18-1 悪女
「ボンッ」
鈍い音が車内に響く。
樋潟総司令が、黒塗りの専用車が発進するなり、窓ガラスに握った手を叩きつけたのだ。
だが、防弾処理された窓ガラスはヒビ一つ入ってはいない。逆に叩きつけた右手が激しく痛んだ。
樋潟は、その痛みからとも、怒りからともとれるような小さな唸り声を上げた。
「そ……総司令!? 何かお気に障ることでも?」
運転手の隣に乗る補佐官が、驚いてバックミラーをのぞき込み、声を掛ける。
「いや。すまない。君に対してじゃない。自分に……いや、この世界に腹が立ってね……」
軽く手を上げて言った樋潟の表情は、これまでになく暗かった。
Gドラゴニックを作り上げた『Gサイバネティクス計画』は、まさに樋潟が心血を注いだものであった。
単なる戦闘力だけでなく、外部からの干渉を徹底して排除した独立管制システムと、それを守り抜くアクティブ防御システムを備えている。最新の機動兵器をあっさり葬ったGでも、その巨獣王を撃退した黄金の天使でも、正面から戦って負けるとは思えなかった。
天使が今、Gドラゴニックを破壊せよと要求してきたのは、この現状を打開できる唯一の切り札である証拠ではないのか。
それにしても、天使の戦略は巧妙であった。
人間は、自分が晒されていない脅威には極めて鈍感だ。地球の裏側で、どれほどの殺戮が行われていようと、たとえ世界の破滅が進行していようと、それが目の前に来るまでは、あまり恐怖を感じない。そんなことよりも明日の仕事や食事の方を大事と考えてしまうのだ。
だが逆に、身近な脅威には極めて弱い。
タロット消滅から既に二十二時間が経過した今、あらゆる生物が死に絶え、黒い塵と化したエリアは、もう北アメリカ大陸を完全に覆い尽くしている。
この塵の正体が一種の有機ナノマシンであることは、MCMOの研究班が突き止めていた。が、その対策は見つかっていない。自己増殖する有機ナノマシンを食い止める術は、MCMOにはもちろん、樋潟の知る限り地球上のどの国にも無い。
それだというのに、日本人がパニックを起こさずにいたのは、別に冷静な国民性だからではない。想像を遙かに超えていて、実感できない危機が、あまりにも遠くで起こっているからだ。
そこへ突如発生した恐竜群が、状況を大きく動かしてしまった。
たしかに、大型の機動兵器では町や人に危害を加えずに戦うことは難しいが、恐竜は数が限られている。つまり、これまでやって来た巨獣対策と大差ないはずだ。
だが、人々が恐怖したのは黒い塵ではなく、恐竜の方だった。
それも分からなくはない。恐竜は巨獣と違い、どこにでも現れたからだ。地球上の現生生物が変異した巨獣は、変異の過程も発生状況も把握されているのに対し、恐竜は何の前触れも原因も無く、突如街中に現れた。数に限りも無く、出現に法則性も無い。
高層ビルや地下施設などの建造物内に現れた例もあり、そうなってくると避難所もシェルターも意味が無いことになる。
日本政府は恐怖に屈し、Gドラゴニックの即時破壊を求めてきた。
国連の組織であるMCMOは、これを拒否することもできたが、アメリカの惨状を見た多くの国々が、すでに天使に対して白旗を掲げてもいる。いまや国連は機能を失いつつあった。
何より、恐竜の被害が広がり続ける日本を、日本人である樋潟は見捨てることが出来なかったのだ。
だが、そうと決まれば早い方がいい。今も人々は恐竜の襲撃を受け続けているのだから。
「補佐官。Gドラゴニックの機能を完全に停止させる。高濃度カリウム溶液注入の準備を命令してくれたまえ」
言い終えて、樋潟は大きくため息をついた。
G細胞に毒は効かない。どんな毒成分であろうと、細胞が正常に働いている限りは、対応し、無毒化してしまうのだ。だから、代謝しきれない量のカリウム溶液を、緊急用の注入口から注入するしかない。強アルカリ性のカリウム溶液五百トン。それだけで理論上は、Gドラゴニックの生体部分の多くが壊死するはずであった。高出力レーザーによる焼殺は、その後の仕上げになる。
「総司令!? Gドラゴニックを格納している、つくばの地下研究所より連絡です!! カリウム溶液の注入口が見つからない、と!!」
「バカな? 何を言ってるんだ!! 緊急注入口は重要な安全装置だ。完成検査時にチェックしないわけがない!!」
「し……しかし……」
「私が話す!! 担当者につなげ!!」
樋潟が叫ぶと、目の前にモニターが立ち上がり、作業服姿の男が映し出された。それがどうやら、格納庫の管理責任者であるらしい。
『ひ……樋潟総司令ッ!?』
あわてて最敬礼する男に、樋潟は叫ぶように言った。
「どこを探している!! 平和ボケして穴ひとつ見つけられんのか!?」
『いえ。場所は把握しているのです。しかし、穴がふさがってしまって……ご……ご覧ください!! 』
手持ちのデバイスで話していたのであろう。画面が揺れ動き、Gドラゴニックのものとおぼしき機体の表面が映し出された。そこにはたしかに、『INJECTION PORT』と示された金属製の蓋が開かれている。だが、肝心の注入口が無い。穴のあるべき場所は、見慣れた溶岩状の皮膚で塞がれていたのである。
「バカな……これでは、Gドラゴニックの機能を停止できない……」
『そうです。たとえ機械部分を破壊しても、生体部分が補填します。生体部分を殺すには、この自己再生する溶岩状の皮膚を突き破り、体内に高濃度カリウム液を大量に注入するしかない……』
それが不可能に近いことは、樋潟にもよく分かっていた。
いや、Gと戦った樋潟であるからこそ、その不可能さが手に取るように分かったのだ。
これが偶然であろうはずはない。完成時には確かにあった注入口が、生体部分の生長で塞がれる可能性に、気づかないはずはない。設計段階でそれを企み、実行できたただ一人の人物。その名が思わず樋潟の口から漏れた。
「…………そうか……松尾所長……ッ!!」
「なるほど。生命科学研究所の松尾所長なら、打開策を提示できるかも……っ」
のんきに手を打った補佐官を、樋潟は叱り飛ばした。
「馬鹿者!! そうじゃない!! これはすべてあの悪女!! 松尾所長の仕組んだことだ!! Gを殺させないためにな!! すぐに松尾所長を拘束しろ!! 彼女に命令してGドラゴニックを停止させるんだ!!」
*** *** *** ***
「じゃあ、Gドラゴニックは簡単には廃棄できないのか?」
「うん。緊急用のカリウム注入口は、完成検査後の数週間で、生体部品が拡張して埋めてしまう……そのように設計したから」
松尾紀久子と東宮照晃は、オフロードバイクに二人乗りで疾走していた。
ハンドルを握っているのは東宮。紀久子はその背中にしがみついている。二人ともフルフェイスのヘルメットをかぶっていた。
街は混乱状態であり、デバイスも持ってはいないが、大所帯で移動すれば目立つし、天使に気取られる恐れもあると判断して、二人で行動することにしたのだ。
意気込んでいた豊川は、最後まで紀久子といっしょに来たがったが、紀久子から咲良をよろしく頼むと言われ、泣く泣く折れた。
バイクは紀久子の自宅倉庫にあった、高千穂守里の乗っていたモノである。十年以上前の型だが、毎年紀久子が整備に出していたため、問題なく使えるようだ。
「しかし、樋潟総司令の顔が目に浮かぶぜ。おとなしそうな顔して、君もやるな…………相変わらず、って言ったら怒るか?」
苦笑交じりの東宮の台詞に、紀久子は何も言わなかった。
「……すまなかった」
続けてそう言った東宮に、紀久子が怪訝そうに聞き返す。
「何が……ですか?」
「いろいろ、だ。君がシュラインに操られて、ダイナスティスの核にされそうだった時、俺は何もしなかった。なのにその後も未練がましく、君を手に入れるために、君のニセモノを作って、伏見明君を陥れた。その時、Gも守里もいっしょに殺そうとした……」
「……そのこと、ですか」
「許してもらえるとは思っちゃいない。俺にとって恥ずべき記憶でもあった。だから、クェルクスに侵入する時、その時の記憶データを仮想障壁にぶつけて相殺したんだ」
「なのに……覚えてる?」
紀久子は目を丸くした。記憶、というものの性質をよくは知らないが、情報そのものを失って、記憶が残るとは考えづらかった。
「行為そのものの記憶は消えたさ。でも、それをやったという二次記憶は残っちまった……記憶ってのは不思議だな。思い出すたびに強化され、失ったはずの行為の記憶まで再現され始めたんだ。消し去ったはずのデータを修復……いや、この場合は捏造っていうべきか……しちまうんだからな。厄介なもんだな。人間の脳ってのは」
「あなたを許さない……って思っていたら、時を超えて現れたあなたに、声を掛けたり、会いに行ったりしなかったと思う」
「そう言ってもらえただけでも、こうして二十年後の世界によみがえった甲斐があったってもんだ」
東宮の背中が揺れた。笑っているようだが、その表情は紀久子には見えない。
「……で? なんで俺達、つくばじゃなくて、生命科学研究所に向かってるんだ?」
「言ったよね? 搭乗式の操縦システムを作ったって。そんなもの、本体に付けておいたらすぐバレる。だから――」
「なるほど。つまり合体式。自分の縄張りの中で作り上げておいたって寸法か」
「そう。でも、急がなきゃ。Gドラゴニックの格納庫の上部は、強アルカリ性のプールになってる。カリウム注入できなくても、プールの底を抜いて完全に浸してしまえば、機械部分と生体部分が同時に侵食される可能性はあるから」
「そうなりゃさすがにお陀仏ってことか。でも、最初っからそれをやられたらどうすんだよ?」
「それは最終手段でもあるの。地下研究所全体に強アルカリの液体が回るから。Gドラゴニックが死ぬ時は、同時にすべてのデータも消え去る時。そういうふうに設計しておいた。だから本部は、それだけは絶対にやりたくないはずなんだけど……」
「樋潟総司令は決断が早い。天使に降伏すると決断したら、そのくらいのことはすぐやる、だろうな。だけどその前に、紀久子、君を捕まえようとするんじゃないか?」
バイクは、クェルクスの緑に包まれた都市を駆け抜けていく。研究所周辺はいくつかのオフィスが点在する程度で、住宅や商店は少ないのだ。二十時を回っているこの時間帯、恐竜から避難する人々の姿は見当たらず、車も一台も通らない。
次第に緑が濃くなり、建造物が減っていく。一際大きな樹幹が左右の角にある交差点を右に曲がると、突き当たりが生命科学研究所であるはずだった。
「警察!? ……違う。特殊機動部隊……!?」
研究所前は、赤い回転灯のついた車両がいくつも並び、ダークブルーの制服を着た重装備の隊員達が固めている。
「やっぱ手が回ってたか。ちゃんとつかまってろよ」
門から建物まで距離は約三百メートル。
その間は、クェルクスがトンネル状に切り開かれ、身を隠すものとて無い。東宮は、ハンドルに覆い被さるように姿勢を低くし、アクセルを全開にした。
『来たぞ!! 電気ネット用意!!』
バズーカ砲のような砲を小脇に抱えた隊員が二人、走り出てくるのが見える。
暴徒鎮圧用のネットランチャーだ。身動きをとれなくさせるだけでなく、ネットに触れた部分に電気ショックを与えることも可能な装備である。
「女一人捕まえるだけのことに、えらく乱暴じゃないか」
東宮は静かに言いながらも、アクセルをゆるめようとはしない。
「撃てェッ!!」
隊長とおぼしき人間が叫んだ瞬間。
東宮は、思い切りバイクを左に倒し、トンネル状の壁になっているクェルクスの幹へ前輪を乗り上げさせた。
バイクを狙って発射されたネットは、完全に空振りである。
そのままトンネルの壁面を駆け抜けたバイクは、緊急車両の頭上を飛び越し、正面玄関へと続くコンクリート製の階段の手前に着地した。
「避けただと!? 後ろだ!! 後方を狙え!!」
慌てて振り向こうとする隊員達の足元を、一陣の風のように東宮が駆け抜け、ほとんどを転倒させた。
かろうじて振り向いた隊員たちも、それぞれ首筋や顎に一撃ずつ食らって昏倒する。
いつの間にかバイクを降り、それを一瞬でやってのけた東宮の身体能力は、常人のそれではなかった。
「行け!! ここは俺が食い止める!!」
「なんで!? 東宮先輩……その力は……っ!?」
バイクの傍らに立ち、紀久子が叫ぶ。
「俺はまだ、シュライン細胞の影響下にある!! そういう状態で再生されたんだ!! 並みの人間よりは……やれるぜ!!」
そう言うと、悔しげな唸り声を上げて襲いかかってきた特殊部隊の隊員達を、次々と昏倒させていく。
紀久子は目をまん丸く見開いてから、深々と頭を下げた。
「東宮先輩……お願いします!!」
「まかせろ」
東宮は、向こうを向いたまま親指を立てた。
紀久子が踵を返し、生命科学研究所の中へと駆け込んでいく。東宮は、それをホッとしたような笑みと、少しの苦みの入り交じった表情で見送ると、こちらに火器を向け、遠巻きで構える機動隊員達へ向き直った。
「最初に言っておく。手加減はしてやる。だが、責任は持てねえ。死んでも恨むなよ?」