20-1 コバルト スカイ
「沖夜。おい。沖夜ゆりぃ、休みかぁ?」
「ゆり!! ゆりってば! 呼ばれてるよ!?」
「は……はいッ!?」
クラスメイトに突っつかれたゆりは、立ち上がろうとしてバランスを崩し、体育座りのまま後ろにひっくり返った。
周囲からクスクスと笑い声が上がる。
「沖夜ぁ……俺も教師生活長いがな。体育の授業中に居眠りってのは初めてだぞ」
呆れ声の主は、逆光で顔はよく見えないが、よく知っている体育教師の角刈り頭だ。
「すすっ……すみませんっ!!」
「まあいい。じゃあ、田中、代わりに答えてやれ」
「はい!!」
ゆりは、隣から立ち上がった女子生徒がハキハキと答えるのを、ぼうっと見上げた。
そういえば、自分は高校生になったのだ、と、あらためて思い出して赤面する。
そんな当たり前のことを一瞬でも忘れた自分は、本当にどうかしている。中学生活最後の思い出となった武道館ライブは、大成功だった。その後、ダブルボーカルの咲良と桃香は大手プロダクションにスカウトされ、ツインズデュオとしてデビュー。
作詞作曲をつとめたヨッコたち……横山姉妹は、芸術科のある都内の高校へ進学した。他のメンバー達も、それぞれ進路は違うが音楽活動を続けているらしい。だが、有名私立校へ進学したゆりだけは、なんとなく音楽から離れてしまっていた。
今はもう四月下旬。
あと数日でゴールデンウィークだが、その直後に待っているのが高校生活初の中間テストとあっては、のんきに遊んでもいられない。
今週最後となる体育の時間は、短距離走の記録会である。
足はさほど速くはないが、遅くもない。だが、勉強に差し支えないよう、筋肉痛にならない程度に軽く流しておこう。そんなことを思いながら、何の気なしに青空を見上げた瞬間。
ゆりは固まった。
(何よアレ!?)
真っ白な雲の隙間から見える、透き通った青空。まさしく抜けるような、と表現していいほどの真っ青な空の向こうに、何かの巨大な影が見えたのだ。
(これ絶対ヤバい……あたし本気で頭おかしくなっちゃったかも……)
巨大な影のディテールが分かってくるに従って、ゆりはそう思った。
それは、ファンタジーに出てくる悪魔のような、黒い鎧を身につけた女性だったのだ。
女性は、指先まで鎧に覆われた腕を真っ直ぐに伸ばし、何か必死で叫んでいるような姿勢のまま固まっている。まるで、空という巨大な画面に映し出された、静止画像のようであった。
驚愕のあまり声が出なかったのは、むしろ幸いだった。
誰も空など気にしていないのだ。もし、あんなものが他のみんなにも見えていたら、大騒ぎになっているに違いない。
息と一緒に声も呑み込んだゆりは、出来る限り空を見ないように、視線を下げたまま体育の授業を終えた。
「ううう……頭、超重い……」
更衣室に向かう廊下で、ゆりは友人の肩に頭を乗せて呻いた。
あれから空は見ていない。だが、急に湧いてきた妙な違和感が、どうしてもぬぐえなかったのだ。自分がここにいることが、何故か不自然なことのように感じて仕方ない。
必死で勉強して合格した有名進学校。
受験勉強の記憶もある。この地方には珍しい降雪で、遅刻しそうになりながら受けた入学試験の記憶も。
知り合って間もないクラスメイト達。勉強は厳しいが、平和で、安全な自分の居場所であるはずの学校。
それが、さっきからまるで落ち着かない。
「頭どけてよ。重いのはこっち。あんた、さっきからなんかヘンだよ?」
ゆりの頭を肩に乗せられた友人は、迷惑そうに言いながらも、頭を撫でてくれている。
「そうそう。居眠りしたり、空見て固まったりしてさ」
どうやら、先ほどの空を見た反応も、周囲に気づかれていたらしい。
「う……うん。なんていうかさ……そうそう、あたし、ずっとみんなと同じクラスだよね?」
「はぁ? 何当たり前のこと言ってんのよ」
「そうそう。あんた、ちゃんと寝てる? 勉強しすぎなんじゃない?」
ケラケラと笑われて、ゆりは思わず赤面した。
*** *** *** ***
(やっぱり見える……あの鎧の人……なんなんだろう?)
ゆりは、自室の窓から夜空を見上げていた。
放課後の帰り道では、雲に覆われていて確認出来なかったが、夜になって晴れた空には、やはりあの、『悪魔のような鎧を着た女性』がくっきりと見えていた。
必死で叫んでいるような表情。
ツヤのある黒い鎧は、漆黒の夜空を背景に、何故かクッキリと浮かび上がって見える。
その姿はよく見ると、悪魔というよりむしろ、カブトムシか何か昆虫のようであった。兜から長く伸びた触覚状のものから想像すると、もしかしてゴキブリなのかも知れない。そう思うと不思議と恐怖感が消え、コミカルな姿に見えて思わず口元がほころんだ。
(そういえばあの顔……よく見ると、咲良に似てる……)
前髪が左目を隠し、兜を深めにかぶっている上に、半身になって伸ばした腕が、顔の何割かを隠していたので気づかなかった。だが、黒い鎧の女性は、ゆりの親友、高千穂咲良によく似ている。
その瞬間、頬に滴る熱いものを感じてゆりは狼狽えた。
(なんで? 何であたし泣いてるの??)
悲しいわけではない。しばらく会っていない咲良への懐かしさはあるが、SNSでのやりとりはいつもしている。芸能界入りしたとはいっても、普通に時間もとれるようだし、会おうと思えばいつでも会えるのだ。
不思議といえば、咲良と双子の姉妹、桃香の名前が出てこなかったのも不思議であった。見分けがつかないくらい似ている二人の筈なのに……。
(そういえば……あの人、ちょっと動いた……?)
昼間もちゃんと見ていたわけではないが、叫んでいるような口元の形が、ほんのわずか、異なっているように見える。もしかして、とんでもないスローモーションで何かを言っている、ということなのだろうか?
(ん……まあ、いっか。あたしの頭も大丈夫そうだし、あのひと、見た目ほど悪い存在じゃなさそうだし……)
そう裡で呟くと、ゆりは勉強机に戻ることにした。誰よりも、成績を上げる必要があるのだ。
ゆりは、医学部を目指している。
あの日……難病で大切な友人を失った、その葬儀の帰り道、ゆりは誓ったのだ。
(待っててもダメだから。誰かがいつか、治療法を開発してくれるのを待つんじゃなく、あたしがやる。見ててね。――――君……あれ?)
受験からずっと、勉強を始める前のルーチンになっていた心の言葉。その中の大切な名前を言えないことに気づいて、ゆりは愕然とした。
(誰だっけ……大切な人だったのに……絶対忘れちゃいけない人。ううん、忘れるなんてあり得ない名前を……私はどうして……)
慌てて、中学の卒業アルバムを取り出す。
探すのはクラスの集合写真だ。その右上に、たしか小さな窓になって、彼の姿があったはず……。
(ない。ない。え?? どうして???)
クラス名簿も隅から隅まで見たが、彼の名前はなかった。
しかし、そうなってくると、なんだか自分の記憶の方が間違っているような気がしてくる。
もしかして、そんな人はいなかったのではないか、と。
小学校からの同級生で、中学二年の終わりに十万人に一人という難病を発症し、入退院を繰り返して、卒業を待たずに天に召された少年。
初恋の相手でもある彼の夢は、皮肉なことに子供を救う医者になることだった。
だが、アルバムに写真が無いと気づいた今、鮮明に思い出せたはずの、彼の顔すらおぼろげになっていく。あの少年は、自分の妄想の産物だったのだろうか?
(でもおかしい……じゃあ、あたしは何で医学部なんか目指していたんだろう……?)
頭を抱え込んだゆりは、何気なく見下ろした裏路地に、黒い人影を見つけて息を呑んだ。
(誰……? こっち見てる……)
カーテンに、五センチほどの隙間があった。
そこから見える裏路地に、その人影は佇んでいた。街灯の明かりと闇の境目に、身じろぎもせず。黒っぽい服装、という以外は、性別も年齢も定かではない。だが、確実にゆりのいるこの二階の窓を見上げている。
知り合いにしては、こんな深更に訪ねてくるのはおかしい。
これまで出会ったことは無いが、あれが変質者とかストーカーとかいうものなのかと、背筋に冷たいものを感じたゆりは、慌ててカーテンを閉め直し、部屋の電気を消した。