4-5 見えない敵
「ぐ…………っ」
息が出来ない。見えない何者かが、明の胸の上にのしかかってきているのだ。地面に仰向けにされた明は、虚空をつかむように腕を伸ばした。すると、トゲトゲとした鱗のようなものが、掌に食い込む。表面をなぞっていくと、自分の胸の肉に食い込む鋭い爪に辿り着いた。
明は、その爪を手で掴み、押し返そうとした。だが、常人を超えた明の力をもってしても、その透明な爪を、僅かに浮かせるのが精一杯であった。
(そういう……仕組みか……)
素手で掴んでみて初めて、見えない理由が理解できた。敵は、透明なわけではないのだ。周囲の色彩に合わせて、瞬時に変色しているだけ。保護色、あるいは色彩擬態と呼ばれる、擬態の一種に違いない。が、どれほど優秀な色彩擬態を誇る生物でも、これほど高速に、しかも見事に変色する生物は存在しない。しかも透過光や背景の質感まで再現している。おそらく体表面に光学センサーといえる器官があるのだろうが、恐るべき光学迷彩だ。
触れているにもかかわらず、そして明の超人的な視覚を持ってしても、敵は背景に溶け込み、ほとんど視認できないのだ。
「ぐ……がっ!!」
ようやく右胸にのしかかる爪を浮かせたと思った瞬間、今度は左胸に衝撃を食らって、明は呻いた。別の足で踏みつけられたに違いない。次に襲ってくるのは見えない牙か、それとも爪か。明の背に冷たいものが走った。
明の筋力は常人を遙かに超えている。相手が見えさえすれば、素手であっても活路が開けるかも知れない。だが、こうも相手が見えなくては、対処のしようがなかった。
(く……そ……ここまでか!!)
ついに覚悟を決めた明が、体の力を抜こうとした瞬間、突然、周囲の景色が変わった。
まるで薄暮時のように、薄いオレンジ色の光に包まれ、視界が白黒画像のように変化したのだ。
あらゆるものに影が生まれ、モノトーンと化したすべての物体が、明瞭な輪郭を持って浮かび上がる。明の体を押さえつけていた敵の色彩擬態も解け、その古代の恐竜にも似た姿を露わにした。
目の前には、首を左右に傾げる、無表情な爬虫類がいる。噛み付くタイミングを無表情に狙っていたその目に、明は右手を突っ込んだ。空手で言う抜き手である。
そしてそのまま、目玉をえぐり出す。脳に直結する目を抉られたその生物は、大きく仰け反ると、数メートル飛び退り、顔のあたりを手で掻き毟り始めた。
立ち上がろうとした明は膝をつき、咳き込みながら顔を上げて、ようやく相手の全身を確認することが出来た。
そこにいたのはやはり、バシリスクの幼獣であった。しかし先ほど目の前で孵化したものより数段でかい。先に孵化していた個体の中に、既に擬態能力を完全に身につけたものがいたのだろう。
『よし!! 発射!!』
突然、電子変換された男の声が響き、苦痛にのたうつバシリスクの頭部が、まるで柘榴のように吹き飛んだ。よろめきながら立ち上がった明は、国道側に、見たこともない巨大な車両が止まっているのを見た。
小型機銃のような射撃音は、その車両から起きたものらしかった。
「何をしている!! 早くこっちに来い!! 本格的な攻撃が出来ないだろうが!!」
今度はハッチを開けたのか、肉声が響くと同時に、機銃の射撃音は続けざまに響き、明に近寄ろうとしていたに小バシリスクを、次々に撃ち倒していく。あっという間に建物の周囲には、無数の小バシリスクの死体が転がった。色彩擬態で見えなかっただけで、卵から生まれた数の、数倍のバシリスクが周囲に潜んでいたのだ。
機体のハッチから飛び降り、よろめく明を抱き止めたのは銀色のパイロットスーツに身を包んだ欧米系の顔立ちの男であった。
「あ……ありがとうございます。あなたは?」
「俺はMCMO所属。チーム・ビーストのオットー・ゲーリンだ。お前こそこんなところで何をしている? この小さな巨獣どもは何だ?」
オットーはたしかに擬態能力のある巨獣をあぶり出し、処分するために出動したのだが、こんなに数がいるとは聞いていなかった。まして素手で巨獣と渡り合う男の存在など。
「こいつらは……シュラインの細胞を受け継いだ巨獣の子供です。僕は……人を探しているんです」
「人だって?」
「はい。あの機動兵器……巨獣の擬態能力を打ち消せるんですか……?」
「ああ。あのオレンジ色の光はカトブレパスの機能の一つなんだ。周囲に一定波長の偏光を照射することで、擬態能力のある敵を視覚化し、あぶりだせる。あいつら何匹いるんだ? このまま一気に殲滅してやるぜ」
「まだ……攻撃しては……ダメです。中に……松尾さんがいる」
明は、小バシリスクの死体を憎々しげに眺めて言い放つオットーを、両手で押しとどめるようにすると、ふらつく足どりで建物の入り口へと歩き出した。
「バッカ野郎!! そこはたぶん巨獣の巣だぞ!! 死にたいのか!!」
明はその声には応えず、ふらふらと建物の中に入っていく。
「……ひどい」
建物の中は、血臭で満ちていた。
孵化したバシリスクは、卵を温めていた人間を食べるのだ。この中に紀久子がいたとしたら、無事とはとても思えない。
「だけど……気のせいか? 松尾さんの匂いが感じられない」
いや、感じるには感じるのだが、たった今までここにいたとすれば、もっと強烈にその匂いを感じているはずだ。明は、少しだけ希望を見出した気持ちになった。
「おい!! お前、大丈夫か?」
カトブレパスから持ってきたのだろう。オットーが自動小銃を構え、腰を低くして建物に入ってきた。
「よくこんなとこへ一人で……って、お前いったい何者なんだ?」
オットーは明に詰め寄った。小型とはいえ、巨獣と素手で渡り合っていたのだ。当然の疑問と言える。
しかし、振り向いた明はオットーの疑問に答えず、驚いた表情で叫んだ。
「いけない!! どうして来たんです? 早くあの戦車に戻って下さい。奴等はさっきの機銃掃射くらいでは全滅していない!!」
「なんだと? 何をバカな。見ろ、生き残っている人もいるんじゃないのか」
たしかに、血臭に満ちた室内のそこここに、呆然と立ちつくしている人影がいくつかあった。
その中に紀久子の姿がないことを、明はすでに感じていたが、たしかに放っておくわけにはいかない。
生体電磁波の中継器としてのバシリスクを失っているせいか、生き残った人々は一時的に正気を取り戻していた。
「た……たすけて……くれ」
か細い声が響く。
「大丈夫か? こっちに来るんだ」
伸ばしたオットーの手を、明が横からつかんで制した。
「待って下さい。生き残っている人達は、おそらくシュライン細胞の感染者です。体液に触れないように気をつけて保護しなくては……」
「……分かった。とにかく、いったんカトブレパスに戻ろう」
オットーと明は、二十人ほどの生き残りを連れて、敷地を出た。
明の言った通り、地面に転がったバシリスク達はひくひくと蠢きながら、再生しようとしている。ほとんどの個体は宙を蹴るような仕草をしているだけだが、中には既に立ち上がりかけているものまでいるようだ。再び動いて襲いかかってくるのも時間の問題と言えた。
「くそ。なんて再生力だ。このままじゃあ、またこの人達が操られてしまう」
明が顔に恐怖の色を浮かべて言った。
「オレのカトブレパスには、触媒用の水タンクがある。あそこは今、空だから、二十人くらいなら入れておける。通気も確保できるしな。まあ、乗り心地は保証できないし、戦闘になれば車酔いくらいはするだろうがな」
「お願いします」
「おう……って、お前は乗らねえのかよ?」
「さっきも言ったでしょう? 探している人がいるんです。見つけるまでは逃げません」
「馬鹿かお前!? そうやって燃えてるとこみると、相手は女なんだろうが、お前が死んじまっちゃ何にもならんぜ!?」
「彼女を死なせて、オレが生きている価値など無いです」
言い終わるか終わらないかのうちに、明は走り出した。
建物にいないなら、鶏舎だ。
先ほどの戦闘で負った傷は深い。体のあちこちが痛む。
死体と血糊にまみれた室内を見たせいで、絶望にとらわれそうになっている心も重い。
だがとにかく、紀久子を探し出すまで、一瞬たりとも休むつもりはなかった。
「ちぇっ……カッコつけやがって。カッコいいじゃねえか……って、あいつなんでドイツ語しゃべってやがったんだ?」
オットーはそれまで明といつの間にかドイツ語で会話していたことに気づいて、目をむいた。こっちに来てから、ああも流暢にドイツ語をしゃべれる日本人になど会ったことがない。
最初は確かに日本語で話しかけたはずだ。
しかし、後半はたしかに相手も自然にドイツ語をしゃべっていた。
「一体何者なんだアイツ……って、ああっ!! 名前聞くの忘れたよ!!」
すっかりノリつっこみが口癖になってしまったオットーは、コクピットで頭を抱えた。
『オットー!! どうしたの!? 応答して!!』
カトブレパスに乗り込み、通信機付きのヘルメットを被った途端、耳元でマイカの声が騒ぎ立てた。
「聞こえてるぜ。そんなにがなり立てなくてもよ」
『馬鹿! なんでコクピットから降りてンのよ!! 私達、とっくに出撃してんだからね!!』
「何!? 巨獣どもは今から、とどめ刺すところだぜ?」
言いながらも、オットーは高周波レーザーのレンジを広範囲に指定し、もがいている小バシリスク達を焼き殺し始めた。高出力の電子レンジに入れたように、小バシリスクは動きを止め、体表面がグツグツと蒸気を発し始めた。これで生きていられる生物はいないはずだ。
しかし、マイカの怒りの声は収まらなかった。
『あーもう!! だから馬鹿だって言ってンの!! バシリスクが五体!! あんたの機体から五キロ東に現れてるわ!! すぐに来て!!』