5-2 シュライン復活
その頃。東京郊外の某研究施設で異変が起こっていた。
発端は所長の突然の辞任だった。責任感の強い所長であったことを知るものは首を傾げたが、辞任直後に精神を病んで入院したという情報が流れ、関係各所からもそれ以上の追求はされなかった。
さらに数日後。
所長代理に納まった副所長が、それまでの研究成果や途中経過物にはすべて問題があるとして破棄を命じた。ここに至って一部の所員達も何かおかしいと思い始めたが、子細を問い質しに副所長のところへ向かった者はすべて、何故か納得した様子で帰ってきた。
その時点で誰かが気づくべきだった。副所長もその何人かの所員も、どこか目つきが異常であることに。
その妙にうつろな目つき。わずかに緩んだ口元。
呼びかけても反応がいつもより遅かったり、たまに関係のないことをしゃべり出したりする時がある。
ただそれだけのことではあった。よく観察しなくては分からないほどの違和感。
よほど親しい人物が、じっくり彼等を観察すれば異変に気づいたのかも知れない。
だが結局、誰も気付かなかった。次第にその人数が増え、全所員の目つきがおかしくなっても。
そしてそのうち、その研究所のすべての部署が、あるひとつの作業に従事するようになっていった。
従来の研究が破棄されたこと。これまでと全く違う研究に全所員が従事し始めたこと。
これらは、所員の家族や他の関係者も知ることはなかった。
これまでも組織運営上の秘密事項もあるため、研究内容の肝腎な部分はいつも秘匿されてきたこともあって、誰も不思議には思わなかったのだ。
誰も気づかなかった。気づかないまま、すでに二週間が過ぎていたのだ。
深海ラボに転属になっていた東宮照晃が、その施設に復帰してから、二週間が。
そして、いなくなった所長の代わりに、その椅子に座っていたのは、松尾紀久子であった。
「東宮クン。卵母細胞の大量培養の経過はどうですか?」
紀久子の乾いた声が響く。
二段フロアの上部に位置する研究デスク。そこでデータ書類をめくる紀久子の前に座り、顕微鏡を覗いていた東宮は慌てた様子で振り向いた。
「はい。順調です。このままいけば、五日後にはダイナスティスを起動するのに充分な個体数を放逐できるはずです」
答えた東宮に視線すら向けず、紀久子は眉根を寄せた。二人とも白衣を着ている。
同じ室内にいる他の十数人の研究員、そして東宮と紀久子を含めた全員が、紀久子の言う『ダイナスティス』なるものを動かすための作業をしているようである。
二段フロアの大研究室には巨大な培養タンクらしきものが置かれ、その中には薄茶色の液体が満たされ、曝気撹拌されている。
ガラスで仕切られた別室では、細かい網目の飼育ケージらしきものがいくつも置かれ、中の白いバットに小豆大より少し大きいくらいのものが無数に入っているのが見える。
その細長く赤茶けた物体は、何かの卵か蛹なのだろうか。どうやら重なり合わないように広げられているらしい。
壁際の一角には、ステンレス製のメッシュ棚には大型のコマ型培養瓶が無数に置かれ、蒸気滅菌装置や遠心分離装置もフル稼働しているようだ。
室内はそれらの器具が発するモーターやポンプの駆動音、液体の流れる音、泡のはじける音が幾つも重なりあって、何か騒然とした雰囲気に包まれている。
「五日……遅いですね。何のためにこの研究所のシステムをフル稼働させているか分かっていますか? すぐに培養容器を増設してください。シュライン様はお急ぎです」
「はい。聞いたなお前達。また、あの快楽を味わいたいなら、徹夜で働け!!」
「うー……」
「は……い……」
二段フロアの下の方から意志の感じられないうつろな声が響く。
巨大な培養容器に取り付くようにして作業している白衣姿の研究員達は、忙しげに立ち働いているが動きがぎこちなく、遅い。
どんな作業であっても、このような状態の人間が行っていたのでは捗るはずもない。
手元の書類からようやく視線を上げた紀久子は、彼等の様子を見下したような冷たい目で見据えると、軽く舌打ちをした。
「そうね。卵母細胞の方は培養容器を倍に増やしなさい。ベクターとなるChrysops suavisの方は、恒温機から出してエアコンで室温を上昇させなさい。羽化が早まるように平均温度を二℃上昇させるの。いいわね?」
乾いた声で命令する紀久子の表情は一見無表情だ。しかし、その瞳の奥には微かな光が差して見える。
長く生体電磁波でシュラインに操られたことで、逆にシュラインの電磁波波長への耐性がつき始めているのだ。
「……ふう」
紀久子は小さなため息をつき、額に手を当てた。
こめかみから後頭部にかけて、脈打つような頭痛を感じる。
いったい自分は何をしているのだろう。随分前から、自分の行動がコントロールできていない気がした。
それがいつからなのかも思い出せない。これは自分の仕事であり、当然のことをやっているはずなのに……。
胸が痛む。
心が重い。
海底ラボのことや、それ以前のことを思い出そうとすると、激しい頭痛に苛まれる。
家族や友人、恋人である守里、そして海底で会ったあの少年……一番ひどい頭痛を感じるのは、あの少年のことを思い出そうとする時だ。
顔も、姿も……名前すら思い出せないのに、交わした言葉だけははっきり覚えている。
「――――君」
思い出せない名前を呟いてみる。
彼はどうしたのだっただろうか? いつ離ればなれになったのか、それも思い出せない。
それでも何故かは分からないが、彼だけが今の状況から紀久子を救い出してくれる。そんな漠然とした思いが頭の隅にこびりついて離れない。
「松尾研究員……シュライン様が孵化なさいます」
そこへ、背の低いもっさりした印象の男が近寄ってきて紀久子に報告した。
格好を気にしていないのは、シュラインに操られているからではなさそうだ。目の辺りまで覆い隠した乾ききった針のような髪の毛も、何日も着替えていないであろう白衣の下のトレーナーも、ある意味彼に似合っていた。
「そう。今行きます」
さっと自分の席を立った紀久子の後ろを、もっさりした男が慌てて追いかけていく。
白く長い廊下の突き当たりを右に曲がると、ガラス張りの明るい部屋が見えてきた。
『恒温室』と表示されたその部屋は、先ほどの施設よりも更に厳密に一定の温度と湿度を保つことができる施設だ。
本来は植物細胞などの培養に使用される場所である。植物の培養のため紫外線を含む蛍光灯を設置している室内は、全体に特徴的な青紫の光に照らされている。
この部屋を使用すれば、先ほど紀久子が指示していたような培養作業はもっとスムーズに行えるはずであるが、何故か彼等はそうしていなかった。
その理由となるものが、恒温室の中央に置かれていた。転げてしまわないように特殊な素材で作られたクッション材の上に置かれていたのは、紀久子が抱えていた巨大な卵であったのだ。
紀久子が我が子でも抱くかのように、愛おしげに抱き暖めていた真っ白な卵。その中心部分には今や小さなヒビが入り、欠片が剥がれ落ちた部分からは赤い血液状の液体が垂れている。
「たしかに……孵化が始まっているようですね。よく報告してくれました。前田君」
「あの……ご……ご褒美を……」
前田と呼ばれたその男は、さっさと室内に入ろうとする紀久子の行く手を、塞ぐようにして立った。意志の感じられなかった顔に、喜悦の表情が微かに浮かぶ。期待でゆるんだ口元からは、透明なよだれが垂れ始めた。
その顔から目を逸らした紀久子は、口元を吊り上げると無理に作ったような笑いを浮かべた。
「そ……そうね。じゃあ、ご褒美をあげましょう」
「う……うおおお……」
その言葉を待っていたかのように、前田は目の前に立つ紀久子に覆い被さっていった。
しかし、素早く身を翻してすり抜けた紀久子は、一瞬にして前田の後ろに回り込んだ。
前田は操り人形のようなぎくしゃくとした動きで振り向き、なんとか紀久子に近づこうとしている。紀久子は、薄笑いを浮かべて近づいてくる前田に嫌悪の表情で鋭い視線を送った。
視線に射抜かれた前田は、その場でびくんと体を反らせて硬直した。そして立ちつくしたまま全身を痙攣させ、至福の表情を浮かべ始める。
「…………ごめんなさい」
紀久子が呟いた。
前田が見せられているのは、生体電磁波による幻覚である。東宮にシュライン細胞を感染させた時に操ったのと同じやり方だ。シュラインからの指令波を中継し、全所員を操って生体兵器を作らせているのだ。今や紀久子は、完全にシュラインの手足となって働いていた。
哀しげに前田を見やった紀久子は、何度も絶頂を味わっているらしい前田の横をすり抜けると恒温室のドアを開けた。
生暖かく、湿度の高い空気が紀久子の顔を包み込む。
紀久子は目元に手をやった。高湿度の室内に入ると、いつもなら曇ったメガネを拭いていたからだ。だが、今の紀久子はメガネを掛けていない。
はっと気づいたように手を下ろした紀久子の、悲しみの表情が一層深まった。
「……シュライン様」
部屋の中央に置かれたヒビの入った巨大な卵。
長径一メートル、短径五十センチ程度の真っ白な楕円球の卵に歩み寄った紀久子は、そっと卵に手を添え、声を掛けた。慇懃な、しかし甘えるような響きを含んだ声。
その表情も先ほどまでの冷たさではなく、幸福そうに微笑んで見えた。
巨大な卵がゆっくりと動き始めた。ヒビが更に大きく広がり、殻がぽろりと剥がれ落ちた。不規則な三角形に剥がれ落ちた穴。そこからにゅっと突き出されたのは、真っ白な人間の腕であった。
(紀久子……手伝え)
思考波による命令が紀久子の脳に響き渡る。抗えない強さの生体電磁波。
その力は海底で味あわされたものより遙かに強い。伏見伊成の細胞とともにG遺伝子を取り込むことで、強めれば脳細胞を蝕むほどの強力な電磁波能力を手に入れたのだ。
からみつく様なシュラインの思考に、紀久子の自我は黒く塗りつぶされていく。
「はい。シュライン様」
紀久子はうっすらと笑みを浮かべ、突き出された腕の周囲の卵殻を素手で剥がし始めた。
ヒビが入っているとはいえ、巨大なバシリスクから産み落とされた卵は殻も分厚い。
五ミリ以上はある分厚く尖った卵殻を、素手で引っ張るようにして剥がしていく紀久子の手には、すぐに血が滲んだ。
白く細い手にいくつも切り傷を負いながら、時には肘や拳でヒビを広げていく。手の平だけではなく、手首からも白衣の下の二の腕からも出血しているようだ。
それでも紀久子は痛そうな表情ひとつせずに卵の殻を剥がす作業を続けた。
数十分後。
ばらばらに飛び散った白い卵殻の欠片の中に、金髪の少年が濡れた体でうずくまっていた。紀久子は、そのシュラインの体をタオルで丁寧に拭いている。
真っ白なタオルが紀久子の血で赤く滲んでいるが、紀久子は気にする様子もない。
「完全に元の姿に戻られて……嬉しいです」
紀久子は献身的に作業を続けながらつぶやくように言った。
孵化直後は膝を抱えるようにして俯いていたシュラインは、ようやく体が固まったのか顔を上げて紀久子に微笑みかける。依然と変わらない美しい顔だ。
「くくく……嬉しいかい? そうだろうね。これですべての生物が一つになる僕たちの夢に、大きく前進したことになるからね。そうなれば、お前は婚約者とも一つになれるのだから……」
「高千穂……さん……と?」
シュラインの体を拭きながら冷たい無表情に戻っていた紀久子が、感情を取り戻したように微かに微笑んで小さく呟いた。
それを聞いたシュラインは意地悪く口元を歪めて笑った。
「婚約者が大事かい? お前は薄情な女だよね。Gが僕の邪魔をしているって教えたけど……どうして邪魔をするか、知ってるのかい?」
「いえ。存じません」
「知っていたらそんな態度はできないよね。伏見明を覚えているだろう? あいつがGと融合して、操っているのさ。海底で、Gが復活したのを見ただろう……?」
「ふしみ……あきらくん……? あの明君?……生きてた……生きてた……」
何度思い出そうとしても、決して思い出せなかった名前。
心の隅に、いつも引っ掛かっていたその名前をシュラインの口から聞いた途端、紀久子の脳裏に、明の笑顔が蘇った。あの幼さの残る、はにかむような笑顔が、まるで本当に目の前にあるかのように。
冷たく固まりかけていた紀久子の顔に、今度は紛れもなく喜びの表情が浮かんだ。
それと同時に、海底ラボでの記憶が次々に蘇ってきた。
ほんの少し恋人の守里に対する後ろめたさを感じながらも、楽しく過ごした二人の時間。
明の好きな女性は雨野いずもなのだから、こうしていても大丈夫なんだと自分に何度も言い聞かせていた。
海底で父親にも会えず、寂しい思いをしている明を慰めるのは、自分の役目なんだと。
しかし、会うたびに秘かに胸がはずんでいくのを抑えることができなかった。
そして、突然破られた穏やかな日々。
明の巨獣化の兆候。メタボルバキアを植え付けるための緊急手術。
常軌を逸したシュラインの目的と正体。紀久子の肩を貫いた突起。
シュラインによる電磁波攻撃の苦痛に耐えきれず、意識を失いそうになった時。
みんなを救うため、怪物と化したシュラインにワイバーンで単身挑んだ明。
目の前で砕け散るワイバーン。
引きずり出され、深海に沈み行く明の姿……。
サラマンダーが制御不能になったあの時、薄れ行く意識の中で、Gは紀久子を巨大な手で掴み、第一ブロックのドッキングポートに導いてくれた。
なぜ、Gがそんな行動をしたのか八幡も不思議がっていたのだが……深海の闇に消えた明と、その直後に突然復活したG。
そうだとすれば、すべての説明がつく。紀久子の頭の中で、ようやくすべてのパズルが組み合わさり疑問が解けていく。
「じゃあ、海底でGが私を助けてくれたのは…………」
「そう、それも明ってヤツの意識があったからだろうね。あいつは、紀久子、お前を好きなんだそうだ」
「……うそ……です。そんなの」
紀久子の顔から、再び表情が消えていた。呆然と空中を見据えたまま、ゆるゆるとかぶりを振って、シュラインの言葉を否定する。そんなはずはない。そうだとすれば、自分はどれほど残酷なことを明にしてしまったのか。
虚空を見つめる瞳には、ここにいるはずのない明の哀しげな表情が、はっきりと見えていた。
「本当さぁ。僕がバシリスクとして戦った時も、コルディラスの意識を操って戦った時も、あいつは紀久子、お前の名前ばかり叫んでいたよ。
松尾さんを返せ!! 松尾さん!! 松尾さん!! ってね!!
滑稽だったよ。婚約者のいる女を救うために、血を流し、肉片を飛び散らせて、命がけだったなぁ。ああいうのを道化師って言うんだろうね!!」
「明君が……どうして……どうして。私のことなんか……」
紀久子の目から、涙が一筋こぼれていく。
悲しみの表情が現れた紀久子の顔を、間近で覗き込むようにして見つめながら、シュラインは、心底楽しげに笑った。
「くくくく……もてる女はつらいよね紀久子。だが、安心しなよ。婚約者と明、どちらかを選ぶ必要なんて無い。どちらも取り込むのさ。すべて一つになれば、何も問題ないだろう?」
「は……い……」
頷きながらも、紀久子の悲しみの表情は消えない。
それどころか、自分の意志を思うままに出来ない苦痛に耐えるように、唇を噛んだ。それを満足げに眺めたシュラインは、冷たく事務的な口調に戻って言った。
「そういえば、培養計画は順調に進んでいるようだね? あとどのくらいでベクターを放せるのかな?」
「あと……五日との報告を受けています……もうすぐ、ダイナスティスの基礎になる卵母細胞も定数に達します」
事務的な報告を口にしながら、紀久子の表情は暗く沈んだままだ。
「少し遅れ気味だが……まあいいだろう。ダイナスティスにはお前を組み込むから、そのつもりでいなさい」
「…………はい」
ダイナスティスに組み込む。
そのシュラインの言葉の意味を、理解しているのかいないのか……紀久子は遠い目をして悲しみに沈んだまま、素直に頷いた。