2-2 伏見 明
「息子さんの状態は落ち着いているようだ。しかし、君も馬鹿な真似をしたものだな」
八幡の声は、その言葉とは裏腹に優しく、憐れみと落胆を多く含んでいた。
向かい合っているのは、明の父、伏見伊成である。二人の掛けている椅子以外は、ベッドが一つきりしかない独房のような部屋である。
「話したいこと、というのは、それほど秘密にしたい内容なのかね?」
二人きりで話したい、と、伊成が指定してきたこの場所に、八幡は違和感を持っていた。
「…………息子は、もうあと何日ももたない状態でした。ご存じの通り……私も、ここしばらくは、地上で息子に付き添っていました。そこへ、八幡先生が、tRNAを用いた画期的な細胞質誘導法を成功させたと……」
「それで、その方法を使えば息子さんが助かると考えたのか……しかし、いったいどこから聞いたんだね? 」
「匿名のメールでした。しかし、届いたのはこの研究所のローカルアドレス……疑う余裕も、検証している暇もなかった……」
「たしかに実験での死亡率はゼロだが、先行実験に使用されたニホンザルは、処置後一週間で通常個体の……二倍の体重になっている」
言葉は、死刑宣告のように響き渡った。
「後で聞きました。私は息子に取り返しのつかないことを……」
絶句した伊成を、八幡は憐れむように見た。差出人不明のメールに希望を託すほど、苦悩していたことは分かる。だが、いったい誰がそこにつけこんだのか。
たとえ病気が治癒したとしても、巨大化してしまっては、元の生活に戻ることなどできない。
「伏見君。息子さんの搬入書類には、改ざんの跡があった。君一人でやったにしては、高度すぎる。誰かが、こうなることを企んだ、としか、私には思えないんだがね?」
心当たりを促すように、八幡は相手の目をじっと見たが、伊成は力なく目を伏せた。
「すみません……私には……」
「そうか……尻尾を出すのを待つしかないか……」
そう言うと、八幡は手元のペットボトルから水を飲んだ。
「まあ、息子さんが一命をとりとめたことは、素直に喜ぼうじゃないか。処置からもあまり時間が経っていない。抗ウイルス薬を点滴すれば、ベクターを殺せる。うまくすれば、巨獣化を防いで、G細胞の医学的効果だけを得られるかもしれない」
「そう、あって欲しいです。しかし……私はもう……手遅れです」
「…………なんだって? まさか……」
「自分の息子に、いきなりこんな前例もない処置は出来ません。安全性の確認のため、昨夜、自分を実験台にしてみたんです」
「……なんてことだ」
八幡は思わず天を仰いだ。
彼の研究室では、G細胞と様々な生物の万能細胞との細胞融合を行っていた。
成功すれば『G万能細胞』とでも呼べるものになり、自己治癒力を飛躍的に増進できる。
単細胞生物から、無脊椎生物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、ほ乳類と順を追って、それら実験動物にG万能細胞を体内へ注入してきた。
その結果を踏まえ、人間の細胞での実験を行う段階にまで至っていた。
だが、まだ実際に人間そのものにG細胞を組み込んだ実験例はない。
どのような影響が現れるかは未知数なのだ。伊成が自身の体にG細胞を組み込んでしまったのが昨夜ならば、すでになんらかの変化か、その兆候があっても不思議ではない。
「私は、この部屋に自分を隔離するつもりです。もし、危険な兆候があった時は……」
「……わかった」
「それと……息子、明の容態が、死の寸前にあったとは思えないほど、安定していることが、唯一の救いです。できるなら、あいつを救ってやってください」
「明君のことは、任せてくれ。不本意ではあるが、貴重なデータとなるだろうしな。もちろん、君の治療も、私が責任をもってやらせてもらう」
すべてを話してうなだれた伊成に、八幡は言った。
*** *** *** ***
「ふうう……」
明は、深いため息をついて、ベッドに横になった。
さっきまで、様々な注意事項について説明を受けていたのだ。
すぐには信じがたい話であり、それを我が身に起こった現実として受け止めるには、正直時間がかかりそうだった。
『巨獣化してしまう可能性は捨てきれない』
八幡教授はそう言っていた。
明は毛布をひっかぶると、ブルルっと体を震わせた。名状しがたい恐怖が込み上げてくる。そうなってしまった場合、人間はどのような形態になるのか、どこまで大きくなるのか、そして、心は人間のままでいられるのか……すべてがファーストケースであり、何一つ分かってはいない。
せめてもの救いは、この研究所、シートピアアカデミーがG細胞研究の最前線であり、あらゆる事態に対応できる技術と設備があるということであった。
(とはいえ……思い悩んでみても、仕方ないよな……)
考えてみれば、つい数日前まで自分は死の床にあったのだ。
父は何度も詫びていたが、明には父を責める気持ちは少しもなかった。
末期ガンの苦痛を緩和するためのモルヒネで朦朧としていた頭は、闘病の記憶とて判然とはしない。
だが、一度は完全に死の淵まで行った自分が、栄養点滴ではなくもう一度まともな食べ物を口にして、苦痛を気にせず楽に眠れる。それだけでもありがたかった。
ネットで大抵の情報は手に入るから、明も自分の病気のことはよく知っていた。
昨年、某国立大学の理学部を受験し、合格はしたものの、入学直前に激しい頭痛に襲われて入院したため、学校には行っていない。休学扱いにはしてもらったが、大学に通う日は来ないものと理解していたのだ。
入院生活は殺風景な病室と検査室、処置室の往復だけであったから気持ちの余裕もなかった。
「それどころか、あんな可愛い女性と知り合えたんだからな……名前とか聞けばよかったなぁ…………そういえば、年はいくつなんだろう……ま、年上なんだろうな……」
僅かに口元を弛めながら、思わずひとりごとを口にする。
明の脳裏には、あの眼鏡を掛けた少女っぽい女性研究者が浮かんでいた。生真面目そうな真っ直ぐな姿勢と視線、落ち着いた雰囲気に似合わない慌てた仕草、優しい高いトーンの声が気になって仕方ない。
搬入時のカルテでは十八歳になっていたが、長期入院中に誕生日を迎えたため、明は今、十九歳だ。だがプロの研究者である彼女が大学も出ていないはずはなく、最低でも四つは年上だと見当はつく。
闘病生活の間、看護師さんやお見舞いに来てくれる高校の同級生など、同じ年映えの異性がいなかったわけではない。しかし、先も見えないあの頃は、とてもそんな気持ちにはなれなかった。
治療のつらさだけでなく、五年前に母を失い、今、一人息子の自分がいなくなることで、一人ぼっちになる父のことが心配だったこともある。
半年前、病状の悪化した自分を置いて、父が海底のG細胞研究所に行くと言い出したのは、治療法を探すためではないかと薄々感じてはいたのだ。
(それにしても、まさかこんな事になっちゃうとはなぁ……)
明は、またため息をつき、今度は本格的に眠る体勢になった。
*** *** *** *** ***
翌朝……といっても、深海のことであるから、日差しが差し込んできたわけではない。顔に当たる人工照明と、カチャカチャという金属がふれ合うような音で明は目が覚めた。
照明はタイマーで点くのか、入ってきた白衣の女性が点けたのかは分からない。なんにしても、必要以上に明るい気がして明は呻いた。
「えらく……眩しいですね……こんなに電気のムダ遣いをしていいんですか?」
「あ、目が覚めたんですか?」
振り向いて微笑んだのは、昨日の眼鏡の女性であった。
「ええ……」
相変わらず落ち着いた、しかし少女のように澄んだ高いトーンの声に、知らずに鼓動が早くなるのを感じながら明は答えた。
「ここの研究所、電気だけは有り余っているんです。海底と海面の温度差を利用しての発電で、充分すぎるほど賄えちゃうんですよ」
「へえ、そうなんですか」
「光量が強いのは、何ヶ月も海の底にいなくちゃいけない私達所員の健康維持のために、太陽灯にしているからなの」
話しながら、ベッド脇に置いたステンレスのワゴンの上に医療器具を並べていく。入院期間の長い明にとっては、見慣れたものばかりだ。
「採血するから、じっとしててね?」
眼鏡の女性は、明の左腕にゴムのバンドを手際よく巻いた。いつのまにか、口調がざっくばらんなものになっている。
明は、親指を握り込んで手に力を込めた。こうすると、血管が浮いて探りやすいのだ。
「あ、ありがとう。そうか、明君、入院してたんだもんね」
「ええ、ほぼ、毎週採血でしたから……」
「そ、そうだね。大変だったね……」
言ってはいけないことを言ってしまったと思ったのだろうか。
血液の充填されたガラス製のシリンダーを振りながら、女性の耳は真っ赤になっていた。
「あ! そうだ!!」
突然。なにか思いついたように急に大きな声を出した女性は、息がかかるほど顔を近づけて、明の目をのぞき込んだ。香水などではない、微かな体臭とシャンプーの香料が混じった甘い香りが鼻腔をくすぐる。その真っ直ぐな視線から思わず逸らした視界を、つややかなピンクの唇と真珠のような歯の白さが埋め尽くした。
「は……はい?」
「あのね。ひとつ忠告。ひとりごとは聞かれちゃうから、やめた方がいいよ?」
どぎまぎしている明に小声でそう言うと、女性はいたずらっぽく笑った。
「え゛…………!?」
何を言われたのか分からず、明はほんの数瞬考え込んだ。
だが、漸くその言葉の意味を理解した瞬間、こんどは火照った顔から一気に血の気が引くのを感じていた。
この部屋はモニターされていたのだ。
教えられてはいなかったが、たしかに常識的に考えれば当然の措置だろう。G細胞の影響下にある今の明は、急に状態が変化する可能性もあるのだ。
明は自分のうかつさに呆れた。しかも、ひとりごとというとアレしかない。
『それどころか、あんな可愛い女性と知り合えたんだからな……名前とか聞けばよかったなぁ…………そういえば、年はいくつなんだろう……ま、年上なんだろうな……』
にやつきながら口にした自分の言葉の一言一句が、何度も脳内を反響した。一度血の気の引いた顔が、今度は全身の血が集まったように熱くなっていく。
「そりゃあ、彼女が可愛いのは誰だって認めるけど、いきなりだとビックリしちゃうよ。でも大丈夫。あれ聞いてたのって、当直だった私だけなんだから」
声を潜めて、ひそひそと話す眼鏡の奥の瞳を見返しながら、明は声も出せないでいた。
明が『可愛い』と言ったのは目の前の女性のことなのだが、当の本人は微塵も気づいていない様子だ。
それにしても、『彼女』とは、誰のことを言っているのだろうか?
(ああ、そういえば、昨日のメンバーの中にもう一人女性がいたっけ?)
明は、白衣の群れの中にもう一人だけ女性がいたことを思い出した。
「彼女、ホントきれいだよねー。大学の後輩なんだけど、優しいし、マジメだし、性格も明るくていい子だよ」
そう言われても、明はその女性の顔すら思い出せないでいた。
昨日は主に八幡教授から説明を受けたのだが、八幡教授の表情を見る以外は、ほとんどこの眼鏡の女性しか見ていなかったのだから無理もない。
「あ、ああ……そう、ですよね…」
明は、我ながら妙な返答になってしまったと思ったが、それを図星を指されてうろたえたものと判断したらしく、女性は声を潜めたままくすくすと笑った。
「だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ、って。人間は体の健康だけじゃなく、精神衛生だって大事なんだから、こんな所に閉じこめられていたって、恋ぐらいしなきゃね。ライバルは多いけど…………私も応援してあげるよ……」
そのとき、女性の表情に、かすかな陰りを見つけて、明はとまどった。
しかし、その陰りは一瞬で通り過ぎていった。すぐに屈託のない笑顔に戻ると、モニターしている相手に聞かれないためだろうか、女性は明の耳元にさらに顔を近づけた。
「彼女ね。雨野いずもさんっていうの。年は二十三歳。落ち着いて見えるけど、若いでしょ? でも、4つ年上っていうと、ちょっと離れすぎかな? それでね……」
女性がさらに「雨野いずも」さんの情報を教えようとしゃべり始めた時、天井からブザー音が鳴った。
「松尾君、そろそろ戻ってきてもらえないか? 朝のミーティングの時間だ」
愛らしい声が耳元で囁き、息がかかる夢のような時間から、明は一瞬にして引き戻されていた。
松尾、と呼ばれた女性があたふたと出て行った後、明は緊張が解けてベッドに沈み込んだ。
(思いっ切り勘違いしてたな、あの人……)
しかし、勘違いしていて助かったような気もするし、自分をまったく意識していない証拠とも言えるので、残念な気もする。しかも彼女について分かったことは、名字が松尾さんで、年齢は少なくとも二十三歳よりは上、ということだけだ。
(まぁ、これから親しくなればいいんだし……な)
明は、とりあえず良い方向に考える事にした。それにしても、自分の体がどう変化するのか分からない状況のくせに、女性が気になる自分自身にも驚いた。
自分の身に起きていることが現実離れしすぎていて、いまいち実感を伴っていないこともあったが、目覚めてからずっと、自分の体に対して根拠不明の安心感というか、自信に近いものを感じていたのだ。
(たぶん、オレも父さんも大丈夫だ。母さんを失い、闘病生活でもあれだけ苦しい思いをしてきたんだ。これ以上辛いことなんて、あってたまるか)
だが、明は自分の思考が、健康時どころかいまだかつて経験したことがないほどクリアになっていることに、気づいてはいなかった。そして、それこそがG細胞の影響だということにも。