3-4 紀久子
「痛………」
紀久子は激しい頭痛を感じて目覚めた。
「松尾君! 目が覚めたのか?」
目にまぶしい光が飛び込み、自分をのぞき込むひとつの顔がぼんやりと見えた。
長い間意識を失っていたような気がする。目もなかなか像を結ばない。
「あ……ここは?」
「国立病院だ。君はかなり危険な状態だったんだぞ。無理しやがって」
「高千穂……さん?」
ようやく焦点が合った。紀久子を見下ろしていたのは一人の青年だった。彼女がよく見知った顔である。
高千穂守里。都内の国立大学で、生態系工学研究室の講師を務める研究者だ。
「今、ナースコールを押した。すぐに看護師が来るよ」
「ここ……病院ですか?………集中……治療室?」
周囲を見渡した紀久子はつぶやいた。
特徴的な真っ白の壁が周囲を取り囲み、同じく真っ白なベッドの傍らには心電図や血圧、脳波をモニターする装置が置かれている。自分の体から出たいくつかのチューブがそれらの装置に繋がっていることに気付き、紀久子は少し苦笑いをした。
「ごめんなさい。心配掛けたみたいですね……」
「当たり前だ。君はあの事件から丸五日間、意識が戻らなかったんだぞ。もうすぐご家族も来られるはずだから」
優しげな目で見つめる守里は紀久子の恋人であった。
だが紀久子が海底ラボに赴任して以来、ここ数ヶ月会っていない。意識を失っていたのなら面会謝絶である。本来なら身内しか面会できない状態であったのだろうが、家族に代わって付き添ってくれていたのだろう。紀久子は懐かしさに胸が熱くなった。
「高千穂さん、ありがとう……付き添ってくれて。あの、八幡先生達は?」
海底ラボを脱出しようとしたところまでしか紀久子の記憶はない。彼等は無事に地上に戻ることが出来たのだろうか。だが、守里は少し目を逸らすと暗い表情で言った。
「今、Gが首都圏に上陸して居るんだ。八幡先生は責任上その対策に追われているはずだよ。
自衛隊とMCMOの最新兵器が、Gを処分するために出動している。ご家族がここにいらっしゃらないのは、ご自宅へ避難準備でいったん帰られたからなんだ」
「Gが……!?」
紀久子は大きな目を更に見開いて口に手を当てた。
脳裏に、深海で自分を優しくつかみ上げて助けてくれた巨獣の姿が浮かんだ。そこで自分の記憶は途切れている。あの時、Gはどうして自分を助けてくれたのだろうか? それとも違う意図で自分をつかんだのか?
その表情を恐怖と勘違いした守里は、布団の上から優しく紀久子の体を叩いて言った。
「大丈夫だ。人間も十五年前とは違う。
巨獣に対応する武器も作戦も進化しているんだ。最新兵器が必ずヤツを倒してくれるだろう。
しかし、この事態が落ち着けば八幡先生が責任をとらされるのは間違いないだろうな……。実験の失敗でGが復活して逃げてしまったなんていうのは、どう考えても八幡先生のミスだ」
「そ……それは違います。Gの復活はたぶん、シュライン博士のせいなんです」
「ふむ……その名前は八幡先生達も口にしていたらしいが……マーク・シュラインなんて人物は記録に残っていないんだ」
「え!? あ……痛っ」
紀久子は守里の言葉に驚いて飛び起きたが、傷の痛みに頭を抱えることになった。
気がつけば頭だけでなく体中が痛む。特にシュラインに貫かれた右肩はひどく痛んだ。ギプスか何かで固定されているようだが、かなり腫れてもいるようだ。
「おやおや。怪我人を興奮させてはいけませんね」
「あ、すみません、先生」
紀久子の意識が戻ったのを、ナースセンターのモニターで確認したのだろう。年配の医師が看護師を伴って入室してきた。
簡単な診察を終えた医師は、栄養点滴だけを残して紀久子の体からすべてのチューブを取り去った。
そして看護師に紀久子を一般病棟に移すよう指示する。意識が戻った以上は、脳や内臓には大きなダメージはないと判断したのだ。
「さっきのお話、どういう事ですか?」
身軽になった紀久子は、大きくため息をついてから守里に目を向けた。
医師と二人の看護師はすでに退室している。
「どうもこうも、言った通りだよ。シュライン博士という人物は存在しないんだ」
「でも、そんなはずは……私も彼の論文を何本か読みました…………」
「ああ、その論文はマークじゃなくてマックス=シュライン。書いた本人は5年前に亡くなっているんだ」
「そんな…………」
「深海ラボで何があったのか、まだ具体的には公表されてないけど、伏見先生親子のことも、Gが蘇ったことも、リケッチア感染症でたくさんの人が亡くなったことも、すべて八幡先生の管理責任だと……」
その言葉を聞いて紀久子はさらに驚いた。
「感染で亡くなった? いったい、誰が?」
たしかに第一ブロックは酷い有様だった。が、素早い抗生物質の投与でほとんどの人が助かっていたはずだ。第二ブロックで亡くなった人はいたかも知れないが、それは建物自体の圧壊によるものだ。
「気を失っていた君が知らないのも無理はないな。リケッチアに感染した人のほとんどが亡くなったんだ。君の研究室の雨野君も………ダメだった」
「いずもちゃんが!? 嘘でしょう?…………」
最後に見た時、いずもは体調不良を訴えていなかった。あの状態から、病状が悪化するなどということがあり得るのだろうか?
「嘘じゃない。そのことでも、八幡先生達は厳しい立場に立たされているんだ」
紀久子はまるで自分の身の上に起きたことが夢だったようにさえ思えてきた。動物と融合する人間など、考えてみればあまりにも突拍子もなく荒唐無稽な話だ。
しかし夢だとすれば、いったいどこから夢だったのか?
あの深海の恐怖。突起に肩を貫かれた激痛。そして明と共有した温かく淡い思い。それも夢だったのだろうか? 紀久子には気持ちの整理が必要だった。
「ごめんなさい高千穂さん…………少し……休ませてくださいませんか?」
「もちろん。やっと意識を取り戻したばかりだからね。ゆっくり休むといい。」
高千穂は優しく笑うと、紀久子の額にキスをした。
「ありがとう」
守里の後ろ姿を見送って、紀久子が布団に潜り込もうとしたその時、急に激しい震動が病院の建物を揺らした。
「な……なんだ!?」
「地震?」
すると、かなり向こうの窓ガラスが割れたような音が響き、看護師のものらしい悲鳴が聞こえた。
「どうも外で何かあったらしい。僕が見てこよう。君はこのままベッドにいるんだ。」
あわててベッドから降りようとする紀久子を制すると、守里は廊下へ飛び出した。
集中治療室周辺には窓がない。十mほど走って重い仕切り扉を押し開くと、その向こうに中庭側に面する窓が見えた。その窓のガラスも割れて、内側に破片が飛び散っている。しかし、そこからなら外の様子がうかがえるはずだ。
窓枠に残ったガラスを肘で叩き割り、窓から顔をのぞかせた守里は、思わず呻いた。
「な……なんだコイツは……?」
そこには鮮やかな緑色をした、巨大なトカゲ状の生物が地面でのたうっていた。
どこかから落下してきたらしく、アスファルトには大きなひびが入り周囲の立木は薙ぎ倒されている。
トカゲ状生物の腹部には大きな黒い穴が開いていて、そこから肉の焦げる異臭を放ちながら、立ち上がろうともがいている。何度も欠伸でもするかのように口を開け閉めしつつ、しかし爬虫類特有の無表情な顔は、苦痛を感じているようには見えなかった。
「巨獣……馬鹿な。G以外の巨獣が蘇ったなんて聞いてないぞ」
守里は逃げることも紀久子のことも忘れ、呆然とその巨大な爬虫類の姿を眺めた。
「キ……キシャアッッ!!」
トカゲ状生物はしばらく虚空を掻き毟るように手足をばたつかせていたが、漸く腹這いになると手足を踏ん張って体勢を整えた。そして自分の体をしげしげと観察したかと思うと、自らの黒焦げの傷口に口を突っ込み異臭を放つ自分の肉を食べ始めたのだ。
白く変色した肉が引きちぎられた痕からは、大量の鮮血がほとばしった。緑色のトカゲ状生物は、それをピンク色をした舌で丁寧に舐めとっていく。
「う……自殺でもしようっていうのか?」
守里は吐き気を覚えて口に手を当てた。
だが焼けた肉が食いちぎられた後の傷口が、見る見るうちに再生していくのを見て、その奇怪な行動の意味に気づいた。
「焼けてしまった組織は再生しない。自分で死んだ組織を取り除いていたってワケか」
ふと、周囲を見るとその怪物に注目していたのは自分だけではなかった。
医師や看護師と思われる人物が数人、呆然と窓から見物している。ほとんどの職員や患者が避難しようとしているのだろうが、どうして彼等は逃げようとしないのか?
傷の癒えたトカゲ状生物は数回頭部を上下させると、両目の上から奇妙な形状の突起物を出した。一見、先太りの角のように見えたそれはフルフルと震動し始め、やがて回転するように動き始めた。その速度は、独立した器官にしては結構早い。初めて見た者であれば、そこに角がある事さえ気づかないかも知れなかった。
「うっ……なんだ……耳鳴り?」
守里は耳を押さえた。
耳元で蚊でも飛んでいるかのような、不快な耳鳴りが彼を襲ったのだ。すぐにその耳鳴りは消えたが、頭の芯に何か重いものを残されたような不快感だけはいつまでも残った。
「なんだったんだ? 今のは……」
何事もなかったように首を左右に何度か傾けたトカゲ状生物は、その場で休んでいるようであった。相変わらず、それを呆然と見ている数人の人間もいる。その奇妙な光景を見ているうちに、守里はその姿が次第に薄くなってきたような不思議な感覚にとらわれた。
「な……んだ? 僕の目がおかしくなったのか? それとも錯覚か?」
錯覚ではなかった。
空から落下してきた巨獣バシリスクはその体色を変化させ、また同時に皮膚の質感を変えることによって、背景に溶け込むように見えなくなりつつあったのだ。
色彩の変化に伴って体の凹凸までもが変化し、地面に平たく埋没していく。
「カメレオン……いやそれどころじゃない。まるでタコの隠遁術じゃないか!!」
数十秒もしないうちに体長四十m、尻尾までの全長では百mはあろうかという巨大なバシリスクの姿は、完全に見えなくなってしまっていた。
そして一瞬間をおいて突風が吹き抜けたかのような衝撃が建物を揺らし、外壁がバラバラと崩れ落ちていく。数秒間、その現象について考えた守里は、はっと気づいた。
これは見えない巨大な何かが外壁を登って走り去ったことを意味するに違いない。
「まずい!! 被害が出る前に、見えない巨獣が潜んでいることを警察に知らせないと!!」
守里はすぐに正面玄関へと走った。この状況では携帯は使えない。施設の緊急連絡電話を使うべきだった。
十五年前の巨獣大戦時には、人間を捕食するタイプの巨獣も多かった。
巨獣の生態に関して早急な情報伝達で被害を防ぐことは、今の時代なら幼稚園児から教育が行われている。そういう意味で守里の判断は極めて正しかったと言える。もし、バシリスクが単にステルス能力を持つだけの、ただの巨獣であったならば。
*** *** *** *** ***
守里が部屋から出た直後、紀久子は奇妙なことに気づいた。
(あれ? 私……メガネ掛けてない)
中学生の頃から近視が進み、長年メガネの世話になってきた紀久子は、メガネが鼻に当たる部分をすっと持ち上げるクセがあった。
無意識にそのクセをやろうとして、そこにメガネがないことにようやく気がついたのだ。
(でも……見えてる。すごく、よく……)
紀久子は視力を確認するため、片目をつぶって扉の方を見た。
「ひっ!!」
息を呑んだのは、そこに見覚えのある姿を発見したからであった。
いつの間に病室へ入り込んだのか、入り口付近に立ってこちらを見つめていたのは、金髪の美少年……シュラインであった。
『僕が見えたようだね……紀久子』
「見えた? あなた、一体何を言っているの?」
『僕は今、ここにはいないんだ。
人間の姿をとるのは面倒なんだ……ただ、僕の細胞を受け入れた人間には、脳へ直接ヴィジョンを送ることが出来るようになったんだよ。やっと強力な発信器を手に入れたんでね』
言われてみれば、シュラインの姿は妙に平面的だ。その体を通して、後ろの壁がうっすらと透けて見えるような気がした。
「私に……あなたの細胞が……?」
『君の肩を貫いてあげたのは覚えているかい? すぐに操ることも出来たんだけど、人間社会に感染源を残しておきたかったんでね。
潜伏させておいたのさ』
「私は……絶対にあなたなんかに操られたりしない」
紀久子は、首筋がそそけ立つような恐怖を感じながら、気丈にも答えた。相手に気取られないよう、出来る限り落ち着いた声を出したつもりだったが、語尾がかすかに震えるのを止めることは出来なかった。
『君の決意はどうでもいい。そんな意思なんかすぐに変わるよ。そして、本心から僕の役に立ちたいと願うようになる……』
ふいっと目をつぶったシュラインは、もう一度目を見開いた。
「あっ!!」
紀久子はその目を見て驚きの声を上げた。
目の位置に穴が開いたかのように、その目は光を吸い込む黒さだった。しかも、目だけがどんどん大きくなっていく。ついに、顔の半分以上を目が占めるようになった時、紀久子は何かに打たれたように、ベッドの上に仰向けに倒れた。
『起きなさい』
シュラインの声が紀久子の脳に響く。天上から降る鈴の音のように、快い声だ。
先程と同じ声とは思えない。あれほど恐れていたのが、まるで無意味に思えた。
「……はい」
紀久子は素直に起き上がった。
『着替えて、ここから出なさい。君には大事な仕事が待っている』
「はい」
虚空に向かって返事を返した紀久子は、ベッドから自然に降り立つと、誰もいない病室を、確かな足取りで出て行った。