2-4 深海の恋
明がこの研究所に来てから、すでに2週間が過ぎようとしていた。
「今日って、明君の誕生日なんやってね?」
その日、紀久子は目を輝かせながら明に聞いてきた。最近、紀久子は端々に京言葉を使う。次第に明に心を開き始めているのかも知れなかった。
「な……なんでそれを、知っているんです?」
「えへへ。伏見先生に聞いちゃった」
「まさか、海底で二十歳を迎えるとは、思いもしませんでしたけどね」
いたずらっぽい表情で微笑む紀久子の顔が眩しすぎて、明はわざと目を伏せながら答えた。
「で、ね。こんなの作ってみたんやけど……」
紀久子が不自然に後ろに回していた手を前に出すと、そこには白と黒の奇妙な物体が乗った皿があった。
丸くととのえられた白い台に、黒いペースト状のものがごちゃっと塗りつけられ、その上にはクッキーやイチゴでデコレーションされている。
「こ……これって??」
「えっと……ほんまはケーキ作ろうと思ったんやけど……こんな海底やから、材料も足りないしオーブンもなかったの、それで……」
「あ! これ、あんこですか?」
「うん。あの……おはぎをケーキ風に飾り付けしてみたんやけど……」
明は思わず笑い出した。見れば見るほど、おはぎで丁寧に作られたケーキは可愛らしく、純朴そうで和風な紀久子のイメージにピッタリだったからだ。
「……そんなにおかしい?」
紀久子は、口をとがらせて、少し不満そうに、笑い続ける明を見ている。
「いいえ、うれしいんです。本当にありがとうございます。こんなうれしい誕生日は、生まれて初めてかも知れません」
母は物心ついた時には、すでにガンに蝕まれ、闘病生活に入っていた。父は自身の研究のためというよりは、母の病気のために細胞学の研究を続けてきたこともあって帰宅はいつも深夜だったし、帰ってこないこともしばしばだった。
もちろん、両親は自分を愛してくれていたと思う。だが、そう思うからこそ、尚更、わがままは言えなかった。
一人っ子の明は、きちんと誕生日を祝ってもらったことは一度もなかったのだ。
「そんな。明君、それはおおげさだよ……」
笑いながら言いかけた紀久子は、明の目に光るものを見つけて言葉を切った。
慌てて目を逸らし、次の言葉を探す。
「そ……そうそう、いずもちゃんも呼んであげようか? 今日、彼女非番だから……」
「いえ、せっかくお休みなのに、お呼びだてしてはマズイですよ……その……」
「え?」
(ぼくは、あなたがいれば、それで充分なんです。)
怪訝そうに聞き返す紀久子の、大きな目を見返しながら、その言葉はどうしても口に出せず、明は微笑むしかできなかった。
「そ……そうそう、お父さん……伏見先生も、明君に会いたがっていたんやよ」
紀久子は少し焦ったように目をそらすと、急に話題を変えた。
「でもごめんなさい。二人を一緒にすると、相互に影響を与え合う可能性があるって……あ、これは伏見先生自身のご意見なんやけど……」
「あの……父は、元気ですか?」
「うん、お元気だよ。結論を出すにはまだ少し時間が掛かるだろうけど、今のまま状態が落ち着いていれば、一ヶ月くらいで普通の生活に戻れるかも知れないって」
「…………そうですか」
明は少し顔を曇らせて目を伏せた。
一ヶ月というと、あと二週間くらいか。地上に帰ってしまえば、紀久子には二度と会えないかも知れない。
紀久子はそんな明の表情を、父に会えない寂しさと受け取ったようだ。わたわたと手を振ると、気分をなんとか紛らわせようとしてか、また話題を元に戻した。
「あ……あのね。いずもちゃん、私も知ってる研究員の人に、しつっこく食事誘われてたよ。明君、もう少し積極的に動かなきゃダメだよ」
「ええ? そうなんですか? そりゃ、まいったなあ」
「なに笑ってんの? ダメだよそんなんじゃ……」
明は少し困ったふりをしたつもりだが、どうしても笑ってしまう。
だが実際のところ、いずものことは何とも思ってはいないのだからしょうがない。紀久子がこうして世話を焼いてくれる状態が嬉しいのだ。胸が熱くなるのを感じて、幸せそうな笑みしか湧いてこない。
それを余裕と見て取ったのか、紀久子は口を尖らせた。
「だから、なかなか相手にしてもらえないんだよ」
「すみません。そうそう、でも……その……松尾さんは誰かに誘われたりしないんですか?」
その途端、紀久子は顔を赤くして黙り込んだ。
明は「しまった」と裡で舌打ちをした。会話に織り交ぜてさりげなく探りを入れたつもりだったが、地雷を踏んでしまったらしい。
「す……すみません。悪いこと聞いちゃいましたか?」
「……どうして?」
「え?」
「どうして、そんなこと聞くんですか?」
紀久子の目は、まっすぐ明を見つめていた。
(それは……ぼくが、松尾さんのことを好きだから……)
明は、のど元まで出かかった言葉をのみこんで、できるだけ明るく微笑んだ。
何かは分からないが、紀久子の心に刺さった小さな棘のようなものに触れてしまったのだ。もしかすると告白すべきタイミングなのかも知れない。だが、そんなことをして、彼女の心の傷を深める結果になるのは望むところではなかった。
「そ……そりゃあ、松尾さんだってそういう事あるのかなって、そう思っただけですよ」
言葉はしどろもどろ。我ながら苦しい言い訳だと思った。が、目を伏せて考え込むような素振りの紀久子は、それに気づく様子はない。
「そう……ですか」
うつむく表情は少し寂しげだったが、明はほっと胸をなで下ろした。
自分がG細胞の影響下にあり、今後どうなるか分からないということもある。だが一番に思うのはやはり、紀久子を傷つけたくないということだった。
いずものことを好きだと思いこんで、世話好きのお姉さん気取りで色々と気をつかってくれる紀久子と話すうち、明は彼女をますます好きになっていた。
だが、おそらく今の関係だからこそ、無防備に心を開いてくれているのであろう事も理解していた。
今さら、本当に自分の好きなのは紀久子だ、などとは言えないし、それを知って傷つく姿を見るくらいなら……紀久子の笑顔を見られなくなるくらいなら、自分の思いなど永遠に押し殺しておけばいい。
明はそう思った。
「私ね。明君のこと、大好きだよ。」
いきなり紀久子に言われて、明は心臓が止まるほど驚いた。
「なんか明君といると、うちの弟を思い出すの。最近、会っていないからかな。昔はケンカばかりしてたけど……」
「へ……へえ、そうなんですか?」
「うん。でも明君はうちの弟より年下やけど、なんかずっと大人っぽく感じるなあ」
「ま、そりゃあ、何度か死にかけてますからね。少しは人間的に成長しなきゃ……」
そう冗談めかして言いかけた明は、急に変わった紀久子の表情を見て口をつぐんだ。
口をへの字に曲げ、厳しい目で明を睨んでいる。初めて見る怒りの表情だ。
「そんなこと、冗談っぽく言っちゃだめだよ。どんなにお父さん……伏見先生が心配してらっしゃったと思うの?」
「……すみません」
明は、軽口を叩いてしまった自分を恥じた。静かにたしなめる紀久子は、やはり手の届かない年上の大人の女性であると思う。
そしてそれ以上に、むき出しの優しさに触れた気がして、胸に熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
「ううん……私こそ、ごめん。怒ったりするつもりはなかったんやけど……」
いつも通り柔らかく微笑んだ紀久子の顔には、先ほどの怒りの表情は微塵も残ってはいない。
「いいんです。そんなに真剣に怒ってくれて……むしろ、御礼を言わなくちゃ。ありがとうございます……」
少しだけ気まずい沈黙が流れた。
「あの……」
「えっと……」
二人は同時に話し出そうとして、顔を見合わせた。
「あ、松尾さんからどうぞ」
「いえ、明君から……」
「じゃあ……その……今日は、ありがとうございました。松尾さんの誕生日もお祝いさせて欲しいから、教えてもらえますか?」
「あ……はい。あの、九月九日……なの」
「へえ、じゃあ、まだ半年以上先ですね。」
「あの……あのね、私、名前もそれでつけられてしもうたんやよ」
少し拗ねたような表情をしながら、紀久子が言う。
「え?」
「九月九日は重陽の節句っていって、昔から菊の花を飾るんやって」
「ああ、だから紀久子さん……か」
言ってしまってから、明は初めて紀久子の名前を呼んだことに気づいて、耳まで赤くなった。しかし、当の紀久子は、何も気づかず微笑んでいる。
「そうなの。父がつけたんやけど、ほんま、いい加減なんやから」
「あ、あの、それで松尾さんの言いかけていたのは、何だったんですか?」
「えっと……今度はいずもちゃん連れてくるから、元気……出してねって」
明は微笑んだ。紀久子はいつもそうだ。
自分だからではない。いつも、こうして他人を思いやれる人なのだ。
「僕は元気ですよ」
「うん。元気そうやわ」
二人は顔を見合わせて、もう一度笑った。