5-5 蠢動
「紀久子……紀久子…………紀久子ぉ…………」
ある企業の研究資料室。
明かりのない暗い室内で頭を抱え、床に跪いたまま何度も同じ名を呼んでいる男がいる。
「なんで……なんでお前がダイナスティスにされなきゃならないんだ。オレは、お前がいないとダメなのに。なんで……なんでシュライン様は……」
俯いた顔から滴り落ちる涙は、その男の胸を、膝を、床を濡らしていく。もう、何時間もそうしているのであろう。床には小さな水たまりが出来ていた。
だが、男の胸でPHSの呼び出し音が鳴り始めた途端、男の表情が変わった。
男は自分の袖で涙をぬぐうと、何度か咳払いをして、受話器を取る。
「東宮だ。どうした?」
『松尾 研究員の、知り合いだという、男が、来ています。どう、しますか?』
受話器からは抑揚のない、間の抜けたような男の声が聞こえた。
といってもシュライン細胞によって操られている人間は、所内の誰であっても似たような、抑揚のない声なのだが。
初期に紀久子によって感染させられ、紀久子の生体電磁波によって心酔させられた東宮とは違うのだ。
「お引き取り願え。この研究所に松尾紀久子という研究員はいないと言ってな」
聞くなり東宮は顔をしかめ、吐き捨てるように言った。
『そう、言っている、のですが、どうしても、出て行きません。手荒い方法を、とりますか?』
「いや、却って面倒なことになると困る。今、オレが行って説明する」
言い捨てると、東宮は、舌打ちしながら通話を切った。
何者がかぎつけて来たのか? 公的にはこの研究所と紀久子のつながりは無いはずだ。関わりがあって嗅ぎつけられたとすれば、海底ラボで同じ部署だった自分からしかない。
胸騒ぎを覚えた東宮は、スリッパの音を響かせながら表玄関に急いだ。
「うわあっ!!」
暗い廊下を抜け、表玄関の見える曲がり角を曲がろうとした時、目の前に白衣姿の男がごろごろと転がって来た。
慌てて飛び退いた東宮は、壁に激突して動かなくなった研究員を一瞥して、にやりと笑った。
柔道技か何かで投げ飛ばされたのだろう、完全にのびている。だが、相手が暴力的な手段に訴えてくれたのであれば、これでこちらも大手を振って、強硬手段を執れるというものだ。
そう心中で計算しつつ、玄関に立ちはだかっている男の顔を睨み付けた東宮は、驚きの声を発した。
「ほう……高千穂……お前だったのか」
「東宮ぁ!! お前がいたことでようやく確信できたぜ!! 紀久子を返せ!! ここにいるのは分かっているんだ!!」
激昂する守里を馬鹿にしたような表情で眺めた東宮は、大げさに両手を広げると、ため息をついてみせた。
しらを切り通すつもりだったが、相手がこちらの顔を知っている守里では、そう簡単に誤魔化せそうにはない。
「高千穂……こんな真似をしてタダで済むとでも思っているのか? おい山下、警察を呼べ!!」
東宮は不敵な笑みを浮かべると、壁に激突して唸っている研究員に命じた。
すでにこの研究所は、役目を終えつつある。ダイナスティス起動まで、あとしばらく時間を稼げればいい。
不法侵入に暴力沙汰と、守里がせっかく事を荒立ててくれたこの状況を利用しない手はない。
「ほぉ? 呼べるものなら呼んでみろ!! 捕まるのはお前等の方だ。自分たちの姿を鏡で見てみろ!! それでまともなつもりか!!」
「何い?」
命令がなければ何の対応も出来ず、目線すら定まらずに、守里の周りにふらふらと佇む所員達の様子は、たしかにまともとは言えなかった。
仕草や目つきは何とでも言いつくろえるだろうが、決定的なのは衣服だった。
だらしなく着込んだ白衣は血や薬品で汚れ、その下のトレーナーやセーターの類も薄汚れ、酷い臭いを放っている。しかも、ろくに食事もとらせていないせいで頬がこけ、土気色の顔はまるで幽鬼さながらだ。
何日も帰宅させず、徹夜で作業を続けさせていたのであるから、当たり前のことではあったが。
もともと研究者などというものは、格好を気にするタイプの人間は少ないが、それでも彼等の異常さは目に余る。
「まぁ、たしかにな。少し無理矢理、働かせすぎたか……ま、実際もう用済みだけどな」
東宮はボリボリと頭を掻きながら所員達を見やり、ぼそりと呟いた。
まるで使い捨ての道具扱いである。目から意思の光を失い呆然と立ちつくす所員達の哀れな様子を見て、守里の怒りが爆発した。
「東宮ぁ!! 質問に答えろッ!! 紀久子はどこだッ!?」
すっと姿勢を落として近づいた守里は、東宮の襟首と袖を掴み、足を払った。守里は柔道の有段者なのだ。技の掛け方もタイミングも申し分ない、見事な背負い投げであった。
しかし、守里は東宮を担ぎ上げることが出来ずにたたらを踏んだ。
まるで巨大な岩にでも技を掛けたような感覚。簡単に宙に浮くはずの東宮は、にやけた表情をはり付けたまま佇んでいる。そればかりか、逆に自分の襟元を掴んでいた守里の手首を握った。
「うぐあっっ…………」
守里は跪いた。
東宮は姿勢も変えず、力みもせず、ただ単に握力だけで握っているとしか見えないのに、守里はまったく身動きがとれない。
「ぐ……う……なんだこの力はっ!?」
「ふん……シュライン様の細胞をいただいたオレが、以前と同じだと思ってもらっては困るな!!」
不気味な笑みを深くした東宮は、そのまま左腕をねじり上げた。苦痛に呻く守里の首元を掴むと、そのまま体ごと持ち上げる。
空中でもがこうとした守里は、腕の関節を逆に決められ、それすら出来ない。
「ちょうどいい。高千穂ぉ……シュライン様はお前も取り込んでやると紀久子に言っていたが、オレは、お前なんかと一つになるなんて冗談じゃないと思っていたんだ……ここで始末してやる」
能面のような無表情に、口元に笑みだけを貼り付けた東宮は、守里の耳元で嬉しそうに囁いた。守里の手足がだらりと下がる。片手で守里の首を絞め上げ、軽々と持ち上げ続ける東宮の力はもはや人間のものではなかった。
「貴……様…………いつから人間やめやがった!!」
首を締め上げられ,呼吸もままならないながら、それでも守里は強い意志の宿る目で東宮を睨みつけた。
「さあな? すっかり忘れたよ。人間だった時のことなんてなあああ!!」
東宮は、さらに右腕に力を込めていく。
苦痛に歪む守里の顔が鬱血して真っ赤になり、喉が、風を切るような苦しげな音を立て始めた。目から光が急速に失せていく。酸欠で意識が遠のき始めたのだ。
「何が婚約者だ……オレの紀久子を奪いやがって……首の骨をへし折ってやってもいいが、なるべく苦しむように、窒息死がいいな。……簡単に死ぬんじゃねえぞ?」
その時。
何者かが東宮の右手首を掴み、守里の首から引きはがした。そのまま掴まれた右腕を支点に宙を舞いながら、東宮はぽかんとした表情で上下に回転する世界を眺めた。とてもゆっくりと世界は回り、天井が見えたと思った時には、背中から床に叩きつけられていた。
何の前触れも気配すらなかった。床に寝転がらされて、東宮はようやく、自分が何者かに投げられたことに気付いたのだ。
「げほっ!! げほげほっ!!」
圧迫されていた気管を解放された守里が、床に両手をついて激しく咳き込んでいる。
「お……オレの腕?……オレの右腕がああああ!!」
投げられたはずみに、東宮の右肩は外れていた。超人的な筋力を得ていても痛みは変わらないのか、東宮は右肩を押さえてのたうち回っている。
「この人は、松尾さんの大事な人だ。お前なんかに殺させない」
静かな声が聞こえると同時に、東宮は腹部に強い衝撃を感じた。
そしてそのまま数m吹き飛ばされ、突き当たりの壁に激突した。
「な……なんだお前……」
壁に叩きつけられ、それでも立ち上がろうともがく東宮が見たのは、銀色のパイロットスーツを着た、ほっそりした男の姿だった。
だが、長く垂れた前髪が、うつむき気味の顔のほとんどを覆っていて、表情は窺い知れない。
「そ……その声……まさか、伏見明君……か?」
守里が、床に両手両膝をついたままの姿勢で、突然現れた人影を見上げる。
「一度しかお会いしていないのに、声で僕だと分かりましたか。さすがです。僕が匂いで松尾さんを探し出すより早く、ここにたどり着いたのも……やはりあなたは、松尾さんの選んだ男性だ」
男は、顔の前に垂らされた長い髪をかき上げた。
長い髪の毛の隙間から覗く、幼いながらも端正な顔立ち、はにかむような笑顔は、たしかに伏見明のものに違いない。だが。
「……明君、その姿は……?」
ようやく立ち上がった守里は、怪訝そうな顔で明に歩み寄る。
髪の長さもそうだが、以前とはどこか面差しが変わったように思えたからだ。心配そうな守里の目を見て、明は少し自嘲気味に微笑んだ。
「この髪ですか? 僕がGと分離して二週間以上……僕の巨獣化が進んでいるのだと思います。でも、今回は髪が異常に伸びただけで、筋肉や骨の変化があまりないのはありがたい」
「巨獣化だって? じゃあ、あの話は本当なのか? 本当に君の体にはG細胞が……?」
守里は研究者関係の独自の情報網から、MCMOの重要機密である今回の一連の経緯を、ほぼ正確に把握していた。その中で、紀久子がシュラインという敵に掠われたらしいことを突き止め、海底ラボの関係から、この場所へたどり着いたのだ。
当然、伏見明が巨獣王Gと融合しているという話も聞いてはいたが、俄に信じられる話ではなかった。
「ええ……僕の体内にはG細胞と細胞内共生生物が同居しています」
こともなげな口調とは裏腹に、寂しげに微笑む明から、守里は思わず目を逸らした。
それが事実だとすれば、あまりに残酷すぎる。自分といくつも年の変わらない目の前の少年は、もはや人間でなくなろうとしているのだ。
「東京をしらみつぶしに歩いて、松尾さんの匂いを追ってきたんですが、こんなに時間がかかってしまいました」
まさかとは思ったが、どうやら明は身体能力だけでこの場所を突き止めたようだ。守里はその執念に舌を巻いた。
「馬鹿な……匂いだけを追ってここへ来たっていうのか? 俺はハッキング出来る仲間に頼んで、政府やMCMOの情報を盗み、さらに研究者仲間のコネクションを駆使して、ようやくこの研究所の異変を突き止めたんだがな」
「……そうでしたか」
「うううう貴様……貴様らああああああ!!」
低い呻き声に振り向くと、東宮が口元から血を流しながら立ち上がっていた。
そして明が身構える間もなく、再び襲いかかってきた。
「……東宮さん!?」
肩を外された右腕をだらりと下げ、獣のような唸り声を上げて頭から突っ込んでくる東宮。
だが、明は避けようとはしなかった。
自由になる左腕だけでつかみかかってきたその手が拳を握っていなかったからであり、なにより、涙を浮かべたその目に殺気が全く感じられなかったからである。
「遅い!! 遅い!! 遅いんだよお前ら!! なんで昨日来なかった!? いや、せめて二時間前までにたどり着かなかったんだよ!? 今更来ても、紀久子はもう……紀久子は……」
東宮の突進を受け止めて、呆然と立ちつくす明の胸を、東宮は片手だけで子供のように叩き続けた。東宮は何を言っているのか? やっと紀久子にたどり着いたはずなのに、何かおかしい。ここに紀久子はいないというのか?
明は、泣きながら崩れるように床に座り込んだ、東宮の肩をつかんで揺すった。
「東宮さん!? どうしたって言うんです!? 松尾さんが、どうしたって言うんですか!?」
「もう……遅いんだ。紀久子はダイナスティスに……ダイナスティスの核になっちまうんだよ」
「ダイナスティス? 何だそれは!? 答えろ!! 東宮!!」
守里が苛立ちの声を上げた。
そして、もはや戦う意志を無くしたようにへたり込む、東宮の胸ぐらをつかんで、無理矢理立たせた。
「ダイナスティスは擬巨獣だ。巨獣じゃない巨獣。最強の兵器だ。ミサイルなんかの通常火力兵器はおろか、機動兵器でも……Gでもアレには勝てない…………俺達が紀久子と作った。シュラインに作らされたんだ!!」
「どこなんです? 松尾さんは、どこにいるんです!?」
力なくうなだれた東宮を、明は必死の形相で問い詰めた。
「明治神宮だ……あそこには無数の運び屋を放ってあるんだ。完成のための生物量を確保するために…………」
「明治神宮ですね? 分かりました」
「待てっ!! 」
そのまま走りだそうとする明の肩を、守里が掴んで引き留めた。
「明治神宮に行くつもりなのか? だが、さっき君は自分がGなんだって言ってただろ? だとすれば、もしかすると君は、紀久子自身と戦うことになるかも知れないんだぞ?」
「松尾さんは強い人です。擬巨獣だか何だか知りませんけど、そんなものに絶対負けたりしません。でも、きっと助けは必要です。Gが行かなきゃ助けられない」
肩に掛かった守里の手に、そっと自分の手を重ねて明は言った。
「東宮の言うように、Gの力が通用しなかったらどうする!? 紀久子を助け出せないばかりか、そのダイナスティスとやらで人類全体が危機に陥るぞ?」
「僕が行かなくてもそれは同じでしょう? 大丈夫。僕は……Gは負けません。すべての償いを終えて、自分がいるべき場所へ帰るまでは」
「自分がいるべき……場所?」
それは明の? それともGの? 聞き返そうとした守里は、しかし逆光の中で振り向いた哀しげな微笑みに、それ以上問いかけることは出来なかった。
「任せて下さい。こんな僕ですけど、必ず……何があっても、必ず松尾さんは無事に救い出しますから」
「まさか……死ぬ気じゃないだろうな!?」
「死にはしません。……死ねませんよ。巨獣王Gは、不死身なんですから」
「待て、明君!!」
再び前を向いて走り出そうとした明を、高千穂はまた呼び止めた。
「一言……礼を言っておきたい!! 俺は、君達に……特にあの小林って男に教わった。こんな緊急事態に、他人に運命を任せるなんて間違っていた。すぐに動くべきだった!!
待っていたって、紀久子は帰って来やしない。自分の力で探し出さなきゃダメだったんだ!!」
「良かったです。」
「え?」
「あなたは、やはり素晴らしい人だ。僕は安心して松尾さんを救いに行ける」
「明君!?……」
君は紀久子が好きなんじゃないのか? 言外に発した問い。だが、おそらくその問いは明を傷つけ、無力な自分自身のプライドまでも傷つけてしまう。守里はその言葉を呑み込むしかなかった。
「……高千穂さん、松尾さんは必ず、あなたの元へ届けます。無事な姿で」
言い捨てて走り出した次の瞬間には、明の姿はもう見えなくなっていた。
*** *** *** *** ***
東京。
眠り続ける巨獣王Gの問題が解決しないまま半月が過ぎ、千葉方面の高層ビル街は廃墟と化したまま手を付けられていない。
広範囲にわたる被害エリアはシュライン細胞によるバイオハザードの危険もあり、一般人の立ち入り禁止となっていた。
しかし同じ首都圏であっても、それ以外の地域では人々の生活が少しずつ戻って来つつあった。
中でも比較的被害の少なかった新宿界隈は、被害地域から臨時移転してきた企業や行政組織のオフィスも多く、今の首都圏ではもっとも活気が溢れている場所であった。
その新都心からほど近い明治神宮は、同じエリアとは思えないほどの静寂が支配している。百年の森を構想して造成された、人工の自然林。
夕暮れ。折から降り出した雨で散歩に訪れる人も少ないその明治神宮の森を歩く、二つの人影があった。
周囲の雰囲気にあまりにも似つかわしくない様子の二人。金髪の美少年と、白衣を着た幼げな顔立ちの女性は、シュラインと松尾紀久子であった。
「この辺でいいだろう……」
「……はい」
シュラインと紀久子は、一際大きなシラカシの木の前で立ち止まった。
どこでもよかったような言葉とは裏腹に、シュラインの目はそのシラカシの木にのみ注がれている。懐かしさと憎しみの入り交じったような不思議な目。
その木は不思議な形をしていた。
全体としてはカシの木らしく真っ直ぐ天をつき、十m以上の大木である。
しかし、地上一mほどの場所に変形した部分があり、大きく斜めに傾いてそこからふたたび空を指しているのだ。その変形した部分はまるで人間が足元の何かに覆い被さっているように見えた。
その木に何かあるのだろうか? シュラインは黙ったまま、もう数分もそこに立ちつくしている。
そんなシュラインの後ろに控えた紀久子もまた、哀しげに俯いたまま黙っている。
夏の夜だ。
あたりには、発酵した樹液独特の甘酸っぱいような匂いが立ちこめている。
『ブウン』
大きな羽音を立てて、何かの昆虫が飛び立った。
ボクトウガの幼虫が傷を付けた場所から浸みだした樹液に、カナブンやタテハチョウ、スズメバチなどが群れているのだ。
シラカシの幹にひしめき合う虫の数は、時間を追うごとに増えていく。樹液を出す木はここだけではないはずなのに。
彼等が立ち止まってから、少しずつ羽音の数が増え始めているのだ。樹液に集まる虫だけではない。様々な昆虫たちが紀久子の周囲に集まりつつある。
ハエやアブの仲間。
蛾。
コガネムシ。
ノコギリクワガタ。
オオクワガタ。
カブトムシ。
足元には、ゴミムシやオサムシ、大きな黒いアリの群れもまとわりつき始めている。
もともと都心とは思えないほど豊かな生態系を持つ明治神宮ではある。
だが、森の中のどこでもこれほどの密度で昆虫が生息しているはずはない。この森に住む、ありとあらゆる昆虫が集結しているとしか思えない光景であった。
そのうち、昆虫たちは紀久子の体の周囲に集まり始めた。
あるものは這いずり、またあるものは飛翔して紀久子のほっそりした体にまとわりついていく。
体中を様々な虫に這い回られながら、しかし紀久子は俯いたまま、表情ひとつ変えないで立ちつくしている。
「いい集合フェロモンを出す体になったね。紀久子、嬉しいか?」
「はい……うれしいです」
呟くように漏らした言葉とは裏腹に、紀久子の悲しみの影が深くなる。
「昆虫細胞を組み込んであげたからね。おまえはもう、人間ではないんだよ」
「……はい」
シュラインは一際加虐的な笑みを浮かべると、手に持っていたケースから、一匹の巨大な昆虫を取り出した。
「分かるよね? Dynastes hercules、ヘラクレスオオカブトの名で知られる、南米原産の世界最大級のカブトムシだよ。まあ昆虫なら何でもよかったんだけれど。やっぱりGを倒すのは強い虫じゃないとね」
ヘラクレスオオカブト……昆虫とは思えないほどの存在感と力強さを持った、長大な角を上下二本持つカブトムシだ。
自分の体長ほどもある角は、先端から根元まで同じくらいの太さを持ち、黒く硬い頭部を更に堅固に守っていると同時に、強力な武器ともなる。
甲虫目特有の硬い上翅は、黄褐色に血管のような黒い模様が走っており、湿度によってその色彩を変える。
「この個体がダイナスティスの核になる。お前と共にね。これからは、生涯のパートナーと言ってもいい。婚約者も伏見明も忘れ、その虫を愛するがいい」
「分かりました。愛します」
「命令は一つだ。Gを殺せ」
「はい」
紀久子は、シュラインの手からその巨大な昆虫を受け取ると、胸にそっと抱きしめた。
周囲を飛び交う虫の数は増え続け、やがて完全に紀久子の姿を覆い隠していった。