直径一mほどに踏みしだかれ、それが点々と奥へ続いているのが分かる。
だが、これが日中であれば気づかなかったかも知れないほど、周囲と区別が付けづらい。
月光の淡い光と、色彩を消された木々のコントラストがあって、初めて分かる程度のへこみである。
通常の判断であればそこで引き返し、部隊を呼んでくるべきであっただろう。
だがシャンモンは一人、その足跡を追って歩き出した。
暗い森の中を進んでいくと、少し開けた場所に出た。
だが、その小さな広場には何かたくさんの気配を感じる。なにか作業をしているような雰囲気。人声は聞こえないが……相変わらず聞こえる甲高い小鳥の鳴き声が、どうもその辺りから聞こえてくるようだ。
(こ……これは!!)
木陰からそっと広場の様子をうかがったシャンモンは、思わず声が出そうになるのを口を押さえて止めた。出損ねた声が口の中で破裂しそうになるのを、必死で飲み込むと、もう一度ゆっくりと様子をうかがった。
(人間?……いや、あの大きさは……)
そこには、数十人の人影が月明かりの下で何かをしていた。明かりを全く点けていないのに、誰も躓いたり声を上げたりしていないのが一層不気味だ。
何より、たしかに全員が人間型をしてはいるが、その大きさには驚くほど差があった。
小さな影は一mもないように見える。それは子供かも知れないから不思議と言うほどのことではない。
だが、もっとも大きな影は、樹冠の上にまで頭を出している。
この辺りの標高は高く植物の生長は良いとはいえない場所だが、樹木の高さは平均して十五mはある場所だ。
それ以外にも普通の人間と同じ程度から数mくらいの、様々な大きさの人影? が広場に集まって山のように積まれた何かを分け合っているように見える。
(あ……あれは救援物資か!!)
月光がもっとも強く当たっている部分に、シャンモンは自軍のマークを見つけて息を呑んだ。
救援物資は夕刻届いていた。ヘリが着陸できなかったため、ホバリングしたまま村内の小さな広場に置いたのだ。
だが、かなり困っていそうな割に村民が一人として現れない事を不思議に思っていたのだ。
『男達が山仕事で出払っておりまして……』
積み上げた物資の前に、一人現れてシャンモンに御礼を述べた村長の言葉にも、なんとはなしに違和感を持ってはいたのだ。
(どういう……ことなんだ?)
見つめているうちに、大小の人影はそれぞれ分け前を得て闇の中へと消えていく様子だ。
(まずい……こっちへ来る)
てんでに四方へ散っていった影の中の一つ。
一般の人間と同じくらい……いや少し小さいくらいの人影が、こちらへやってくるのだ。大きな荷物を頭に乗せているその影は、どうやら女性のようだった。
(いや。考えようによってはチャンスだ。これを一人捕まえて事情を聞き出せばいい)
シャンモンは木の影にしゃがむと、影が通り過ぎるのを待った。
他の人影に気取られてはまずい。
この人影がどこへ行くのか、後をつけて目的地を確認してから捕まえる事にしたのだ。
(……いったいどこまで行くんだ?)
人影は山を左に見ながら平坦な森の中を進んでいく。
木々の影から時折出た時、月明かりで照らされた人影は、歩き方といい、ほっそりした体つきといい、間違いなく女性であると思われた。
だが、女性にしては速い。
明かりも点けない山道を、何もない平地を歩くかのように、また積もった落ち葉を踏む音をかさりともさせずに歩いていく。
シャンモンは闇の中で何度も転びそうになりながら、必死で影の後を追った。
だが、ついに引き離されてしまい、姿を見失った。
(しまった……だが、さっきから方向は変わっていない。ここは、このまま同じ方角へ進むしかない)
迷った時にはしゃがんで地面を見渡すと、かすかに足跡らしきものも見て取れた。
それでなんとか後を追い続けるしかない。
どのくらい歩いただろう。
急に森が開けると、目の前には明るく月の光を反射した水面が広がっていた。
まさに輝くような泉である。
月光が水底まで蒼く照らし、そこが恐ろしいほどの透明度を持つことも分かった。
(なんと美しい……素晴らしい場所だな)
そう思いながらふと見ると、泉のほとりに一人の女性が丸い石に腰掛け、水面を眺めていることに気がついた。
シャンモンはその横顔に見覚えがあった。
「君は……」
泉のほとりに佇んでいたのは、昼間、畑から駆け去っていったあの女性であった。
突然、後ろから声を掛けられた女性は、驚いた様子で振り向いた。
「リルルルル……」
女性の口から漏れた声を聞いて、シャンモンは息を呑んだ。
「その声……さっきから聞こえていた……鳥の声じゃなかったのか……」
その時。
足下を小さな震動が抜けていった。規則正しい震動は、少しずつ大きくなっていくようだ。
月光を反射している泉の水面が、細かな波紋で乱されていくのが分かる。
「じ……地震か!?」
思わず身構えたシャンモンの目の前に、木々をかき分けて姿を現したのは、毛むくじゃらの怪物だった。
身長は木々と同じくらい、つまり十mを少し超えたくらいであろうか。
その顔の上半分は、長い黒褐色の毛に覆われてよく分からない。ひしゃげた鼻とまくれた唇、その間からのぞく妙に黄色い歯がハッキリと見えた。
「う……うわあ!!」
あわてて腰に手をやるが、入浴中にそのままやって来たのだ、当然銃など持っていない。
尻餅をついたシャンモンは辺りを見回してようやく、あの女性が、自分より怪物にずっと近い位置にいる事に気づいた。
「き……君!! 逃げるんだ!!」
女性に駆け寄ると、その手を握り、走り出した。
森に駆け込むと、そのまま自分が来たと思われる方へ必死で駆けた。幸いにも先ほどの怪物は追いかけてくる様子はない。
「け……怪我はないか?」
シャンモンは大きく息をついてそう言ったが、女性はきょとんとした顔である。
「リルルルルルル……」
甲高く美しい、小鳥のさえずりのような声が、また女性の口から発せられた。
女性は、ふと首を傾げるとシャンモンの腕をとった。そこには大きな擦り傷が出来、そこから血が滴っている。
「あ、いやこれは……大したことないんだ」
「リルッ」
短く声を発した女性は大きく首を振ると、袂から白い布きれを取り出して、手早く止血を始めた。
「あ……ありがとう。その……君は……言葉を喋れないのか?」
少し照れた様子で見つめるシャンモンの目の前で、突然、女性は微笑んだ。
月明かりの下とはいえ、ほとんど暗闇に近い森の中で、その微笑みは辺りを明るく照らしたかのように、シャンモンには思えた。
美しい、というだけであれば、都会に行けば様々なタイプの美女がいるだろう。しかし、生命の根源の輝きを放つような、こんな笑顔を見せてくれる女性には、シャンモンは出会った事がなかった。
「……!!」
シャンモンは思わず女性を引き寄せ、抱きすくめた。
そのいきなりの行動に、女性がまた軽く小鳥のさえずりのような声を上げた。
声を聞いて一瞬、我に返ったシャンモンは、しかし拒否もせずに抱き返してきた女性の細い腕の力を感じ、更に強く抱きしめていった。