2-1 海底の巨獣王
「う……」
いきなり、強い光が網膜を焼き、伏見明は呻き声を上げた。
どうやら意識を失っていたようだ。時間感覚がまるでない。しかしこうした経験は初めてではなかった。失った意識を無理矢理取り戻した直後は、いつもこういう混乱状態に陥る。
とりあえず、自分の居場所と周囲の状況を確認しなくてはならない。
明は機械的にそう思った。
どうせ病室か検査室のどちらかなのだろう、と、首をめぐらせたが、目に入ってきたのは見慣れない景色であった。
病室にしては雑然としていて、集中治療室にしては物々しさがない。
ともあれ、治療のために用意された場所であることは間違いなさそうだ。末期ガン患者の自分をこうまでして蘇生させてどうなるのか、そんな思いが胸を焼く。
自虐的な思いを呑み込みながら、こちらに背を向けて作業をしている白衣の人物に声をかけた。
「あの…………」
とたんに、その人物はびくんと震えて振り向いた。
まるで、幽霊か何かにでも声をかけられたかのような表情である。
「あ……え、と……もしかして意識が戻ったの?」
「ええ、主治医の高木先生……はどこです?」
患者が目覚めたくらいで、それほど驚くことだろうか。半ば呆れつつ、明は答えた。
答えながら、その白衣の女性を改めて見る。
医師のような白衣を着ているところを見ると、看護師ではなさそうだ。ピンクがかった銀縁の丸い眼鏡を掛けている。
レンズに入りきらないほど大きな目は、少し下がり気味で愛嬌があった。清潔そうに切りそろえられたくせのない髪は、後ろで一つに束ねられ、肩の辺りでゆれている。
明より年上には違いなさそうだが……身長の低さと、生真面目そうな口調から、まるで少女のような印象を受けた。
「た、高木先生? え……と、あのね、君は、意識を失っている間に転院したんです。すぐあなたのお父さんを呼んできますね」
はじかれたように部屋を飛び出していった女性を見送ったあと、明は、不思議と頭が軽くなっていることに気づいた。
(っていうか、オレ、腫瘍のせいで左目の視力、無くなってなかったか?)
右目を軽くつぶってみるが、問題なく見える。
意識を失う前は、間断なく襲ってきていた頭痛もない。なにより、ずっと朦朧としていた自分がここまで論理的に物事を考えることが出来たのは何ヶ月ぶりだろうか。
久しぶりに……そう、約二ヶ月ぶりに明は体を起こしてみた。
(今日はよほど調子が良いんだな……死ぬ寸前にはすごく調子が良い日が、一日だけおとずれるって聞いたことがあるけど、それかな……?)
明は体調の変化をそんな風に考えた。
これなら、もしかすると立ち上がれるかも知れない。どうせ死ぬのであろうが、その前に少しでもやりたいことをやれるならありがたい。
そんな風に思っていたところへ、いきなりドアが開いた。
どやどやと入ってきた人々は、全員白衣姿だったが、何故か医師には見えなかった。医師と違って前ボタンをきっちり留めているからだ、と気付いた時、その一人が泣きそうな顔で歩み寄ってきた。
「と……父さん!!」
明は驚きの声を上げた。それは明の父、伏見 伊成だったのだ。
父は、いきなり明を抱きしめてきた。その目はうるんでいるのがはっきりわかる。だが、明は状況の分からない不安と照れくささから、素直に再会を喜べなかった。
「ちょ……ちょっと父さん……苦しいよ。オレ、病人だぜ?」
「…………いや、おまえはもう、ガン患者ではないんだ。」
「はぁ? 何言ってんだよ? そんな簡単に治る状態じゃなかったことくらい、いくらオレにだって……」
とはいえ、異常なほど体調が良いのは確かだ。
とまどう明に、もう一人の白衣の男性が話しかけてきた。
「本当だよ、明君。とはいえ正直、手放しで喜んで良い状況ではないのだが……とりあえず、君に生命の危機は当面のところ無い」
にこやかな表情。だが、どことなくぎこちない。
年齢は父と同じくらいか。会ったことはないが、その顔にはなんとなく見覚えがあった。
「どこか不都合なところ……そう、痛いところとか、苦しいところはないかね?」
「どこもありません……あの、あなたが新しい主治医の先生ですか?」
「いや、主治医ではないんだが……まぁ、君の今の状態における責任者ではあるな」
その男性は、困ったような表情で言った。
服装や立ち居振る舞いから、本職が医師でないことは明にも予想できる。回りくどい言い方は、説明のしようがないほどややこしい事情を、どう説明したものかと迷っている、そのように見えた。
「私は、八幡という……君のお父さんの研究者仲間だ」
「父と同じ生物学者……? じゃあ、あなたがG細胞研究の八幡啓介博士?」
顔を見たことがあるのも道理だった。
G細胞の医学的応用技術の世界的権威であり、新聞にも何度も取り上げられている研究者だ。
「じゃあ……つまり、オレのガンが治ったってのは……まさかG細胞の……」
「そうか…………知っているのなら話は早い」
ほっとした後、急にその表情を険しくした八幡の後ろで父が何故かうつむいている。
「せ……先生、今、その話は……」
先ほど目覚めた時、傍にいたあの眼鏡の女性が、心配そうな表情で八幡に言う。
「いや、ここで話しておこうじゃないか。いつまでも隠しておくことは出来ないんだ。自覚症状が出てくれば、彼自身にも協力してもらわなくては、我々にとっても危険なことになる」
「危険なこと?」
明は、まだ彼らの言っている意味が、よくつかめない。
「いいかね明君。君の体には、G細胞由来の細胞質とDNAが組み込まれたんだ。とはいえ、最新の技術を用いているから、命の危険がないことは保証しよう。ただ……」
「……ただ、何です?」
八幡は、言葉を探すように虚空に目を泳がせてから言った。
「……外見、能力、生理的機能を含めて、今後、君が常人とかけ離れた存在に変化してしまう可能性は……非常に高い」
*** *** *** ***
二十一世紀初頭から、G細胞は各国で研究されていた。
『巨獣G』歴史上、何度となく世界を危機に陥れてきた、巨大生物。
地球上にただ一個体。
通常兵器も通じず、毒物も効かず、極寒から灼熱地獄まであらゆる環境に耐える巨獣Gを、その生態や生理、生物学的情報を科学的に分析し、駆除、抹殺する手段を模索する。そのための研究であった。
だが、その生物学的特異性が明らかになるにつれて、その膨大な遺伝情報と、特殊な身体能力、不死に近い生理機能に、人類は希望を見出すようになっていたのだ。
特に医療分野で注目され始めたのは、再生医療、遺伝子治療といった分野であった。近年、革新的な医療技術は数多く発表されていたが、その技術を臨床段階にまで進めるには、いくつかの壁があり、それをクリアする基本技術が待ち望まれていた。
G細胞はその可能性の一つだったのだ。
まず、細胞分裂の回数に制限がない。つまり、基本的に老化しない。
多細胞生物の細胞死、アポトーシスは、個体をより良い状態に保つために引き起こされるもの……すなわちプログラムされた、細胞の寿命のことだ。
ところがG細胞の場合、アポトーシスを起こす前段階の細胞膜変化の後、細胞核が凝縮せずに万能性を回復し、細胞は組織から分離してしまう。
体液の流れに乗った細胞は、次々とその役割を変えつつ、様々な組織に変化する。
つまり分化した細胞が全能性を保っているのだ。
ということは、細胞分裂した分だけ体細胞数が増えていくことになる。こうして積み重ねられた細胞分裂の結果として、巨獣化が起こる。細胞が死なないでいつまでも残り続けるのだから、当然の帰結だ。
また、個体としても不老不死である。
Gは、これまで三畳紀の恐竜類、もしくは獣型爬虫類の生き残りとされてきたが、近縁種と思われる化石はひとつも発掘されていない。
それは形態、生態、ともに系統的に類似した生物がいないということでもある。
北米で発見されたゴジラサウルス・クエイイと呼ばれる肉食恐竜の化石は、外見の形態こそ近いのだが、基本骨格の相違などから近縁種とは見なされていない。
近縁種が見つからないのは、ただ一個体で悠久の時を生き続けてきたためなのかも知れなかった。
また、G細胞は、IPS細胞やES細胞といった万能細胞とよく似た性質を持ちながら、ガン細胞化することがない。
単にガン化しないというだけではなく、発病していたガンの消滅までも確認された。
しかも、免疫強化、欠損部位の自然修復、運動能力の飛躍的向上など、あらゆる生物で劇的な効果が見られた。
ついに、不老不死の妙薬の糸口が見つかったのかも知れない。
巨獣化という問題さえクリアできれば、人類は死を超越出来る。
人々は驚喜した。
G細胞サンプルは、全世界の研究機関に分配された。
しかも医学的平和利用という建前であったため、危険性の面は楽観視され、ほとんど何の規制もかけられなかったのである。
結果的には、それが大きな過ちであった。
G細胞の性質を組み込まれた生物の多くが巨獣化し、予想を超える能力を身につけて研究施設から脱走したのだ。
研究施設そのものを破壊してしまった例もある。
実験生物だけでなく、一部のルーズな実験環境においては周辺の野生生物までもが巨獣化した事件まで起きた。
巨獣と化した様々な生物達が、世界中でほぼ同時期に暴れだし、それに呼応するかのように巨獣Gが目覚め、日本に上陸……。
人類の経験するバイオハザードとしては、未曾有の惨事を引き起こしたのである。
最新兵器を使っての総力戦で、ほとんどの巨獣が殺処分された。しかし世界中で十一の都市や町が壊滅し、死者、行方不明者は二百万人を越えた。
町ごとすべての住民が死に絶えた例も少なくない。
被害はあまりにも甚大であった。
それが十五年前に起こった『巨獣大戦』である。
皮肉なことに、この時生まれた協力関係によって、世界はこの十数年、過去に例を見ないほどの平和と安定を手に入れていた。
そして、この巨獣大戦の引き金をひく結果となった、G細胞の研究に、人類は、大きな反省を持って向き合うこととなった。そして、もっとも被害の大きかった日本の首都、東京で国際会議が開かれた。
そしてGの研究、対策に関する国際間条約「Gの生態および生物学的研究に関する国家間条約」通称「東京G条約」が締結され、ほとんどの国がこれに加盟したのである。
G研究に関しても厳しすぎるほどの条件が設定された。
それは、以降のG細胞研究をほぼ禁止するに等しい内容であったのだ。
しかし人類の夢、ガンの克服と不老不死が目の前にぶら下がっているのだ。
たとえ危険があろうとも、なんとか研究すべし、という意見は根強く、危険を叫ぶ反対派との間では常に議論があった。
そして条約締結から約五年後、つまり今から十年前に、深海に沈んでいたGの遺体が発見されたことを契機として、厳しい条件をクリアできる研究施設が、国連とWHO主導の元で建設されることとなった。
G細胞の研究はきわめて限定的に、また隔離された空間でのみ、行われなければならない。そこで、研究施設は深海に作られることになったのだ。
水深二千メートル。
東京湾から百数十キロ離れた、御蔵島近海の海底。
そこに造られた海底の集落さながらのドーム群こそが、その研究施設であり、伏見明が運び込まれた『シートピアアカデミー』であった。
研究施設となっているドームは大小十数個。
そのすべてが通路でつながっている。一番大きなドームで、直径は数十メートルといったところだ。大きなドームのいくつかは海面の浮遊式基地と透明なパイプ状のエレベーターで接続されている。
そしてそこから数百メートル離れた海底に、うずくまる巨大な生物の遺体があった。
下半身は完全な形状を保っているが、前頭部から背部にかけては大きく欠損している。
上顎から頭、首筋、背中にあるはずのサンゴ状のヒレ……これらは、まるで内部から破裂したかのように激しく損壊し、あるいは完全に失われていた。
剥き出しの白い肉。
欠損した頭蓋。
とても生きてはいないことが、一見して分かる。その体がわずかに燐光を放っているのは、表面に付着した発光微生物のせいであろうか。
それが十五年前、地上を蹂躙した「G」と呼ばれる巨獣の最後の姿であった。