6-2 傷心
「へー。じゃあ、高千穂さんって研究室の先輩だったんですか?」
「うん。すごく気遣いがあって、優しくて、いい人やなって思ってたら、告白されて……つき合うようになったの」
食堂のテラスに集った五人は、昼食にしては長い時間、そのテーブルを占拠し続けている。いわゆる、ちょっとした女子会のノリである。
先程から、紀久子の婚約者である高千穂守里の話になっていた。珠夢に興味津々といった様子で質問攻めにされている紀久子は、照れながらも生真面目に答えている。
「それって、最初っから下心があったんじゃないの?」
アスカが、クスクス笑いながら少し意地悪そうに紀久子を見た。
「そんなことないよ! 結構、誰にでも優しいとこあるし……誤解されることもあるけど、きちんと自分を持って生きていて、尊敬できる人なんやから!!」
少しむきになって言い返した紀久子に、アスカは謝りながら顔の前で手を振った。
「ああ、ゴメンゴメン。そういうつもりで言ったんじゃないんだ。
でもまあ、男ってのは二通りいてさ。好きな女の前で、本来の自分以上の良さを見せられるヤツと、逆に萎縮したり空回りしたりして、本来の自分を出せなくて自滅するヤツと……ね。
まあ、うまく見せられるヤツだって長年つき合えばぼろが出る。松尾さんが長年つき合って、婚約までしたんだから、もちろんいい男なんだってのは分かってるさ」
「ふーん。なるほどなるほど」
珠夢は目を輝かせながら、アスカの話に聞き入っている。
「だけどまあ、自滅するタイプだって学習くらいする。
何人かに振られりゃあ、好きな女の前で自分を出せるように学んでいくモンなんだけどね……厄介なのは一途すぎるバカだよ。吹っ切って女性経験積みゃあいいのに、一人に固執して悶々としてやがって、それじゃあ一歩間違うとストーカーなんだけどね」
「へえ? それって……誰のこと?」
「え?……あ……いやまあ……一般論だよ、一般論。」
きょとんとした顔のマイカに突っ込まれ、アスカは急に勢いを無くして言葉を切った。
少々気まずい空気が流れ、沈黙が数十秒、その場を支配した。
「そそ……そういえば、伏見明君って、今どこにいるか知らない?」
気まずい沈黙に耐えかねて口火を切ったのは、いずもだった。
しかし、別な話題を探そうと頭を巡らせていたアスカは、ど真ん中の話題を振られて飲みかけのコーヒーを吐き出しそうになった。
「あ、明さんなら、八幡先生の臨時ラボで精密検査中ですって。でも、午後には一般病室に帰ってくるらしいですよ」
年上に囲まれて一杯一杯の珠夢は、そんなことはまったく意に介さず、屈託無く返事をした。
「あ、そうや。そういえば明君って、ずっといずもちゃんのこと、気になってたみたいなんやよ? 戻ってきたら、お見舞いに行ってあげなよ!」
しかし、その紀久子の台詞を聞いた珠夢は、さすがに呆れ顔で見つめ返した。
「あれ? 何? 私なんか変なこと言った?」
「えーと……紀久子さんって、松尾紀久子さん……ですよね?」
「そうよ? 当たり前じゃない」
「……明さん、かわいそう」
珠夢は、紀久子を責めるように軽く睨んだ。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「何? 何? 珠夢ちゃん、何言ってるの? だって明君がいずもちゃんのことを気にしてたのは本当だし……」
紀久子は曖昧な笑顔を浮かべながら、必死で取り繕おうとしている。
アスカは軽くため息をつくと、そんな紀久子の肩に手を置いて微笑み、優しく言った。
「ん……まぁ、この話、やめとこうよ。そろそろお昼時も終わりだし……あたし、ちょっとチームメイトの見舞いに行ってくる」
「まどかさんの所? だったら、あたしも行くわ」
アスカとマイカは連れだって立ち上がり、さっさと食堂を出て行った。
それを見送りつつ、いずもも、申し訳なさそうに口を開いた。
「私も、サンとカイの世話があるから行くね。明君のお見舞いは、また考えておく。おキクさんは、もう体大丈夫なんでしょ?」
「うん……でもしばらくは本部内にいなきゃいけないみたい」
「へえ。見た目どこも問題無さそうだけど、どこか悪いとこあるの?」
いずもに聞かれて、紀久子は大きくかぶりを振った。
「ううん。昨日、精密検査を終えたばかりなんだけど、ビックリするくらいどこも悪いところ無いんだって」
「よかったじゃん。じゃあ、休養が明けたらサンとカイのところへ来てあげて。きっと喜ぶよ。私もう、本当に行くね。体、大事にしてね」
そう言うと、いずもは自分の顔の近くで手を小さく振って立ち去っていった。
いずもの姿が見えなくなると、先程から一人俯いていた珠夢も、紀久子と目を合わせないまま立ち上がった。
「私も……お兄ちゃん達と約束があるんで、もう行きます。
…………でも……紀久子さん。明さんの好きな人は、いずもさんじゃありません。私、それだけしか言えないけど……せめて、もう明さんを傷つけないであげて下さい」
そう言ってぺこりと頭を下げ、足早に立ち去る珠夢を、紀久子は呆然と見送った。
食堂のテラスに一人取り残された紀久子は、大きくため息をつくと頬に手を当てて俯いた。そして、そのままの姿勢で長い間なにか考え込んでいたが、急に何かを振り切ったように自分の頬を両手で叩いて立ち上がった。
「よしっ!!」
小さな声で一言だけ言うと、さっさと自分達の使ったテーブルを拭き、食べ終わったトレーを片付けると、勢いよく食堂から出て行った。
*** *** *** *** ***
「君は……いったい何をしたんだね?」
白い壁に白いカーテン。
部屋の隅に置かれた簡易ベッド。
臨時に作られたもののようではあったが、病院の診察室のようなその部屋で、磁気共鳴画像装置(MRI)の出力画面を見ながら、八幡に厳しい表情で詰め寄られているのは、伏見明だった。
「何のことです?」
「とぼけないでくれ。一度、シュラインに完全に取り込まれ、昆虫細胞まで植え付けられたはずの松尾君が、組織検査の結果を見ても何の問題もない。ほぼ普通の人間だ。……なぜだ? それに……この胸の中の丸いもの。これは何だ?」
先程から、のらりくらりと返事をしながら、追求を躱していた明だったが、ついに重い口を開いた。
「……そうまでおっしゃるなら仕方ない。言いますよ。
彼女の体内に、僕の合成したマクロファージと特殊小胞体を常駐させたんです」
「なんだと!?」
八幡はぽかんとした顔で返した。
その言葉の意味が分からないのではない。明の口から出てきたのが、まるで予想もしなかった答えだったからだ。
「昆虫細胞と人間の細胞は、そもそもまるで違う。
どんな条件を整えようと、そんなものがいきなり細胞融合したりはしないはずです。考えられるのは、細胞自体の貪食作用を利用した、共生細胞。つまり、松尾さんの正常な細胞の中にシュラインや昆虫の細胞が、そのまま侵入して定着している状態です」
明は、八幡と目を合わせないまま、ぼそぼそした声で説明を始めた。
「そこまでは、私も推測できた。だが、そうなってしまえば簡単に取り除けるものじゃないはずだ」
「まあそうです。異種細胞とはいえ、おそらく免疫システムを働かせないように進化しているでしょうし、相手は細菌じゃないですから、抗生物質や薬品は効かない。
でも……選択的に異種細胞を取り込んで消化する特殊な滑面小胞体を生産するシステムを、体内に常駐させることが出来れば、細胞内に侵入しているシュライン細胞をすべて消化できる……そう思ったんです」
健康な細胞であっても、この滑面小胞体と呼ばれるものは存在する。
自食作用と呼ばれるこのプロセスは、老化したり劣化したりした細胞内オルガネラを包み込んで消化するものであるが、細胞内にまで入り込んだ異種細胞そのものを取り込み消化するなどという話は、八幡も聞いたことがなかった。
「かなりな知識だな。そういえば君は生物学科志望だったか。
だが、ミトコンドリアなどと違って昆虫細胞やシュライン細胞は大きさや機能が違う。
そんなものを包み込んで消化する、などというものが意図的に生産出来れば誰も苦労はしない……」
八幡は苦笑いしながら明を見た。
だが、明の表情は少しも変わらない。冗談でもハッタリでも無いのだと、ようやく理解した八幡は顔色を変えた。なんと言おうと、事実、紀久子はほぼ完全に普通の人間になっているのだ。
「それが僕には出来るようです。
その後、エクソサイトーシスで排出された異質な細胞のカスは、選択的にそれを捕食するマクロファージで食い尽くさせ、余剰物質を排出させれば、もう普通の人間と何も変わらない」
「システムを常駐させた、と言ったね? まさかこの丸い物体は…………」
「僕の左目です。合成した僕のマクロファージや小胞体は、異質なものですから、通常より寿命が短い。ですから生物膜で覆われた状態で、常駐させるしかなかったんです。
あの場ですぐ処置する必要がありましたけど、適当な生物膜カプセルがなかったもので……大丈夫、自己分解プログラムも組んでおきました。役目を終えれば眼球自体も、すぐに分解されて消えますよ」
八幡は、改めて明を見た。確かに眼帯をした左目の眼窩は窪んでいるように見えた。そこに眼球がないというのは事実のようだ。
「良かったのかね? たとえGの再生力をもってしても、欠損した器官は再生しない…………その目……おそらく再生はしないだろう……
それにこのこと、松尾君は知っているのかね?」
「知りませんし、絶対に知らせないで下さい。
それと、僕には義眼をあつらえてもらえませんか? 出来るだけ精巧なヤツがいい。彼女の心に少しも負担を与えたくないんです」
「……私は…………君がそう言うなら、そうするが……」
「僕の精密検査の結果は、聞かなくても分かります。
もう…………全身の細胞が、完全にGと同じになってしまっているんでしょう?」
「…………そうだ。だが……どうしてそれを?」
「僕の個体としての巨獣化が完全に止まったので、それと分かりました。つまり、僕はもう、個体としての伏見明ではなく、Gの神経中枢の一部に過ぎない存在になったというわけです」
自嘲気味につぶやく明の肩を、八幡は強く掴んで揺すった。
「いや!! それは違う。違うぞ明君!! 君は君だけでも生きていける。これからも、Gと融合する必要はないんだ」
「いえ、記憶も感情も共有している以上は、融合しようとしまいと僕はGです。義眼の件、なるべく早めにお願いします。それまでは眼帯をしておきますので」
明は冷静にそれだけ告げると、すっと立ち上がった。
「明君!! 私は君に対して責任がある。君のお父さんのこともある。もう、無理にGとして戦わなくてもいいんだ!! つらければ……つらければ、その苦しみを止めてあげることも……」
「僕はまだ、死ぬ気はありませんよ。
…………人間が安心して幸せな生活を送れるようになるためには、シュラインを倒し、巨獣をすべて地上から消さなくてはいけませんから。それが出来るのはGだけです。その力を与えてくれたことに感謝していますよ。八幡教授」
明は振り向かずにそれだけ言うと、部屋から出て行った。
そしてエレベータで六階まで上り、自分の病室へと戻っていく。その間にも、明の表情は暗く沈んでいった。
(もう…………顔を合わせない方がいいんだろうな)
無性に紀久子に会いたかった。
しかし、会ったところで何を話して良いか分からない。
気持ちは伝えられない。
紀久子には決まった相手がいて、その男は立派で誠実な大人の男性だ。
自分に会うまでの間、紀久子が守里と過ごしたであろう時間のことを思うと、醜い嫉妬心で自分の心まで押し潰されそうになる。
だが自分はもう人間ではない。見た目はどうあれ、体はもう巨獣と化していて元には戻れない。
今の気持ちも語れず、過去も自分より重い人がいて、共に将来を夢見ることも出来ないなら、紀久子と話すことなど何もない気がした。
(戦おう。Gとして。そうしている間は忘れられる気がするし、それでシュラインと相討ちで死ねたら…………楽になれる)
そう決心して病室のドアを開けた明は、ドアノブに手を掛けたままの姿勢で立ちすくんだ。
「…………松尾さん」
そこに立っていたのは、紀久子だった。
ジーパンに綿のトレーナー。そして、あの銀縁の眼鏡を掛けた、いつも通りの飾り気のない服装だったが、その少しはにかんだような笑顔は、明には信じられないほど眩しく、その姿はまるで天使のように見えた。
「え……と、もう体大丈夫? 精密検査、今日で終わりだって聞いたから……」
「あ……ああ、松尾さんも検査終わったんですか? それで寄ってくれたんですか?」
「うん……まあ、そんなとこ」
「まあ、座って下さい。何もないですけど」
明は、ベッドに腰かけると紀久子に椅子を勧めた。
「なんか……海底ラボでのことを思い出すね」
ベッドの傍の丸椅子に腰かけた紀久子は、屈託のない笑顔を明へ向けた。
だが、明は目を合わせようともしない。その愁いを含んだ表情が、紀久子の顔を曇らせた。
「……あ、ごめん。いい思い出ばかりじゃ……なかったよね?」
言われて初めて、明は紀久子を見た。
いけない。紀久子にこんな顔をさせては。心配を掛けたら、何のために自分が戦う決心をしたのか分からなくなる。
「そんなことありませんよ。僕にとっては…………いい思い出です。間違いなく」
明は、言葉を選ばなくてはいけなかった。
本当は明にとって、今までの一生のうちで唯一幸せを感じることができた時間だったかも知れない。
しかし、それが今は二度と戻らない、戻れない時間だと分かっているからこそ、明るくなれないのだ。だが、そう言ってしまえばそこで紀久子への気持ちがばれてしまう。
(そうしたら……もう二度とこの笑顔が見られなくなるんだ)
それだけは避けたかった。
紀久子が守里と結婚してしまおうとも、知り合いとして、友人として会い続けることは可能かも知れない。そうすれば、一生、彼女の近しい存在であり続けることが出来るかも知れない。そうすれば遠くからでも、少なくともこの笑顔を見続けることは出来るだろう。
たしかに、自分は巨獣になってしまった。
だが、それでも、もしもこの姿のままでいられるなら、そのことを紀久子に気づかれさえしなければ…………。
「――――君? 明君!」
「え? あ、はい。どうしました?」
「何を、ぼーっとしてたの? 変な明君」
考え込んでいて、紀久子の言葉を聞いていなかった。いや、ほっとしたように微笑んだ紀久子の顔に、つい見とれていたのだ。
目の前にはクスクスと笑う、紀久子がいる。
何があっても、この笑顔を曇らせたくない。明は強くそう思った。
「だからね。体の傷はもう大丈夫みたいやのに、その目、なかなか治らないんやねって、言ったんだよ」
一瞬。明は、心臓に針を刺されたような痛みを感じたが、平静を装って言った。
「ああ、この目ですか。もうほとんど治っているんですよ。でも、大事をとって眼帯をしているだけなんです」
「そうなんや? よかった。私なんかのために大怪我したかもと思って、少し心配してたの」
紀久子の顔がほころぶ。
つぼみだった花が急に開いたかのような、その笑顔が眩しすぎて、明は自分が宙に浮いたかのような錯覚を覚えた。
「え……と。じゃあ、もしかしてそれでわざわざ来て下さったんですか?」
「ううん。まだ助けてくれた御礼、きちんと言ってなかったし……聞きたいこともあって」
さっきまで微笑んでいた紀久子の顔が、ふっと曇る。明の胸にも、急に不安が押し寄せてきた。
「聞きたいこと?」
「うん…………あの……」
「……何ですか?」
「明君って……いずもちゃんのこと、好きやったんや……よね?」
紀久子の言葉を聞いて、一瞬、明は硬直した。
「…………いえ」
明の口を突いて出た言葉を、一番意外に思ったのは、明自身だった。
絶対に言ってはいけない言葉、であったはず……なのに…………何故?
沈黙。
ふと、顔を上げると、紀久子の表情は暗く沈んでいた。
「……明君。明君の好きな女の名前……言って欲しい」
「言えません」
「どうしても?」
「…………はい」
紀久子は悲しそうに眉を寄せ、それでも真っ直ぐに顔を上げ、明を見つめて言った。
「……高千穂さんがね…………来月、入籍しようって……」
「…………そうですか」
「それだけ?」
「おめでとう……ございます」
「…………もういい」
紀久子は立ち上がると、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
明は、強く閉められたドアの音に、まるで頬を引っぱたかれたように感じた。
部屋に一人とり残された明は、紀久子の言葉も行動の意味も理解できず、呆然と立ちつくすだけだった。